そして、私が結婚の為に家を出る日がやって来ました。
「今までお世話になりました。」
「伊賀の家に行っても、元気に頑張るんだよ。」
「はい。」
夫が亡くなってから、実の娘のように可愛がってくれたお義父さんとお義母さん。
私はこの家から嫁ぐのが、一つの喜びでした。
「和弥ちゃんの事は、心配しないで。私達がちゃんと面倒見るから。」
「はい……」
なんだか不思議な気持ちになりました。
1か月後には、和弥を迎えに来ると言うのに。
そして悟志さんがやってきて、私はいよいよ家を出ました。
「では、和弥君をお願いします。」
「はいよ。」
悟志さんも和弥の事を心配そうに言っていました。
「さあ、行こう。加恵。」
「はい、悟志さん。」
振り返ると、お義父さんとお義母さんと一緒に、和弥が玄関に立っていました。
私は和弥の前に、膝間づきました。
「和弥。直ぐに迎えに来るからね。」
「うん。」
その返事を聞いて、私は立ち上がり、悟志さんの元へ行きました。
「もういいかい?」
「ええ。」
すると悟志さんは、私の手を繋いでくれました。
なんだか恥ずかしくて、うつむきながら二人で微笑み合いました。
全てが上手くいっている。
そう思っていました。
伊賀の家に行って、悟志さんと結婚して、しばらくしたら和弥も来て、親子三人幸せに暮らせるのだと思いました。
高坂の家から伊賀の家には、林の中を超えて行かなければ、いけませんでした。
緩やかな坂道を真っすぐ昇って、林の方に曲がった時でした。
遠くに見える、小さな点にしか見えない和弥を見て、私は急に不安を覚えたんです。
「ねえ、悟志さん。和弥はひと月すれば、こちらに来るんですよね。」
繋がれた手が、私の手をぎゅっと締め付けた。
「悟志さん?」
「……すまない。」
私はハッとしました。
このまま、和弥と生き別れになると。
私は、つないだ手を放しました。
「加恵?」
「嘘つき!」
そう叫んで、高坂の家に帰る事にしたんです。
話が違う。
和弥と別れるなんて、そんなの許せないって。
だけど急いで走った為か、途中で足がもつれてしまって、転んでしまって。
そこを悟志さんに捕まったんです。
「加恵、落ち着け。」
「嫌です!和弥!和弥!!」
遠くで、和弥が私を呼んでいる気がしました。
「和弥あああ!」
叫びにも似ていました。
とにかく名前を呼ぶ事で、少しでも和弥に近づきたかったんです。
「加恵。」
でも悟志さんが、放してくれません。
「加恵、加恵!」
少しでも前に進もうとする私を、悟志さんは抱きしめてこう言いました。
「和弥君をあの家に置いていくように言ったのは、お義父さんなんだ。」
「えっ……」
結婚を誰よりも喜んでくれた、あのお義父さんが!?
「高坂の家の、たった一人の、跡取りだからと言われて。」
私は、地面にある砂を掴みました。
和弥を取られたくない。
でも、高坂の家に受けた恩を思えば、和弥を置いていくしかない。
悔しくて、悲しくて、胸が引き裂かれるようでした。
「和弥……和弥……」
何度も何度も名前を呼んで、私の顔は涙でグチャグチャでした。
こんな涙に濡れた嫁、伊賀の家ではさぞ驚いたでしょう。
案の定、伊賀の家では大ごとになっていました。
これから嫁になるという者が、大泣きして来るものですから、新しいご両親は困ったでしょうね。
呆れたお義母さんは、『ウチに嫁ぐのは、嫌なの?』と言って、静かに違うと答えたのを思い出します。
とにかく顔を洗って、もう一度化粧をして、結婚式を執り行って。
その間も、小さな点にしか見えない和弥の事を、ずっと思い出していました。
「子供は高坂の家が、引き取って育ててくれるって言うんだろう?何をそんなに悲しい事があるんだい?」
そんな事をお義母さんに言われ、黙って下を向いていました。
「もしかしたら、子供に会いたいって言って、高坂の家に帰るかもしれないね。」
「母さん、加恵はそんな人じゃないよ。」
悟志さんは、必死に私をかばってくれましたが、私は本当に隙あらば、高坂の家に帰ろうとまで、思っていました。
「この歳でようやく、嫁を貰ったんだ。前の家に戻られちゃあ、困るんだよ。」
そう言って、お義母さんはしばらく、私達の家に泊る事になりました。
でも一夜を過ごすと、不思議なモノで、いつもの朝に戻ったように、朝食を作り、家族に出していました。
一つだけ違っていたのは、もう仕事を辞めて、家事をするように戻った事ですかね。
高坂の家に嫁いだ時は、何にも知らずに、お義母さんにいろいろと教えて貰ったのですが、今回はなにせ2度目ですから。
自分流に味付けをしたり、洗濯や掃除をしていました。
「それは、高坂の家のやり方だろう?伊賀の家には、伊賀のやり方があるんだよ。」
そう言ってお義母さんは、一から伊賀の家のやり方を、私に教え込むのでした。
ある時、洗濯物を干していると、お義母さんが私の名前を呼んで、庭先に置いてある椅子に、腰かけているのが見えたんです。
「加恵。自分の人生を、悔やんでいるかい?」
いつになく、優しい言葉でした。
「いいえ。仕方ないと思っています。」
後悔する事と言えば、和弥の事。
でも、高坂の家の事を考えると、置いて行く事も仕方ないと思っていました。
「そうかい。でも悔やんでばかりじゃダメだよ。これからの幸せも見つけないとね。」
私のお腹の中に、子供が宿っていると知ったのは、それから2週間後でした。
「やれやれ。子供ができれば、もう高坂の家にも、戻る事はないだろうしね。」
そう言ってお義母さんは、実家に帰って行くのでした。
それからしばらくして、私は男の子を産みました。
「和弥君の弟だ。和志と名付けよう。」
悟志さんがそう言ってくれた時には、ああ、和弥の事忘れないでいてくれたのだと、嬉しかったですね。
そんなある日。
生まれたばかりの和志を連れて、庭先の周りを散歩していた時でした。
「和志。あなたにはね、和弥というお兄ちゃんがいるのよ。」
その時でした。
ふと後ろの方から、視線を感じたんです。
辺りを見回すと、男の子がスーッと走って行くのが見えました。
「和弥?」
あの男の子は、和弥かもしれない。
和志を抱いたまま、必死に追いかけました。
でも追い付かずに、男の子はどんどん離れて行ったんです。
そんな時、ちょうど悟志さんが帰って来ました。
「和弥が!和弥が私に会いに来たんです!」
悟志さんは、後ろを振り返って、キョロキョロと辺りを見回しました。
「俺が見てくるよ。」
「お願いします。」
悟志さんからカバンを預かると、彼は和弥を追いかけて、走って行きました。
「和志、お兄ちゃんと会えるといいね。」
和弥に会いたい。
そればかりを考えていました。
1時間程経ったところ。
悟志さんは、家に戻ってきました。
「やっぱり和弥君だったよ。」
「それで?」
「呼んだんだが、途中で逃げられてしまった。」
逃げられた?
私は、がっくりと力が抜けました。
どうして、和弥。
悟志さんの事、忘れてしまったのかしら。
この時、和弥に会えなかった事を、しばらく私は引きずっていました。