そろそろ、桜が咲く頃。
僕にも、春がやってきた。
「聞いたよ、和弥。結婚するんだって?」
「ああ。」
同じ病院の医者で、友人でもある司は、その噂を聞きつけ、早速僕のところへ来てくれた。
ちょうど、お昼休みの時間で、椅子に座りお茶を飲んでいた僕は、窓から見える桜を見ていた。
「相手は、彩か。羨ましいな。」
「何がだよ。」
「何がって、彩はこの病院の一人娘なんだぜ?将来は、安泰だろ。」
「そうだな。婿養子になるからな。」
それを聞いた司は、近くの椅子を持って、僕の隣に陣取った。
「それも聞いたぞ。お前が婿養子になるって話。」
「本当だよ。」
「誰も嘘だなんて、疑ってはいない。」
司は、自分のお茶を淹れ、僕にも残りを継ぎ足してくれた。
「ところで、一つ確認しておきたいんだが。」
「ああ。」
「君は、一人息子ではないのか?」
僕は、窓の外に立っている、一本の桜の木を見た。
その木は一本だけで、太く長く、そして優しく生きている。
「そうだったかな。忘れていたよ。」
「何だよ、それ。」
そういう司も、ある病院の一人息子だと言っていた。
司も彩を好きだった事があったが、彩もこの病院の跡取り娘だと知り、諦めたといつか言っていた。
「なまじ、自分の人生を振り返るのは、ちょっと苦手な性分でね。」
小さい頃から、医者になりたい訳ではなかった。
ただ懸命に勉強していたら、こうなっていたと言う方が、正しかった。
「そう言われてみれば、和弥から昔の話を、聞いた事がないな。」
その時だった。
「和弥さん。お弁当、持って来ましたよ。」
「おう。」
妻になったばかりの彩が、病院にお弁当を届けてくれた。
ちなみに彩も、同じ医者の学校を出ていて、3人共学友だった。
「彩。結婚、おめでとう。」
「ありがとう、司さん。」
司はここぞとばかりに、自分の座っていた椅子を彩に渡し、自分は立ん坊を決めた。
「はい。今日もいっぱい食べてね。」
「ありがとう。」
彩が持って来たお弁当の蓋を開けると、これまた豪勢なおかずが並んでいた。
「いいなぁ、愛妻弁当。」
「司も早く、結婚しろよ。」
「相手がいれば、直ぐにでも結婚してるさ。」
半分嫌みを交えながら、みんなで笑っていた。
そして司は、あの話を持ちだした。
「そうだ。彩だったら、和弥の昔話を聞いた事があるのか?」
「昔話?」
「生い立ちだよ、和弥の。」
彩は、きょとんとしていた。
「そう言えば、聞いた事なかったわ。和弥さんの事知っているのは、医学校の時からよ。」
「へえ、そうなんだ。秘密主義なのか?和弥。」
「そう言う訳じゃないよ。」
僕は、彩が作ってくれたお弁当を、食べ始めた。
彩の手料理は、いつも美味かった。
僕が彩と結婚したいと思った理由の、一つだ。
「なあ、教えろよ。」
司が、急にせがんできた。
「いいわね。話して。」
彩も司の話に乗った。
「あまり、いい話でもないよ。」
そう前置きして、僕はまた、窓の外の桜を見た。
そうだ、あの時もちょうど、桜が咲いている時だったっけ。
「そうだな。どこ辺りから話し始めれば、いいかな。」
僕は、お弁当を食べながら、記憶の糸を辿っていた。
幼い頃の記憶と言えば、まず最初に思い出すのが、母と祖父母と暮らしていた頃だ。
父は、僕が幼い頃に死んで、母と二人。
父方の祖父母の家に、そのまま住まわせて貰っていた。
僕が小学生になると、祖父母は母に、再婚を勧めた。
「何も、この家に囚われる事はないんだよ。」
だが母の答えは、こうだった。
「その気はありません。」
僕はそんな母が、いまも父と一緒にいるようで、嬉しかったのを覚えている。
学校の友達でも、父親が再婚して新しい母親ができたけれど、上手くいっていないと言う話を、聞いた事があるからだ。
僕は、いつまでも父と母と一緒。
そんな事を思っていた。
その内、当てにしていた父の遺産も減ってきて、母は働きに出た。
役所での仕事だった。
それから、1年程した頃だったか。
母が、一人の男を連れて来た。
「君が、和弥君か。宜しくな。」
大きな、筋肉質の体。
父親の面影を知らない僕にとっては、大人の男を見る最初の機会だった。
僕が外で遊んでいると、祖父母はその男を、歓迎しているようだった。
「和弥、よかったね。新しいお父さんができて。」
そんな事を、祖母が言った。
「ばあちゃん、あの人誰?」
「伊賀悟志さんって言ってね。お母さんと再婚する人だよ。」
僕はその時、ふーんとしか思わなかった。
新しいお父さんって言われても、ピンとこなかったし。
再婚って言われても、何の事だがよく分からなかった。
それでも、何となく一緒に暮らすのかなとは思っていた。
その伊賀悟志さんと言う人は、毎日のように家に遊びに来て、僕と遊んでくれたからだ。
野球のキャッチボールもしてくれたし、一緒に風呂に入ったりもした。
僕はだんだん、父親ってこういうモノなんだと思うようになっていった。
そして、ある日の事だった。
「和弥、待ってるから。後から来てね。」
綺麗な着物を着た母親はそう言って、伊賀のおじさんと行ってしまった。
その時、祖母が泣いているのを見た。
「ばあちゃん。何で泣いてるの?」
祖母は涙を拭くと、僕を抱きしめた。
「可哀相な和弥ちゃん。」
そう言って祖母はまた、泣き始めた。
それがどんな事かも分からずに、僕は祖母の胸の中で、茫然としていた。
そして祖母に促され、家に入ろうとした時だ。
「和弥!」
母親の声が、聞こえた気がした。
僕は祖母の元を離れ、数百メートル走った。
「お母さーん!」
大きな声で呼んでも、返事はない。
空耳だったのかと思いながら、また家に戻った。
きっと母親は、迎えに来る。
それから僕は毎日、玄関の前で、母親を待ち続けた。
雨の日も、風の日も。
でも母親は、迎えに来なかった。
僕は、母親に捨てられたのだと、確信した。
しばらくは、僕の部屋で泣いて暮らしていたが、それも半年で落ち着いた。
そして1年くらい経った頃、僕はある想いに駆られた。
一目でいいから、母親に会いたい。
ある日僕は、祖父母の家を出て、母親が消えて行った道を、歩き始めた。
その道は林を超え、隣町に続いていた。
母親はきっと、この町にいる。
僕はそう感じて、隣町まで降りて行った。
でも、隣町のどこに住んでいるのか、分からない。
しばらく道なりに歩いても、それっぽい家は見つからない。
そうこうしているうちに、陽も沈みかかってきた。
僕は、もう家に帰ろうと、元来た道に戻ろうした。
その時だった。
遠くから、赤子が泣く声が聞こえてきた。
何かに引き寄せられるように、僕はその声を辿って行った。
すると、一軒の家の中から、赤子の鳴き声が聞こえて来た。
「さあ、もう泣かないで。」
その声に、ハッとした。
よく聞いた声。
きっとお母さんだと思った僕は、家の中を塀の隙間から覗き見た。
それは、間違いなく母親だった。
母親が、赤子を抱いていたのだ。
その瞬間、僕の中で信じていたモノが、一気に崩れた。
母親には、新しい家族がいる。
もう僕は、いらないんだ。
そう思ったんだ。