『待っていました。高竹真吏』
女の声がした。
『冷です。私の一部は確かに返してもらいました。先の暴走したAIは熱です。熱によって失われたパーツも戻りました。よって人間をお返しします』
黒猫ネマが立ち上がりそわそわしている。
あの青年によく見せていた仕草だ。
『ヒューマノイドを素手で倒せはしなくなりました。普通の人間です』
壊れた培養缶の奥の隠れた培養缶が、培養終了のランプを点滅させている。
黒猫が走っていく。
扉が開き、大量の蒸気が立ち上る。
その中から人影が表れ身を屈める。
湯気の中からやがて肩に黒猫を乗せた青年の姿を見つけた。
「高竹真吏」
真吏は涙ぐむ。
「フルネームで呼ばないで」
真吏は赤ん坊を抱いたまま青年に近づき、青年もまた真吏に近づいた。
「生まれ変わっても、また私を好きになってくれるのよね?」
「ああ。何度でも」
青年は自分の子供と妻に腕を回す。
肩から飛び降りた黒猫は夫婦の足元に躯や顔を擦り付け、喉を鳴らしていた。
鷹人は護衛業を廃業し志鳥の喫茶店で本格的に働き始めた。
あくまで店を引き継ぐための修行と、現経営者に釘を刺されている。
鷹人は厨房でヒューマノイド清白と供に調理していた。
店内には真吏の他、有秀と注文待ちの華がいる。
「年上にこだわりがあったはずなのに、年下君と一緒になるとはね」
真吏が赤ん坊を抱いている。
彼女は喫茶店を手伝うかたわら、仕事量は減らしたもののジャーナリストとして活動している。
「お父さんがいなくとも、ぼくが育ててやったんだがな」
有秀がミルクを慣れた手つきで作っている。
皮肉まじりの口調の彼が一番、赤ん坊を可愛がって面倒をみているようだ。
「温度も完璧だぞ」
出来上がったミルクをテーブルに一端置くと真吏の手から赤ん坊を、さっさと奪い、だが優しくあやしながらミルクを与え始めた。
「旨いか?たくさん飲めよ」
「弟くんは、すっかり保育士さんね」
注文待ちの華が感心している。
有秀は育児のベテランのようだ。
「それなんだよな」
有秀が赤ん坊を見つめながら云った。
「いまだに保育士の方が良かったんじゃないかと、思う時があるんだよなあ」
高校卒業後、彼は看護学校へ進学した。
真吏の妊娠から出産、育児の流れに少年は感銘を受け将来の職業に結びつけることを決めた。
「有秀君だったら、保育士さんにもなれるんじゃない?」
「そうか?やってみるかな」
優しく真剣な眼差しでミルクを与える少年は、口は悪くとも根は穏やかである。
明るい兄の面影を残しつつ青春を謳歌しているようだ。
「お待たせしました」
清白が華のテーブルにパンケーキと紅茶のセットを運んできた。
ミントの葉が添えてあり、美しい盛り付けだ。
紅茶はガラスのティーポットに淹れてある。
「ありがとう。あなたも、だいぶ馴染んだわね」
「はい。マスターのおかげです」
その志鳥は今日はいない。
今日に限らず外出している時間が増えたようだ。
「もう引退?」
華がパンケーキを切り分けで口に運ぶ。
「いえ。それはまだですが、渕脇会長と新しいヒューマノイド開発をされるそうです。特別顧問だとか」
新しいヒューマノイドを開発しているという。
「悪いオジサン科学者がふたり、何か企んでいるわけね」
真吏がため息をつくと華がカカか、と笑った。
「まあ料理の味も、当の昔にお兄ちゃんに抜かれているし。ボケ防止にちょうどいいんじゃない?」
パンケーキをペロリとたいらげ、ガラスポットから同じく透明なガラスティーカップに熱い紅茶を注ぐ。
それを飲み一息つくと、華の携帯型電話が鳴った。
耳に当てる。
「渕脇さんとこの、あなたね。……譲渡会の手伝い?いいわよ。いつやるの」
葦澤攻からの電話のようだ。
通話を切った華は、紅茶を飲み干す。
「保護猫の譲渡会やるみたい。私も協力させてもらうわ。ここの猫もどきは、拾われてラッキーだったわねえ」
鷹人に拾われた黒猫ネマは、華から去勢手術を受けた。
「前より人懐こくなった気がします、ネマ」
華は頷く。
「性格が穏やかになることは多いわね。あのお兄ちゃんも丸くなって。修行期間に何かが取れたみたい」
華は鷹人がなぜ姿を消していたのかは知らない。
喫茶店の料理の研究で海外に行っていたことに表向きの理由だ。
華は椅子から立ち上がる。
「世帯を持つと、柔らかくなるのかもね。私も考えてみるかあ」
華は代金を払うと店を出て行く。
その後ろ姿を見送り、有秀が口を開いた。
「葦澤攻って奴いるだろ?渕脇会長の秘書の。そいつ、華先生にアタックしてるらしいぜ」
赤ん坊のミルクを与え終え肩に赤ん坊の頭を乗せ優しく背中をさすり、ゲップを出すようにうながしている。
動物好きの性格が惹き付けているのか、葦澤は何かと理由をつけて華と会っているらしい。
「そっかあ。葦澤君は、積極的だね」
真吏が笑う。
華の病院の受付と助手のイケメン二人が葦澤を気に入っていることも、真吏は知っていた。
「鷹人は意気地なしの上に、奥手です」
ヒューマノイド清白が華の使った食器を片付ける。
「でもまあ、そこが鷹人君の良いところでもあるから」
真吏が云うと有秀は口笛を鳴らす。
「あんた普通に、のろけるな。おまえの母さんと父さん、ラブラブだぞ?」
背中をさすり続けていると、ようやくゲップが出た。
大きな音が店内に響く。
「うお、でけぇ。おまえもお腹いっぱいだよな。色々と」
「どういう意味よ」
真吏が顔を赤くさせ口を尖らせている。
ふたりのやり取りを聴きながら清白はテーブルの片付けを済ませ、厨房へ戻っていく。
厨房内では鷹人が黙々と、新メニューを考え調理している。
「ネマを見てきます」
鷹人は頷いた。
エプロンを取り二階にある鷹人の使っていた部屋へ向かう。
今は二人は真吏のマンションで暮らしているが、いずれ引っ越して来る予定だ。
喫茶店には黒猫ネマも連れて働きに通っている。
荷物の少なくなった鷹人の部屋で仕事終わりをネマは待っている。
ほとんど使われなくなったベッドの上で、ネマは前足を曲げて香箱座りで、うたた寝していた。
清白の足音と気配を察すると耳を動かし瞳を開いた。
欠伸をすると躯を伸ばし近づいてくる。
清白が膝を曲げて絨毯の上に座ると、喉を鳴らしながら飛び乗り背中を丸めて再び瞳を閉じる。
黒猫の背中を清白は、そっと撫でた。
耳を澄ますと一階での喫茶店の内容は聞き取らないものの、話し声や調理器具や食器の音が聞こえてくる。
「幸せとは、こういう物なんでしょうか。あなたも私も普通の生命体ではありませんが、一緒の平穏が楽しくて美しいです」
黒猫も清白の言葉に賛同したようだった。
鷹人と真吏の子供は、完全には人間ではないのかもしれない。
だが、少なくともここの人間たちは、そんなことは何の問題にならない。
「私は幸せです」
美しい白い手が黒猫を撫でた。
風が吹き時は流れて。
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清白《スズシロ》と黒猫ネマが外で日向ぼっこをしている。
「あなたと私だけになってしまいましたね」
清白が膝の上の黒猫を撫でた。
老衰で亡くなった志鳥を見送った後、彼の計らい通りに清白はバーナ重工業の研究室に入りメンテナンスを受けている。
それからまた時間が流れ鷹人と真吏、有秀もいなくなった。
鷹人と真吏の子供も、成人して土地を離れている。
そのまた子供を連れてたまに会いに来てくれることが、今の一人と一匹の唯一の楽しみだ。
「あなたの種族は今の時代、長生きしても二十年だそうですが。もう百年以上になりますね」
バーナ重工業研究室の中庭は薬草や花々がよく管理手入れされていて、とても気持ちがいい。
「でもそろそろ、眠そうですね。私もです」
清白の黒猫を撫でる手がゆっくりになった。
黒猫は目を瞑り喉をゴロゴロと鳴らしている
「また皆さんと会えるでしょうか。また会いたい。……マスター……」
清白の手が止まる。
その少し後にゴロゴロの音が止まる。
「……」
小さな声で黒猫が鳴き声をあげる。
呼吸が止まる。
風が清白の髪を揺らし、黒猫の髭と毛並みが揺れた。
一人と一匹は幸福そうに眠っているように見えた。
夢の中で再会を果たしているちがいない。
様々な運命と偶然、出会いを果たし地上に産まれた全ての生命達にバラードを捧げる。
『咎人と黒猫に捧ぐバラード』終わり