兄の方は、みかんを嬉しそうに向いて、最初の一房を妹にあげた。
その一房を食べて、妹は目をキラキラさせながら食べた。
「美味しい。」
僕は、自然に微笑んだ。
「もう一個、あるよ。」
袋から取り出したみかんを、妹は今度こそ受け取ってくれた。
「美味しいね、お兄ちゃん。」
「ああ、そうだな。お兄さん、ありがとうございます。」
お兄さん。
その言葉が、僕の胸の中に響いた。
泣きそうなくらい、嬉しかった。
名前を知らない僕への、一般的な呼びかけで会った事は、分かっていた。
でも弟に、兄さんと呼ばれて、泣いてしまう程嬉しかったんだ。
僕も二人の一員になりたくて、袋からみかんを取り出した。
皮を剥いて、一房ずつ食べていると、本当の兄妹のように思えた。
「お兄さんは、どこまで行くの?」
妹の方が、僕に聞いて来た。
「東京だよ。」
「東京!?東京だって。お兄ちゃん。」
「すごいなぁ。」
二人共、僕の事を尊敬の目で見ていた。
「東京の大学に受かってね。これから、一人暮らしをするんだ。」
すると二人は、顔を見合わせた。
「実は僕達にも、会った事のない兄がいるんです。」
ハッとした。
この二人は、知っているんだ。
僕の存在を。
「兄も、東京の大学に受かって、一人暮らしをするんだって、聞きました。もしかしたら、お兄さんと会うのかな。」
目に涙が溜まった。
君たちの、その会った事のない兄と言うのは、僕の事だよ。
それを言いたくて言いたくて、仕方がなかった。
「そうかもしれないね。」
そう言って、二人が途中の駅に降りるまで、僕達は限りなく話したんだ。
それ以降、僕は医師の道を進んだ。
休みになっても、一度も実家には戻らなかった。
ああ、そうだ。
帰ったと言えば、祖父母のお葬式ぐらいだった。
ずっと、一人だった。
一人を選んだと言えば、そうかもしれない。
でもそんな僕の事を、一人にしてくれない女性が現れた。
それが彩だった。
彩は、僕が一人でいると、お弁当を持ってきたと言って、ずっと僕の側にいるんだ。
休憩中も、『お話しましょう。』と言ってね。
最初は変な女だと思っていたけれど、だんだんそれが彩の優しさなんだと気づいた。
だから、婿養子になってくれないかと言われた時も、迷う事なくはいと答えた。
優しい彩の両親も、優しいに違いないと思ってね。
僕が話し終えると、彩も司も、茫然と口を開いていた。
「いや、すまん。てっきり、エリートだと思っていたから。まさかそんな生い立ちだとは、思っていなかったよ。」
司は、気を遣っているのか、口を手で覆っていた。
だけど、彩は違っていた。
彩は涙目で、俺の手を握ってくれた。
「よく話してくれたわね。」
一つだけ気にかけていたのは、二人共こんな話をして、僕から離れて行ってしまわないかという事だった。
「……貧乏な育ちだったのだと、僕を蔑まないのか?」
「まさか!返って、あなたの芯の強さを見た気がするわ。」
彩は、涙を拭きながら、僕を励ましてくれた。
「俺だってそうだ。貧乏がなんだ。そんな事で、おまえの元から離れて行くもんか。」
僕の中で、心が揺さぶられた気がした。
「ありがとう、二人共。」
司と彩、二人と握手をし、僕は初めて安堵の気持ちを覚えた。
そして彩が、僕を抱きしめてくれた。
「私達、幸せになりましょう。」
彩のぬくもりが、僕に伝わって来た。
「ああ。」
この時僕は、彩と結婚して、本当によかったと思った。
この人とだったら、温かい家庭を築ける。
心の底から、そう思ったんだ。
「何かあったら、真っ先に俺に相談してくれよ。」
司もそう言ってくれた。
高校時代まで、ろくに友達もいなかった僕だ。
大学に入って、一番最初に話しかけてくれた奴。
それが司だった。
今は、司に大感謝しかない。
彩と一緒になれたのも、彼のおかげなんだから。
「あっ、ごめんなさい。私、もう帰る時間だわ。」
彩が急に立ち上がった。
「ゆっくりしていけばいいいのに。」
僕は、彩の手を握った。
「これから買い物に行かなきゃいけないのよ。」
彩は握った手を、握り返してくれた。
「じゃあ、また後で。」
「ああ。」
彩が帰った後、司は僕の腕を突っついた。
「おい、仲がいいな。」
「羨ましいだろ。」
「ああ。さすがは恋愛結婚だな。」
司は、はぁっとため息をつきながら、僕達の夫婦の仲を羨ましがっているようだった。
その時だ。
「掛川先生、回診のお時間です。」
看護婦が、司を呼びに来た。
※敢えて昔の呼び方にしています
「ああ、そんな時間か。」
司は、聴診器を持って立ちあがった。
「そうだ。和弥も来るか?」
「僕も?」
内科医の僕は、術後の回診などしない。
少しだけ興味があった。
「ああ、一緒に行ってもいいか?」
「いいよ。」
僕は立ち上がると、司と一緒に部屋を出た。
「今日行くのは、目の手術をした患者だ。」
「白内障か?」
「ああ。今日はまだ包帯をしているけれど、明日には取れるんじゃないかな。でも難しいオペだったよ。半分手遅れだったんだ。でも、生き別れた息子の顔を見たいって、難しいオペに臨んだんだ。すごいよな。」
「なるほど。それはすごいな。」
部屋を出て、2階へ上がり、真ん中の部屋に入ろうとした時だ。
「高坂先生、この患者さんの事ですが。」
「ああ。」
病室に入る前に、看護婦に呼び止められてしまった。
「先に入ってるぞ。」
「ああ。」
僕はカルテを見ながら、看護婦に一つ一つ丁寧に、患者の事を指示した。
「ありがとうございます。」
「ああ、頼むよ。」
そして僕が、病室に入ろうとした時だ。
見覚えのある人が、目に包帯をしていた。
僕は驚いて、廊下の壁に隠れた。
まさか、司の言っている患者って、その人じゃないだろうな。
ドキドキしながら、司を見ると、やはりその患者に寄って行く。
「どうですか?伊賀さん、目の調子は。」
「ええ。お陰様で少し痛みますけど、調子はいいです。」
この声。
そして、伊賀と言う名字。
まさか、まさか……
いや。いくら何だって、そんな事ある訳ないと、自分に言い聞かせた。
「今日は、桜が綺麗ですね。明日には見えるといいですね。」
司が言うと、その人は見えるはずのない、外を眺めた。
「そう言えば、あの時も桜が咲いていたわ。」
その人は、ぽつりぽつりと昔の事を、話し始めた。
今の夫と知り合う前。
私は、夫の実家で暮らしていたんです。
「加恵と申します。今日から宜しくお願いします。」
まだ若いみそらで結婚した私を、義理のお父さんとお母さんは、温かく迎えてくれました。
しばらくして、息子の和弥が生まれて、私達は幸せな生活を送っていました。
「和弥、和弥。可愛いなぁ。」
夫はご煩悩で、いつも和弥を可愛がってくれました。
少し大きくなって、一人で歩けるようになった時も。
もう少し大きくなって、散歩に行けるようになった時も。
もっと大きくなって、小学校に入学した時も。
夫は、和弥を可愛がってくれて、こんな生活が、ずっと続いていくのだと、思っていた矢先でした。
夫が、脳卒中で倒れて、そのまま亡くなってしまったんです。