一沙は、本当に午前0時に家へ来た。私の携帯電話に連絡を寄越して。
『降りてきて』と、私の拒否なんて聞き入れようともせずに一方的に通話を切ってしまう。
 なんだよ、あいつ。意味が分からない。大体、こんな夜中に花火が上がるなんて嘘も甚だしい。寝たふりをしていようか、とも考えてみるけれど窓の外を覗けば、見慣れた薄色のポロシャツがある。
 あぁ、待ってるし。しかも、私の部屋は電気が点いてるから起きていることはバレバレだ。
 私は、お母さんの部屋に届かないよう慎重に部屋の戸を開けた。そろりそろりと階段を降りて玄関のドアも静かに開けて、閉める。鍵がかかる音までは二階に聴こえない……かもしれない。そうやって少しの緊張感を味わいながら、目の前で佇む一沙を見やった。

「お母さん、大丈夫だった?」

 言葉とは裏腹にまったく心配していない軽々しい口調だ。

「大丈夫なんじゃない? でも、バレたら絶対に怒られるんだけど」
「その時はごめん」

 無責任だ。でも、不思議と私の顔は締まらない。少し、緩んでしまう。夜の匂いを鼻の奥に取り入れれば、どうにも気分が浮ついていく。暗さのせいで一沙が私の表情を読み取ることはなかった。それは私も同じで、一沙がどんな顔をしているのか分からない。

「じゃ、行こっか」

 そう言いながら私の手首を掴む。途端に、彼の熱が私の体温に混ざった。夜のせいか、それがなんだかくすぐったくて……気持ち悪い。でも、振りほどくことはせずにそのまま一沙に引っ張られて歩く。

「別に、手引かなくても良くない?」
「だって怖いし」
「怖いくせに夜中に外出るとか意味分かんない」
「なんか面白そうだったんだよ」
「矛盾」
「肝試し的なやつ。あれだって矛盾だよ。怖いけど楽しい、みたいな」
「……何それ」

 ただの幼馴染なのだから、一沙が私の手を掴むという行為が本当に気持ち悪い。でも嫌じゃなくて、心地は悪いけど、次第に「まぁいっか」という諦めが胸の中を巡った。
 夏の夜は昼間より温度は下がっているけれど、あちこちから聴こえる見えない虫の声は耳障りで昼間の熱気を連想させる。うっとうしい。
 この近辺は大きなマンションや一軒家が多い。そこから少し外れたら、昔ながらの溜池や木が見えてくる。地面は固いアスファルトだけど、あんまり整備は行き届いていない。
 夏草の森、とは小学校の遠足なんかで使われるだだっ広い公園のこと。家が近所なら普段でも子供が出入りするし、私も少なからず「穴場」みたいなものは知っていた。かくれんぼに最適な茂みがある。その奥には広くて静かな湖が――

「湖から花火が見えるんだよ」

 突然、黒の視界に彼の声が浮かぶ。前を行く一沙は少し振り返って私を見た。

「ねぇ、その花火ってさ、なんでこんな夜中に上がるの? 本当に花火が上がるの? なんでそれを一沙が知ってるの?」

 思わず矢継ぎ早に訊く。でも、一沙はクスクスといたずらに笑うだけで答えてくれない。だから私の機嫌は悪くなる。

「大体、花火を一緒に見たい、とか。本当に意味分かんない」
「分かんなくていいよ、別に。ただ、一緒に見るなら蓮がいいなって思っただけだし」

 何よそれ。そんなことを恥ずかしげもなくサラリと言ってしまうのが、無性にムカついて仕方ない。

「私のこと、好きなの?」

 そんなバカな質問をしてしまう始末だ。

「好きだよ?」
「それは、何? 友達として?」
「ほかに何かある?」
「……こいびと、みたいな」
「そういうの、僕は分かんないや」

 私も分かんないけどさ。

「うーん……でも、森山とか橋本が、女子の胸がどうの、誰なら付き合えるかなんて話してる」
「一沙のクラスの?」
「そうそう。あいつら、中学に上がった途端にそうやって言いだすもんだからさ。それまで女子なんか興味ねぇって言ってたくせにね。僕はまったくそういうの考えてなかったから、疎外感みたいなのはあるよ」
「ふーん?」
「急に色気づいちゃってさ。僕がいつまでも子供、みたいな言い方をしてくるんだ」
「一沙だって声変わりして背も伸びたじゃん」

 私よりも大人になってきたくせによく言うわ。

「ううん。そりゃ、体は成長してしまうけれど僕の中身は変わらないよ。自分のことを『俺』って呼べないし、お母さんのことも『おふくろ』って呼べない。大人になれないんだ」
「何その基準」
「でもさ、そういうことだと思うよ。大人になるって」

 そういうものなのか、大人って。
 私の中で「大人」というのは、なるべくしてなるものだ。とにかくハタチになれば大人の仲間入り。その年齢を越えさえすれば、どこまでも自由になれるはずだ。
 そんな風に考えていると、一沙が「あ」と声を上げて、何やら付け足すように言った。

「でもね、僕らはそれの準備中なんだよ。だから、子供でもないんだ」

 それはなんだか少しだけムキになったような言い方だった。それがどうにも、夕方の私と重なって見えてしまう。
 なんだ、一沙も同じなんだ。ちょっと見た目が変わっただけで中身はそのまま。
 私は、腕を掴む一沙の細い手首を触って握った。彼の肩が少しだけ上がる。

「……くすぐったい」

 文句が飛んできた。今度は私がクスクス笑う。

「一沙だって私の手首握ってるし」
「……蓮が急に指を伸ばすから」
「びっくりした?」
「した」

 ふふふっ。思わず笑い声を漏らした。