そしてそんな日が、1カ月も経った頃でしょうか。

家まで送ってくれた後、私が玄関に入ろうとした時、伊賀さんに腕を握られました。

「少し、お話いいですか?」

「はい……」

話なら送って貰える間に、散々したのにと思いながら、家の前まで来ると、伊賀さんは大きく息を吸いました。

「高坂さん。僕と交際して頂けますか?」

「えっ!?」

突然の申し出で、心の底から驚きました。

今までそんな素振りさえ、見せた事なかったのに。

「結婚は、交際してからゆっくり考えて下さればいいですから。まずは僕と一緒にこれからの時間を過ごしてみませんか?」

私は直ぐに返事できずに、黙って下を向いてしまいました。

「お返事は、明日でもいいですから。今日はこれで。」

そう言って帰って行った伊賀さん。
これはどうしたものかと、困りながら玄関を開けると、そこには年老いたお義母さんが、立っていました。

玄関先で何やってるんだと、怒られるかもしれない。

そう覚悟した時でした。

「あの人があんたと和弥を送ってくれる、役場の同僚の人でしょう?」

お義母さんは怒るどころか、真剣な目をしていました。

「はい、そうです。」

「ええ人そうじゃないかい。返事は明日でいいって言ってくれているのだから、今日一晩考えてみたら?」

話を聞いていたのか、私の背中を押す言葉でした。

「でも、結婚は……」

お互いいい歳でしたから、交際したら結婚の話になる。

それは、目に見えて分かっていました。

「それも、交際してからゆっくり考えればいいって、言ってたじゃろう?」
私は、息をゴクンと飲みました。

お義母さんは、私を本当の娘のように考え、真剣に悩み相談をしてくれていたんです。

もう私から、言う事はありませんでした。

「はい、一晩考えてみます。」

「そうかい。いい方向に話が進むといいねえ。」

そう言ってお義母さんは、奥の部屋へと歩いて行きました。


その夜。

私は伊賀さんの事を、考えていました。

優しくて頼りがいがあって、仕事もできる。

何より和弥と仲良くしてくれる。

結婚は、できないと断ればいい。


そして私は翌日。

伊賀さんに、交際する旨を伝えました。

「私でよければ、宜しくお願いします。」

「もちろん。」

これが人生で2番目の恋になるとは、思わずに。
こうして私と伊賀さんの交際が始まりました。

そう言っても、中身は一緒。

毎日、夕方になると一緒に家まで帰る。

変ったと言えば、両親ですかね。

家まで送っていった後、隣町まで帰らなければいけない伊賀さんを気遣って、よく夕食をご馳走してくれたんです。

「まあ、もう家族みたいなものでしょう。」

まだ結婚もしていないのに、そんな事言って、伊賀さんを囲んでは、みんなで笑っていました。


それから、1年した頃でした。

小学校も高学年になった和弥が、喧嘩して帰ってきたんです。

「どうしたの?和弥。その傷。」

「何でもない。」

「何でもない訳ないでしょう?お母さんに話してちょうだい。」

しばらくは黙っていると、伊賀さんが来てくれました。
「和弥君。お母さんには話しておいたほうがいいぞ。後で、相手のお母さんが、家に来るかもしれないからな。」

その言葉に驚いたのか、和弥は堰を切ったように、しゃべり始めました。

「僕は悪くない!相手が悪いんだ!」

「だから、何をしたの!」

「悪口を言うから、殴ってやった!」

「殴ったって……」

私は、気が遠くなりそうでした。

「加恵さん、しっかりして。」

そんな私を支えてくれたのが、伊賀さんでした。

「和弥君。どんなに腹が立っても、殴ってはいけないよ。悪口を言わてたんだって?どんな悪口だ。」

「……言いたくない。」

「和弥君。」

私達を疎ましく思ったのか、和弥は背中を向けてしまいました。

「本当は、そんなひどい悪口じゃなかったんじゃないか?」
「そんな事ない!」

「だったら、何て言われたのか、教えてくれ。」

和弥は、口をへの字に曲げて、仕方なく口を開きました。

「……卑しいって言われた。」

「え?」

「父親のいない子は、卑しいって言われた。」

私は伊賀さんと、顔を見合わせました。

「そんな事を言われたの。」

ただ病気で亡くなっただけだと言うのに、さっきまでの表情は忘れて、私も腹立たしくなってきました。

「よし!相手の親が乗り込んできたら、俺が言ってやる!」

「おじさんが?」

伊賀さんは太ももを叩くと、一緒に怒ってくれました。


そんな様子が、もう家族3人のようで。

私はこのままの時間が、ずっと続けばいいと思ったんです。

その気持ちは、伊賀さんにも伝わったようで、結婚しようと言われたのは、その数日後でした。
ただ私には、一つだけ気がかりな事がありました。

よく再婚する時には、子供は連れていけないと聞いていたので、和弥と別れる事だけは、何とか避けたかったんです。

「和弥も一緒に、連れていけますか?」

確か、そんな事を伊賀さんに伝えたと思います。

答えは、「もちろん。」でした。

こうして私と伊賀さん、今の夫と結婚が決まり、私達は高坂の家を出て、伊賀さんの家に行く事になりました。


結婚式を翌日に控えた日。

伊賀さんは、意外な言葉を言いました。

「和弥君は、最初高坂の家に、置いていこう。」

「どうしてですか?」

「さすがに、お母さんがお父さん以外の男性と結婚するのは、見たくないだろう。落ち着いてから、迎えに行こう。」

私は伊賀さんの事を、すっかり信じていましたから、和弥の事もそうしようと思ったんです。
そして、私が結婚の為に家を出る日がやって来ました。

「今までお世話になりました。」

「伊賀の家に行っても、元気に頑張るんだよ。」

「はい。」

夫が亡くなってから、実の娘のように可愛がってくれたお義父さんとお義母さん。

私はこの家から嫁ぐのが、一つの喜びでした。


「和弥ちゃんの事は、心配しないで。私達がちゃんと面倒見るから。」

「はい……」

なんだか不思議な気持ちになりました。

1か月後には、和弥を迎えに来ると言うのに。


そして悟志さんがやってきて、私はいよいよ家を出ました。

「では、和弥君をお願いします。」

「はいよ。」

悟志さんも和弥の事を心配そうに言っていました。

「さあ、行こう。加恵。」

「はい、悟志さん。」

振り返ると、お義父さんとお義母さんと一緒に、和弥が玄関に立っていました。
私は和弥の前に、膝間づきました。

「和弥。直ぐに迎えに来るからね。」

「うん。」

その返事を聞いて、私は立ち上がり、悟志さんの元へ行きました。

「もういいかい?」

「ええ。」

すると悟志さんは、私の手を繋いでくれました。

なんだか恥ずかしくて、うつむきながら二人で微笑み合いました。


全てが上手くいっている。

そう思っていました。

伊賀の家に行って、悟志さんと結婚して、しばらくしたら和弥も来て、親子三人幸せに暮らせるのだと思いました。


高坂の家から伊賀の家には、林の中を超えて行かなければ、いけませんでした。

緩やかな坂道を真っすぐ昇って、林の方に曲がった時でした。

遠くに見える、小さな点にしか見えない和弥を見て、私は急に不安を覚えたんです。