あまり眠れなかったまま迎えた翌朝、アラームが鳴るまでベッドの中でゴロゴロと過ごしていた。
一週間の最後である金曜日は、普段ならどの平日よりも心が軽く感じられるはずなのに、今日はまるで月曜日の朝のように憂鬱だった。
五分前に止めたアラームのスヌーズ機能が働き、再び軽快な音が鳴り始める。
スマホに指を這わせてダラダラと音を止めると、大きなため息をひとつ零したあとで体を起こした。
「おはよ、ツキ」
ベッドの下にいたツキが膝の上に乗ってきたことで笑みが浮かび、いつものように体をすり寄せてくるツキの頭を優しく撫でる。
重怠い体に鞭を打つように着替えると、両親とツキと一緒に朝食を済ませてから身支度を整えた。
「行きたくないな……」
登校拒否をするようになった頃みたいに全力で逃げ出したくなっているわけではないけど、なかなか足が玄関に向かわない。
そんな私の気持ちを察するように、膝の上にいたツキが開けっ放しにしていたドアから出て行った。
慌てて後を追うと、ツキは玄関にちょこんと座っていて……。
「……わかったよ。じゃあ、いってきます」
ようやくローファーを履いた私に、「ニャア」と可愛い声が返ってきた。
学校に着くまでの間も気が重く感じたけど、門を潜ってからは心に鉛を埋め込まれたような気がするほどさらに気が重くなった。
靴を履き替える間も、教室までの道のりでも、考えているのは誰に挨拶をするかということ。
今まで誰とも関わりを持とうとしなかった人間が、突然自分から挨拶なんてしても、返ってくる反応は目に見えている。
良くても訝しげな視線を向けられ、最悪の場合には白い目で見られるかもしれない。
いわゆる陰キャラ扱いの私は、学校カーストでいう最下層にいて、いじめられこそしていないものの、好かれていないことはわかっている。
ひとりが好きなのだと思っている人もいるだろうけど、どちらにしてもいつもひとりでいる人間に話し掛けられたら身構えてしまうだろう。
しっかりとグループができている女子は、特にそういったことに敏感なのはよくわかっている。
もし、あの時みたいに失敗したら……。私はまた……。
考え過ぎたせいか不安に襲われた私は、教室の手前で足を止めてしまった。
後ろにいた生徒たちは、誰ひとり私のことなんて気にも留めずに私を追い抜いていく。
あちこちで響いている明るい笑い声が、やけに遠くから聞こえてくるような気がした。
ざわざわとした喧騒は耳に届いているのに、頭の中は真っ白になってしまいそうだった。
無意識のうちにスクールバッグの持ち手をぎゅっと握っていて、その手は微かに震えている。
どうするか決めていないのに思わず踵を返し、とにかくその場から離れようとしたけど……。図ったようなタイミングで予鈴が鳴り響き、聞き慣れたその音にハッとした。
顔を上げると廊下にいた生徒たちが教室に入っていく姿が視界に入り、私ひとりだけが反対を向いていることに気づいた。
きっと、このまま逃げることはできる。
帰らなかったとしても、保健室にでも行って休ませてもらえばいい。
だけど……。
『ほんの少しでも変わりたいって気持ちがあるなら、千帆は変われるよ』
逃げ道を探し始めていた私の脳裏に過ったのは、昨夜のクロの言葉。
柔らかな笑みで紡がれたそれには、そっと背中を押すように、優しく見守ってあげると言うように、温もりが込められていたことを思い出す。
こんな私のことを信じていると言わんばかりに笑っていた彼の顔が浮かんだ今、このまま歩き出すと後悔するような気がして……。ゆっくりと深呼吸をしたあと、再び体の向きを変えて足を踏み出し、目の前の教室に入った。
蒸し暑い空気が漂う教室はいつも通りで、誰も私のことなんて気に掛けていない。
本鈴直前で埋まりつつある席にはクラスメイトたちが座っていて、小さな深呼吸をしてから教室内を見回してみれば少しだけ冷静さを取り戻せた。
笑い声や気怠げな不満が飛び交う中、机と机の間を通って自分の席に向かう。
鉛がついていたのかと思うほど重かった足取りはさっきよりも幾分かはマシになっていて、席に着くとようやくちゃんと呼吸ができたように思えた。
バッグから出した教科書を机の中に移動させながらチラリと右隣の席を見ると、堀田さんが一限目の英語の教科書を出そうとしているところだった。
背が高くてショートカットがよく似合うボーイッシュな雰囲気の彼女は、バレー部の練習で校内の外周コースを走っているせいか肌は程よく日焼けしている。
堀田さんとは、一年生の時にも同じクラスだった。
入学した当初は様子を探るようにこんな私にもわりと話し掛けてくれる子がいて、彼女にも数回声を掛けられたことがある。
もっとも、私は壁を作って会話を避けていたし、当時はまだ中学時代に刻まれた恐怖がしっかりと心に残っていたこともあって、質問にすらまともに答えられなかったのだけど……。
本鈴が鳴り、担任の先生が出欠を取り始めた。
その間も、堀田さんのことをチラチラと見てしまう。
挨拶をする相手がいない私は、とりあえず隣の席の彼女に話し掛けてみようと思ったけど……。それは自分で考えていたよりもずっとハードルが高くて、ただひと言『おはよう』と声に出せばいいだけなのになかなかできない。
必要以上のコミュニケーションを取ってこなかった私にとっては、誰でも簡単にできているはずの“挨拶をする”ということですら難しく、そもそも声を掛けるタイミングがわからないのだ。
本来なら、登校して顔を合わせた段階で済ませるべきことなのだろう。
だけど、堀田さんとは視線すら合わなくて、完全にそのタイミングを逃してしまっていた。
だからと言って、他に自分から挨拶をするような相手もいない。
つまり、私の中の選択肢は今のところ彼女ひとりだけ。
別にクロが見ているわけではないのだから、適当に誤魔化してこのステップをクリアしたことにもできるとは思う。
彼の超能力のことはさておき、自己申告するのだから、それが本当でも嘘でも私の言いたいように伝えることはできるし、だったらできたことにすればいい。
それなのに……諦めかける度にクロの笑顔が脳裏を掠め、心の片隅にあった小さな罪悪感がみるみるうちに膨らんでいって、嘘をつくことに抵抗を感じてしまった。
たったひと言を紡げずに開いては閉じる唇は緊張で震えそうになっていて、こんなつまらないことに不安を感じるくらいなら、いっそのこと適当に誤魔化したかったのに……。私の頭の中で笑っている彼の真っ直ぐな瞳がまるで私の心を揺さぶるようで、そうさせてくれそうにないことに気づいた。
ひと呼吸置いて、大丈夫、と自分自身に言い聞かせ、ゆっくりと深呼吸をする。
一気に言ってしまおうと決めて勢いよく隣を見ると、堀田さんと視線がぶつかった。
その瞬間、予想外のことに焦って、喉元に用意していたはずの言葉を飲み込んでしまう。
挨拶をすればいいだけなのに、要件以外のことを話そうとするだけで緊張して冷静になれないなんて、とても情けなく思えて……。
「なに?」
視線を泳がせながら必死に思考を働かせようとしていると、彼女が怪訝そうに尋ねてきた。
「え?」
「さっきからずっと、チラチラ見てたでしょ?」
声を掛けられたことに驚いて目を小さく見開いた私に、堀田さんは表情を変えずに小さなため息混じりに零した。
「あ、別に……」
咄嗟に答えて瞳を伏せたあとで、すぐに心が後悔に包まれた。
とりあえず挨拶をしてしまえばどうにかなったのかもしれないのに、自分からチャンスを棒に振るなんて……。いくら人と関わりたくないとは言え、予想以上に厄介な性格にため息が漏れそうになる。
ただ要件を伝えるだけならできるのに、自分から歩み寄る姿勢を見せて声を掛けることは思っていたよりも難しくて、早くも心が折れかけているのがわかった。
「……そう」
程なくして堀田さんがぽつりと零し、その声に反応したかのように机にへばりついたままの視線が泳ぎ出す。
ここで諦めて開き直ってしまえば、こんな憂鬱な気持ちは捨ててしまえるのだろうか。
クロとの約束なんてなかったことにしてもう公園にも行かなければ、彼だって私のことなんて気にしないかもしれない。
私が公園に行かなければ学校に来るとまで言われたけど、よくよく考えれば本当にそんなことをする確率は低いような気もして、こんなにも悩む意味はないのではないかと思えてくる。
だけど……それはつまり、脳裏に焼きついたままのクロの笑顔がもう見れなくなるのかもしれないということだと気づき、同時に胸の奥がチクチクと痛んだ。
別に、それでもいい。
そんな風に思うはずだったのに、心の中だけで漏れたのはまったく違う声。
なんか、それは……。
“嫌”と続きそうになったことにハッとして、慌ててそこで言葉を止めたけど、予想もしていなかった自分自身の反応に戸惑ってしまう。
クロに振り回されてばかりなのが、悔しかったからなのか。
それとも……もうずっと、外では私のことを見てくれる人がいなかったからなのか。
ふと浮かんだ理由が本心なのかはわからなかったけど、次の瞬間には顔を上げて右隣を見ていた。
すると、ひと呼吸の差で同じように顔を上げた堀田さんと目が合い、すぐに怪訝な表情を向けられた。
「ねぇ、やっぱりなにかある──」
「おっ、おはようっ……!」
彼女の口から疑問が出し切られる前に発したのは、昨夜から頭の中で何度もシュミレーションしていた言葉。
それは、なんてことのないただの挨拶。
だけど、必要に迫られなければ私から声を掛けることなんてないことはクラスメイトのほとんどが知っているから、堀田さんが驚きのあまり言葉を失っているのが見て取れた。
彼女に見せられた反応が予想通りとは言え、ようやく勇気を出せた私の心は不安でいっぱいになった。
見開かれていた堀田さんの瞳が瞬きを始め、彼女が状況を把握しようとしていることに気づく。
いつの間にか鼓動は速くなっていて、心拍数が上がった分だけ緊張している自分自身を落ち着かせることに必死だった。
しばらくしても反応がないことに怖くなって、とうとう堀田さんから視線を逸らしてしまった。
「……おはよう」
その直後、たしかに右隣から聞こえてきた声に目を大きく見開き、勢いよく顔を上げて彼女を見た。
だけど……堀田さんは、もう私から視線を外して反対側の席の子と話していて、なんでもいいから会話を繋げようと思っていたのに、楽しげな雰囲気を目の当たりにして声を掛けることはできなかった。
正直、せっかく挨拶を返してもらえたのに、それだけで終わってしまったことが残念だった。
昨日までの私ならそんな風に感じることはなかったはずで、自分自身の心境の変化に戸惑いが芽生える。
その原因は間違いなくクロで、たった数日でこんな感情を抱かせられたことに驚いた。
挨拶を返してもらえたことに安堵したし、少しだけ嬉しくもあったけど、彼はどんな反応を見せるのだろう。
ふと感じた疑問に対して私が予想した答えはいいものではなくて、思わずため息が落ちた──。
いつも通りに帰宅して、ツキに今日のことを話してから課題や復習に取り掛かり、一段落したところでツキと夕食を摂ることにした。
今日は、冷蔵庫に母が作ってくれたオムライスとシーザーサラダが入っていた。
我が家のオムライスはいつも薄めに焼いた卵が巻かれていて、私はふわトロの卵に包まれた物よりも慣れ親しんだこのオムライスの方が好きだ。
「ちょっとだけ出掛けてくるね」
夕食の片付けをしたあとでツキに声を掛けると、いつものように玄関まで見送ってくれたツキの頭を優しく撫でてから家を出た。
日が長くなってきたけど、二十時になるとさすがに空は藍色に染まっている。
昼間に降っていた雨はやみ、今はよく晴れていて、月も星も顔を覗かせていた。
そんな空模様とは裏腹に、私の心は憂鬱な色が広がっている。
結局、朝一番に堀田さんと挨拶を交わしてから、彼女とも他の子たちとも会話をすることはできなかった。
私なりに声を掛けようと努力はしたけど、一日中タイミングを窺っていただけだったのだ。
唯一、数学のノートを集めるためにクラスメイトたちに声を掛けて回っていた日直の子から話し掛けられたけど、その機会すら上手く活かせずに『はい』のひと言で終わってしまった。
「千帆!」
公園に着いていつものベンチに向かうと、私の姿に気づいたクロが笑顔で立ち上がって手を振ってきた。
「よっ」
「……うん」
軽い挨拶をした彼にどう返せばいいのかわからなくて小さく頷けば、眉を寄せて笑われた。
「相変わらず愛想がないな」
クロの眉間には皺が寄っていたけど、それが苦笑とは違う楽しそうな笑顔だというのがわかった時、なんだか少しだけホッとしている私がいた。
噴水の横の時計は八時五分を指していたけど、彼は特に気にする様子もなくベンチに座るように促してくる。
いつものように微妙に距離を取って座ると、クロは早速「どうだった?」と訊いてきた。
前置きもなく、最初から本題に入る彼は、結果を聞くのを心待ちにしていたのかもしれない。
そんな風に感じてしまい、答えたあとにがっかりされることが目に見えたせいでなかなか口を開けなかったけど……。
「誰かと挨拶できた?」
程なくして、クロが優しい声音で質問を紡いだ。
「……うん」
私を見つめる彼の視線を感じたけど、そこに視線を合わせることなく、伏せた瞳で短く答えるだけで精一杯だった。
理由はわからないけど、彼のがっかりした表情を見るのが怖かったから……。
「まさか、その相手って先生って言うんじゃないだろうなー」
冗談めかした明るい声は、私の気持ちを見透かしているようにも感じる。
クロのことだから本当は最初から結果はわかっているのかもしれない、なんて思ったけど、「違うよ」と小さく零した。
「じゃあ、誰と挨拶した?」
「隣の席の子。一年の時も同じクラスだったの」
訊かれていないことまで答えたのは、たぶん少しでも話を引き延ばしたかったから。
次に尋ねられる内容がわかっているからこそ、ほんの少しだけでも時間を稼ぎたかったのだ。
こんな足掻き方はまぬけだったのだろうけど、それでも彼の明るい声音が変わらないでいて欲しくて……。
「やればできるじゃん」
そんな言葉を掛けられたことで、その想いはますます強くなってしまった。
「そのあとはなにか話した?」
だけど、やっぱり矢継ぎ早に次の質問が飛んできて、眉間に皺ができるのがわかった。
きっと、がっかりされる。
そしてまた、厳しい言葉を掛けられるに違いない。
「なにも話せなかった……」
それでも、なぜかクロに嘘をつくことはできなくて、彼の顔を見ることはできないままだったけど、ひと呼吸置いてから正直に答えていた。
自然と身構えていたのは、防御反応だったのかもしれない。
クロの声音ががっかりすることも、彼に厳しいことを言われることも、予想はできたけど……。できることならどちらも聞きたくないのが素直な気持ちで、だからこそそれに備えるように構えたのだ。
それなのに……。
「そっか」
程なくして耳に届いたのは、優しいだけの声。
「よく頑張ったな」
しかも、クロは続けてそんなことを言ったのだ。
予想外過ぎる台詞に驚いた私は、思わず顔を上げて見開いた瞳で彼を見た。
私に向けられているのは穏やかな笑みで、その表情がクロの言葉が本心であることを物語っている。
「なんだよ、その顔」
予想とは違う状況を把握できずにいるのに、ふっと笑った彼にますます戸惑って混乱してしまう。
「なんで、がっかりしないの……?」
考えてもわからない疑問を口にすれば、クロは瞳を柔らかく緩めた。
「千帆は、ずっと誰とも関わらないようにして来たんだ。他の人にとっては“たかが挨拶”だったとしても、千帆にとってはそうじゃないだろ。それがわかってるのに、がっかりなんてしない」
そして、優しさに溢れた答えが、それと同じくらいの優しい声音で紡がれた。
「……っ」
咄嗟に唇を噛み締めたのは鼻の奥でツンとした痛みを感じたからで、それがどういう行為に繋がるのかを知っているからこそ、零れそうなものをこらえることに精一杯だった。
「変な顔」
「うるさいっ……!」
強い口調で返したのはただの強がりで、クスクスと笑うクロが私が泣きそうだったことに気づいているのはわかりながらも、弱いところを見せたくなくて必死に平静を装った。
私のことを気に掛けてくれる人なんて、両親以外にはいないと思っていた。
そうするように仕向けたのは自分自身だからそれでいいと思っていたのに、こんな風に私のことを見てくれる人がいることが泣きそうなほどに嬉しくて……。ガラにもない感情に心が動かされたことに戸惑って、どんな顔をしているのかも、どんな顔をすればいいのかもわからなくなる。
「きっと、次は上手く話せるよ」
ありふれた慰めの台詞なのに、彼の声で零されるとそんな気がしてくる。
昨日みたいに厳しくされたら反抗していたのかもしれないけど、優しくされることに慣れていないからどうすればいいのかわからなくて……。
「だから、諦めるなよ」
僅かに欠けた月の下で、隣から聞こえてきたクロの声に小さく頷いていた──。
一週間の最後である金曜日は、普段ならどの平日よりも心が軽く感じられるはずなのに、今日はまるで月曜日の朝のように憂鬱だった。
五分前に止めたアラームのスヌーズ機能が働き、再び軽快な音が鳴り始める。
スマホに指を這わせてダラダラと音を止めると、大きなため息をひとつ零したあとで体を起こした。
「おはよ、ツキ」
ベッドの下にいたツキが膝の上に乗ってきたことで笑みが浮かび、いつものように体をすり寄せてくるツキの頭を優しく撫でる。
重怠い体に鞭を打つように着替えると、両親とツキと一緒に朝食を済ませてから身支度を整えた。
「行きたくないな……」
登校拒否をするようになった頃みたいに全力で逃げ出したくなっているわけではないけど、なかなか足が玄関に向かわない。
そんな私の気持ちを察するように、膝の上にいたツキが開けっ放しにしていたドアから出て行った。
慌てて後を追うと、ツキは玄関にちょこんと座っていて……。
「……わかったよ。じゃあ、いってきます」
ようやくローファーを履いた私に、「ニャア」と可愛い声が返ってきた。
学校に着くまでの間も気が重く感じたけど、門を潜ってからは心に鉛を埋め込まれたような気がするほどさらに気が重くなった。
靴を履き替える間も、教室までの道のりでも、考えているのは誰に挨拶をするかということ。
今まで誰とも関わりを持とうとしなかった人間が、突然自分から挨拶なんてしても、返ってくる反応は目に見えている。
良くても訝しげな視線を向けられ、最悪の場合には白い目で見られるかもしれない。
いわゆる陰キャラ扱いの私は、学校カーストでいう最下層にいて、いじめられこそしていないものの、好かれていないことはわかっている。
ひとりが好きなのだと思っている人もいるだろうけど、どちらにしてもいつもひとりでいる人間に話し掛けられたら身構えてしまうだろう。
しっかりとグループができている女子は、特にそういったことに敏感なのはよくわかっている。
もし、あの時みたいに失敗したら……。私はまた……。
考え過ぎたせいか不安に襲われた私は、教室の手前で足を止めてしまった。
後ろにいた生徒たちは、誰ひとり私のことなんて気にも留めずに私を追い抜いていく。
あちこちで響いている明るい笑い声が、やけに遠くから聞こえてくるような気がした。
ざわざわとした喧騒は耳に届いているのに、頭の中は真っ白になってしまいそうだった。
無意識のうちにスクールバッグの持ち手をぎゅっと握っていて、その手は微かに震えている。
どうするか決めていないのに思わず踵を返し、とにかくその場から離れようとしたけど……。図ったようなタイミングで予鈴が鳴り響き、聞き慣れたその音にハッとした。
顔を上げると廊下にいた生徒たちが教室に入っていく姿が視界に入り、私ひとりだけが反対を向いていることに気づいた。
きっと、このまま逃げることはできる。
帰らなかったとしても、保健室にでも行って休ませてもらえばいい。
だけど……。
『ほんの少しでも変わりたいって気持ちがあるなら、千帆は変われるよ』
逃げ道を探し始めていた私の脳裏に過ったのは、昨夜のクロの言葉。
柔らかな笑みで紡がれたそれには、そっと背中を押すように、優しく見守ってあげると言うように、温もりが込められていたことを思い出す。
こんな私のことを信じていると言わんばかりに笑っていた彼の顔が浮かんだ今、このまま歩き出すと後悔するような気がして……。ゆっくりと深呼吸をしたあと、再び体の向きを変えて足を踏み出し、目の前の教室に入った。
蒸し暑い空気が漂う教室はいつも通りで、誰も私のことなんて気に掛けていない。
本鈴直前で埋まりつつある席にはクラスメイトたちが座っていて、小さな深呼吸をしてから教室内を見回してみれば少しだけ冷静さを取り戻せた。
笑い声や気怠げな不満が飛び交う中、机と机の間を通って自分の席に向かう。
鉛がついていたのかと思うほど重かった足取りはさっきよりも幾分かはマシになっていて、席に着くとようやくちゃんと呼吸ができたように思えた。
バッグから出した教科書を机の中に移動させながらチラリと右隣の席を見ると、堀田さんが一限目の英語の教科書を出そうとしているところだった。
背が高くてショートカットがよく似合うボーイッシュな雰囲気の彼女は、バレー部の練習で校内の外周コースを走っているせいか肌は程よく日焼けしている。
堀田さんとは、一年生の時にも同じクラスだった。
入学した当初は様子を探るようにこんな私にもわりと話し掛けてくれる子がいて、彼女にも数回声を掛けられたことがある。
もっとも、私は壁を作って会話を避けていたし、当時はまだ中学時代に刻まれた恐怖がしっかりと心に残っていたこともあって、質問にすらまともに答えられなかったのだけど……。
本鈴が鳴り、担任の先生が出欠を取り始めた。
その間も、堀田さんのことをチラチラと見てしまう。
挨拶をする相手がいない私は、とりあえず隣の席の彼女に話し掛けてみようと思ったけど……。それは自分で考えていたよりもずっとハードルが高くて、ただひと言『おはよう』と声に出せばいいだけなのになかなかできない。
必要以上のコミュニケーションを取ってこなかった私にとっては、誰でも簡単にできているはずの“挨拶をする”ということですら難しく、そもそも声を掛けるタイミングがわからないのだ。
本来なら、登校して顔を合わせた段階で済ませるべきことなのだろう。
だけど、堀田さんとは視線すら合わなくて、完全にそのタイミングを逃してしまっていた。
だからと言って、他に自分から挨拶をするような相手もいない。
つまり、私の中の選択肢は今のところ彼女ひとりだけ。
別にクロが見ているわけではないのだから、適当に誤魔化してこのステップをクリアしたことにもできるとは思う。
彼の超能力のことはさておき、自己申告するのだから、それが本当でも嘘でも私の言いたいように伝えることはできるし、だったらできたことにすればいい。
それなのに……諦めかける度にクロの笑顔が脳裏を掠め、心の片隅にあった小さな罪悪感がみるみるうちに膨らんでいって、嘘をつくことに抵抗を感じてしまった。
たったひと言を紡げずに開いては閉じる唇は緊張で震えそうになっていて、こんなつまらないことに不安を感じるくらいなら、いっそのこと適当に誤魔化したかったのに……。私の頭の中で笑っている彼の真っ直ぐな瞳がまるで私の心を揺さぶるようで、そうさせてくれそうにないことに気づいた。
ひと呼吸置いて、大丈夫、と自分自身に言い聞かせ、ゆっくりと深呼吸をする。
一気に言ってしまおうと決めて勢いよく隣を見ると、堀田さんと視線がぶつかった。
その瞬間、予想外のことに焦って、喉元に用意していたはずの言葉を飲み込んでしまう。
挨拶をすればいいだけなのに、要件以外のことを話そうとするだけで緊張して冷静になれないなんて、とても情けなく思えて……。
「なに?」
視線を泳がせながら必死に思考を働かせようとしていると、彼女が怪訝そうに尋ねてきた。
「え?」
「さっきからずっと、チラチラ見てたでしょ?」
声を掛けられたことに驚いて目を小さく見開いた私に、堀田さんは表情を変えずに小さなため息混じりに零した。
「あ、別に……」
咄嗟に答えて瞳を伏せたあとで、すぐに心が後悔に包まれた。
とりあえず挨拶をしてしまえばどうにかなったのかもしれないのに、自分からチャンスを棒に振るなんて……。いくら人と関わりたくないとは言え、予想以上に厄介な性格にため息が漏れそうになる。
ただ要件を伝えるだけならできるのに、自分から歩み寄る姿勢を見せて声を掛けることは思っていたよりも難しくて、早くも心が折れかけているのがわかった。
「……そう」
程なくして堀田さんがぽつりと零し、その声に反応したかのように机にへばりついたままの視線が泳ぎ出す。
ここで諦めて開き直ってしまえば、こんな憂鬱な気持ちは捨ててしまえるのだろうか。
クロとの約束なんてなかったことにしてもう公園にも行かなければ、彼だって私のことなんて気にしないかもしれない。
私が公園に行かなければ学校に来るとまで言われたけど、よくよく考えれば本当にそんなことをする確率は低いような気もして、こんなにも悩む意味はないのではないかと思えてくる。
だけど……それはつまり、脳裏に焼きついたままのクロの笑顔がもう見れなくなるのかもしれないということだと気づき、同時に胸の奥がチクチクと痛んだ。
別に、それでもいい。
そんな風に思うはずだったのに、心の中だけで漏れたのはまったく違う声。
なんか、それは……。
“嫌”と続きそうになったことにハッとして、慌ててそこで言葉を止めたけど、予想もしていなかった自分自身の反応に戸惑ってしまう。
クロに振り回されてばかりなのが、悔しかったからなのか。
それとも……もうずっと、外では私のことを見てくれる人がいなかったからなのか。
ふと浮かんだ理由が本心なのかはわからなかったけど、次の瞬間には顔を上げて右隣を見ていた。
すると、ひと呼吸の差で同じように顔を上げた堀田さんと目が合い、すぐに怪訝な表情を向けられた。
「ねぇ、やっぱりなにかある──」
「おっ、おはようっ……!」
彼女の口から疑問が出し切られる前に発したのは、昨夜から頭の中で何度もシュミレーションしていた言葉。
それは、なんてことのないただの挨拶。
だけど、必要に迫られなければ私から声を掛けることなんてないことはクラスメイトのほとんどが知っているから、堀田さんが驚きのあまり言葉を失っているのが見て取れた。
彼女に見せられた反応が予想通りとは言え、ようやく勇気を出せた私の心は不安でいっぱいになった。
見開かれていた堀田さんの瞳が瞬きを始め、彼女が状況を把握しようとしていることに気づく。
いつの間にか鼓動は速くなっていて、心拍数が上がった分だけ緊張している自分自身を落ち着かせることに必死だった。
しばらくしても反応がないことに怖くなって、とうとう堀田さんから視線を逸らしてしまった。
「……おはよう」
その直後、たしかに右隣から聞こえてきた声に目を大きく見開き、勢いよく顔を上げて彼女を見た。
だけど……堀田さんは、もう私から視線を外して反対側の席の子と話していて、なんでもいいから会話を繋げようと思っていたのに、楽しげな雰囲気を目の当たりにして声を掛けることはできなかった。
正直、せっかく挨拶を返してもらえたのに、それだけで終わってしまったことが残念だった。
昨日までの私ならそんな風に感じることはなかったはずで、自分自身の心境の変化に戸惑いが芽生える。
その原因は間違いなくクロで、たった数日でこんな感情を抱かせられたことに驚いた。
挨拶を返してもらえたことに安堵したし、少しだけ嬉しくもあったけど、彼はどんな反応を見せるのだろう。
ふと感じた疑問に対して私が予想した答えはいいものではなくて、思わずため息が落ちた──。
いつも通りに帰宅して、ツキに今日のことを話してから課題や復習に取り掛かり、一段落したところでツキと夕食を摂ることにした。
今日は、冷蔵庫に母が作ってくれたオムライスとシーザーサラダが入っていた。
我が家のオムライスはいつも薄めに焼いた卵が巻かれていて、私はふわトロの卵に包まれた物よりも慣れ親しんだこのオムライスの方が好きだ。
「ちょっとだけ出掛けてくるね」
夕食の片付けをしたあとでツキに声を掛けると、いつものように玄関まで見送ってくれたツキの頭を優しく撫でてから家を出た。
日が長くなってきたけど、二十時になるとさすがに空は藍色に染まっている。
昼間に降っていた雨はやみ、今はよく晴れていて、月も星も顔を覗かせていた。
そんな空模様とは裏腹に、私の心は憂鬱な色が広がっている。
結局、朝一番に堀田さんと挨拶を交わしてから、彼女とも他の子たちとも会話をすることはできなかった。
私なりに声を掛けようと努力はしたけど、一日中タイミングを窺っていただけだったのだ。
唯一、数学のノートを集めるためにクラスメイトたちに声を掛けて回っていた日直の子から話し掛けられたけど、その機会すら上手く活かせずに『はい』のひと言で終わってしまった。
「千帆!」
公園に着いていつものベンチに向かうと、私の姿に気づいたクロが笑顔で立ち上がって手を振ってきた。
「よっ」
「……うん」
軽い挨拶をした彼にどう返せばいいのかわからなくて小さく頷けば、眉を寄せて笑われた。
「相変わらず愛想がないな」
クロの眉間には皺が寄っていたけど、それが苦笑とは違う楽しそうな笑顔だというのがわかった時、なんだか少しだけホッとしている私がいた。
噴水の横の時計は八時五分を指していたけど、彼は特に気にする様子もなくベンチに座るように促してくる。
いつものように微妙に距離を取って座ると、クロは早速「どうだった?」と訊いてきた。
前置きもなく、最初から本題に入る彼は、結果を聞くのを心待ちにしていたのかもしれない。
そんな風に感じてしまい、答えたあとにがっかりされることが目に見えたせいでなかなか口を開けなかったけど……。
「誰かと挨拶できた?」
程なくして、クロが優しい声音で質問を紡いだ。
「……うん」
私を見つめる彼の視線を感じたけど、そこに視線を合わせることなく、伏せた瞳で短く答えるだけで精一杯だった。
理由はわからないけど、彼のがっかりした表情を見るのが怖かったから……。
「まさか、その相手って先生って言うんじゃないだろうなー」
冗談めかした明るい声は、私の気持ちを見透かしているようにも感じる。
クロのことだから本当は最初から結果はわかっているのかもしれない、なんて思ったけど、「違うよ」と小さく零した。
「じゃあ、誰と挨拶した?」
「隣の席の子。一年の時も同じクラスだったの」
訊かれていないことまで答えたのは、たぶん少しでも話を引き延ばしたかったから。
次に尋ねられる内容がわかっているからこそ、ほんの少しだけでも時間を稼ぎたかったのだ。
こんな足掻き方はまぬけだったのだろうけど、それでも彼の明るい声音が変わらないでいて欲しくて……。
「やればできるじゃん」
そんな言葉を掛けられたことで、その想いはますます強くなってしまった。
「そのあとはなにか話した?」
だけど、やっぱり矢継ぎ早に次の質問が飛んできて、眉間に皺ができるのがわかった。
きっと、がっかりされる。
そしてまた、厳しい言葉を掛けられるに違いない。
「なにも話せなかった……」
それでも、なぜかクロに嘘をつくことはできなくて、彼の顔を見ることはできないままだったけど、ひと呼吸置いてから正直に答えていた。
自然と身構えていたのは、防御反応だったのかもしれない。
クロの声音ががっかりすることも、彼に厳しいことを言われることも、予想はできたけど……。できることならどちらも聞きたくないのが素直な気持ちで、だからこそそれに備えるように構えたのだ。
それなのに……。
「そっか」
程なくして耳に届いたのは、優しいだけの声。
「よく頑張ったな」
しかも、クロは続けてそんなことを言ったのだ。
予想外過ぎる台詞に驚いた私は、思わず顔を上げて見開いた瞳で彼を見た。
私に向けられているのは穏やかな笑みで、その表情がクロの言葉が本心であることを物語っている。
「なんだよ、その顔」
予想とは違う状況を把握できずにいるのに、ふっと笑った彼にますます戸惑って混乱してしまう。
「なんで、がっかりしないの……?」
考えてもわからない疑問を口にすれば、クロは瞳を柔らかく緩めた。
「千帆は、ずっと誰とも関わらないようにして来たんだ。他の人にとっては“たかが挨拶”だったとしても、千帆にとってはそうじゃないだろ。それがわかってるのに、がっかりなんてしない」
そして、優しさに溢れた答えが、それと同じくらいの優しい声音で紡がれた。
「……っ」
咄嗟に唇を噛み締めたのは鼻の奥でツンとした痛みを感じたからで、それがどういう行為に繋がるのかを知っているからこそ、零れそうなものをこらえることに精一杯だった。
「変な顔」
「うるさいっ……!」
強い口調で返したのはただの強がりで、クスクスと笑うクロが私が泣きそうだったことに気づいているのはわかりながらも、弱いところを見せたくなくて必死に平静を装った。
私のことを気に掛けてくれる人なんて、両親以外にはいないと思っていた。
そうするように仕向けたのは自分自身だからそれでいいと思っていたのに、こんな風に私のことを見てくれる人がいることが泣きそうなほどに嬉しくて……。ガラにもない感情に心が動かされたことに戸惑って、どんな顔をしているのかも、どんな顔をすればいいのかもわからなくなる。
「きっと、次は上手く話せるよ」
ありふれた慰めの台詞なのに、彼の声で零されるとそんな気がしてくる。
昨日みたいに厳しくされたら反抗していたのかもしれないけど、優しくされることに慣れていないからどうすればいいのかわからなくて……。
「だから、諦めるなよ」
僅かに欠けた月の下で、隣から聞こえてきたクロの声に小さく頷いていた──。



