翌日は塾がある木曜日で、授業が終わるのが二十一時前だから、二十時に公園に行くことは不可能だった。
クロは、私が月曜日と木曜日に塾に通っているということも知っていたけど、それを言われてももう驚かなかった。
彼が私のことをどれだけ知っているのかはわからないし、我ながら危機感が欠けているとは思う。
それでも、クロ自身に恐怖心は感じなくて、相手が強引だったにせよ、交わした約束は守るつもりだった。


今はまだ、やっぱり友達が欲しいとは思えない。
人と関わることで深く傷ついてしまう怖さを知っているから、消えないトラウマを抱えたままで変われるとも思えない。
ただ、クロの正論に言い返せなかったのは、頭ではわかっていたから……。
だから、駆け引きには腹が立ったし言い包められたようで不本意だけど、ひと晩が経った今は彼の提案に乗ってみてもいいかもしれないと思えるようになっていた。
もしかしたら、これもクロの手の内なのかもしれないし、私は彼に手のひらで転がされているのかもしれない。


「千帆!」


そう思うとやっぱりムカついたけど、公園の前で私のことを待っていたクロの笑顔を見た瞬間、不思議なことにそんな気持ちは忘れていた。
すっかり定位置になった公園のベンチに並んで腰掛けると、クロは「早かったな」と笑った。
噴水の傍に立っている時計はまだ二十一時半になっていなくて、思っていたよりも早く着いたことに気づく。


「走って来た?」
「そんなわけないでしょ。普通に歩いて来たよ」


本当は塾から駅までは早歩きしたし、駅の階段は駆け上がった。


「こんな暑い日に走るわけないじゃない」


電車を降りてからも足早に歩いていたような気もするけど、彼にはそんなことを知られたくなくて冷静に話した。
どんよりとした空のせいか、今日は一日中ジメジメとしている。
降りそうで降らない雨は、空気中に微かな匂いを漂わせていて、その存在を主張しているようだった。


「そっか」


小さく笑ったクロには、すべてお見通しだったのかもしれない。
本当なのか嘘なのかはわからないけど、彼は自分自身のことを超能力者だと謳っているのだから、訊くまでもないことだったのではないかと思う。


「あんまり時間ないし、とりあえず始めるか」


つまらないことに思考回路を働かせていた私は、明るい声を聞いた瞬間になんとなく考えるだけ無駄のような気がしてしまって、クロの言葉に同意するように視線を合わせた。


「そういえば」
「ん?」
「あなた、偉そうなことばかり言ってたけど、なにかいい案でもあるの?」


人間不信になっている私にとって、必要以上に人と関わることは簡単ではない。
ひとりぼっちになる瞬間の痛みも恐怖心も知っているからこそ、人と関わることはリスクばかりだと思っている。
信じていた友達に手を離されてひとりになるくらいなら、最初からひとりでいればいい。
ひとりでいれば誰かに期待なんてしないし、縋りつく相手がいないことがわかっているからそれなりに諦めもつく。
そうしていれば、助けを求めて伸ばし掛けた手を拒絶されてしまった時のあの絶望的な気持ちを味わうことも、真っ暗な闇の中に一瞬で突き落とされるような感覚に襲われることも、きっとないはずだから……。


外に出れば自分を守れるのは私自身だけで、必要以上に人との関わりを持たないようにすることが私にできる自分自身を守る方法。
そんな風に身構えて生きるようになってからもうすぐ三年になり、その間に心はどんどん頑なになっていっているような気がする。
そして、それをよくわかっているからこそ、たったの一ヶ月でなにかが変わるかもしれないなんて期待は、淡く持つことすらいけないように思い始めていた。


「千帆」


不意に名前を呼ばれてハッとした私は、視界に映っているのが暗い地面とスニーカーだということに気づいた。
気持ちが沈み始めていたせいで、いつの間にか俯いてしまっていたみたい。
ため息に近い深呼吸を小さくしてから顔を上げれば、クロが優しい笑みを浮かべていた。
それはまるで、大丈夫だと、寄り添うように温かく、落ち始めていた心を惹きつける。


「とりあえず……話す練習と一緒に、笑う練習もしないといけないか。あとは、呼び方をどうにかしたいな」


前半は私を見ながら、後半は夜空を仰ぎながら眉を寄せて独り言のように零すと、彼は気を取り直したようににっこりと笑った。


「あなたじゃなくて、クロな」
「え?」
「俺のこと。クロって呼んでよ」


にこにことした笑顔には毒はなかったけど、なんとなくクロの名前を呼ぶということが腑に落ちない。


「……なんで?」
「え?」


そんな気持ちから冷たく訊けば、彼が目を瞬かせた。
その顔は、疑問を投げ掛けられるとは思っていなかったと言わんばかりで、予想外の言葉への答えに困っているようにも見えたけど……。程なくして、クロはクスクスと笑い、楽しそうに「本当に素直じゃないなぁ」と零した。


「あなた、いちいち失礼なんだけど」
「そう? 素直なんだよ、俺」


悪態をついた私に、クロはニカッと笑って見せる。
嫌味にもまったく動じていない彼は、不意に優しく微笑みながら私の瞳を真っ直ぐ見つめた。



「俺は、クロって呼んでくれると嬉しいんだけど」
「なんで私があなたを喜ばせなきゃ──」
「それに、名前を呼ぶことだってレッスンのひとつだよ」


淡々とした口調を遮ったクロは、真剣な面持ちをしていた。


「千帆は、まず人との距離を縮めることを覚えるべきだ。やり方は十人十色だけど、呼び方が“あなた”だと距離は縮まりにくいから」
「別に、あなたと仲良くするつもりはないんだけど」
「千帆に好意的な俺との距離を縮めることすらできないのなら、千帆は誰とも仲良くなれないと思うけど?」


反抗的だと自覚しながらも素直に従う気になれずにいたけど、突然冷たい顔を見せた彼の言葉に心と体が強張った。
クロはずっと強引だったけど、この数日間に冷たい表情や声音を向けられたことなんてなかった。


「でも、私は……誰とも関わりたくなくて……」


だから、強がり混じりの言葉を紡ぎながらも強張った心には不安が芽生え、小さな痛みを感じていた。


「よく聞け、千帆。人は、高過ぎる壁を作ってる人間には好意的な態度は取れない。最初は関わる努力をしてくれるかもしれないけど、それが一方的なものだとわかったら諦めてしまうことの方が多いから」


クロの口調は厳しく、その顔にはたった数日間で見慣れたはずの笑顔もない。
ただ真っ直ぐに私の瞳を見つめる彼の表情は、真剣そのものだった。


「だから、千帆みたいに自分はなんの努力もせずに受け身でいようとするなんて、わがままな話だよ」
「そんなつもりは……」
「ない? でも、千帆は俺との距離を縮めようなんて考えてないだろ? 俺と会ってくれるから少しは頑張るつもりなのかと思ったけど、千帆自身に努力する姿勢がないなら千帆は一生なにも変わらないよ」


厳しいままの声音で紡がれる言葉たちが胸の中に落ちていき、ひどく責められているような気持ちになった。
だけど、反論のひとつもできなかったのは、クロに言われたことはどれも図星だったからなのかもしれない。
変わらなければいけないと考えたし、それが1パーセントに満たないほど僅かなものだったとしても、“変わりたい”と感じた瞬間があったはずなのに……。彼の言う通り、今の私には努力をしようという姿勢はまったくなかった。


会って間もない相手なのに、クロの言葉はひとつひとつ心に突き刺さるようで痛い。
与えられた厳しさから目を逸らしたくて、やっぱり強引な約束なんて知らない振りをすればよかったと後悔し始めたけど……。

「でも、千帆は変わりたいんだろ?」

不意に優しい声音が耳に届いて、無意識のうちに伏せていた視線を上げた。
さっきまでは真剣な顔つきをしていた彼が、瞳を緩めて柔らかく微笑んでいる。


「だから、俺に強引にさせられた約束だったのに、ちゃんと守ったんだろ?」


なんで……。
その疑問を零せばなぜか泣いてしまいそうで、声には出せないまま喉元に留めた。
ぶっきらぼうな態度だった私の心をまるごと見透かすように、クロは優しく笑っている。


厳しさを見せられ続けたら立ち去れたのに、こんな風に微笑まれてしまったら逃げ出すことはできなくなって……。

「自分を変えるのは簡単じゃないし、一度裏切られた経験で刻まれた傷や痛みは綺麗に消えないかもしれない。でも、自分から寄り添う気持ちがなければ、人とちゃんと関わることはできないんだよ」

悲しみと苦しみが混じったような微笑とともに吐き出された言葉には、彼の素直な気持ちがそっと込められているような気がした。


「温もりを失くしてしまう瞬間の恐怖を知ったら、殻に閉じこもりたくなるのはわかるよ。それでも、どこかで踏み出さないと、ずっとこのままの状態になるかもしれない。そんなの、本当は寂しいだろ?」


クロになにがわかるの、とは言えなかったのは、彼の顔がまるで傷ついているようにも見えるほどに真剣だったから。
強引に私との約束を取りつけたクロからは想像できない痛々しい表情が、なぜか胸の奥を痛くする。
友達ですらない彼のことなんてどうでもいいはずなのに、心で痛みを共有しているかのようで、そんな自分自身に戸惑った。


程なくして私の瞳を真っ直ぐに見据えたクロに、思わず息を呑む。
目の前にいるのに今にも消えてしまいそうなほどに儚げに見えるのは、彼の漆黒の瞳が悲しそうだからなのかもしれない。
こんな風に見つめられたら視線を逸らせなくて、逃がしてはくれない瞳に鼓動が跳ねる。
同時に、内側から熱が込み上げるような感覚を抱き、初めて味わうその正体がわからなくて少しだけ怖くなった。


「千帆」


戸惑いと小さな恐怖を感じていた私の名前を紡いだのは優しい声音で、温かみのあるクロの声を耳にした瞬間、心を包んでいたそれらの感情がそっと溶かされるように和らいだ。


「ほんの少しでも変わりたいって気持ちがあるなら、千帆は変われるよ」


柔らかな笑みとともに零されたのは、前向きな言葉。
そっと背中の押すように、優しく見守ってあげると言うように、そこに温もりが込められていることは伝わってきた。
だけど、変わることを拒むように三年近くもひとりでいることを選んできた私には、それは少しばかり残酷なものだった。


「そんなこと、無責任に言わないで……」


私のことを知らないくせに、と心の中で悪態をついて、クロを睨んだつもりだったけど、思っていたよりも眉が下がっていることに気づく。
それでも、気持ちだけは彼を睨んでいると、ふっと微笑が落とされた。


「無責任、か。たしかに、出会ったばかりでなに言ってるんだ、って思うかもしれない。でも……」


クロは自嘲気味に笑うと、息をそっと吐いた。


「俺は、千帆のことを知ってるから」


真っ直ぐな瞳が、また私を心ごと捕らえる。


「千帆が受験生じゃない頃から勉強をコツコツ頑張ってる努力家なことも、いつだって親に心配を掛けないように心掛けてることも……。それから、意外と繊細なことも」


視線を逃がす場すら与えてもらえない私は、彼の真剣な声に耳を傾けることしかできなかった。


「あなた、本当に……」


そこで口を噤んだのは、超能力者なんて非科学的なことを言葉にしてしまうことに抵抗があったから。
超能力がないとは言えないけど、スプーンを曲げるような単純なものとは違って、色々と知られているというのは不気味になってくる。


「ストーカーとかじゃない、よね……?」


だんだん怖くなってきて恐る恐る小さく言えば、クロは「え?」と零してきょとんとしたあとで盛大に吹き出した。


「な、なんで笑うのよ!」


そのままケラケラと笑い出した彼に強く言い放ったけど、余程おかしいのか笑い声が止まる気配はなくて……。

「俺、ストーカーするほど暇じゃないし、飢えてないから」

必死に堪えようとしている笑いをククッと漏らした声音でそんな風に言われた直後、抱いていた不安が吹き飛ばされたような気がした。


危機管理が甘かった自分自身を責めそうになっていた私は、クロの掴めない雰囲気に引き込まれていくのがわかった。
だけど、不思議とそれが嫌ではないから少しばかり……では済まないほどに厄介で、彼にだけはついつい流されてしまう理由を探した。
その答えが見つからないことはわかっていたけど、なにも考えないのはなんとなく嫌だったから……。


「でもまぁ、危機感を抱くのはいいことだよ。千帆は自分自身のことを軽く見てるところがあるからね。女の子なんだから、もう少し警戒心を持つ方がいい」


さっきまで笑っていたくせに急に真面目な顔をして言うから、なんだか調子が狂う。
たぶん心配されているのだということはわかったし、それが本心なのだというのも伝わってきたけど、素直になるのは癪だった。


「……それは、今もそうした方がいいってこと?」


だから、嫌味を込めて返してみたのに、クロはそんなことは気にも留めていないと言わんばかりに微笑んだ。


「俺は別に千帆に手を出すつもりはないけど、千帆にはそれくらいの警戒心は必要かもしれないね。自分みたいな奴に興味を持つ人なんていない、とか思ってそうだから」


うっ……と言葉に詰まったのは、彼に言われたことが図星だったから。
一応、塾の帰りには人通りのある道を選ぶようにはしているけど、常にしっかりと危機感や警戒心を持っていたかと言われれば、わりと呑気だったと思う。


「明日からはもう少し警戒心を持つこと。わかった?」


見透かすように呆れた笑みを零したクロに、素直に頷くのはやっぱり癪だったけど……。彼から顔を背けながらも、首を小さく縦に振った。
ふと、噴水の隣にある時計を見ると、二十二時まで残り十分ほどになっていた。


「もうこんな時間か」


クロもそれに気づいたらしく、隣から慌てたような声が聞こえてきた。


「千帆」


焦り混じりの声音に思わずつられて、背けていた顔を戻してしまう。
素直に頷いたばかりだったからなんとなく気まずさがあったけど、彼の方はそれどころじゃないと言わんばかりに間髪を容れずに続けた。


「とりあえず最初のステップは、今週中に誰かと話すこと」
「は?」
「ちゃんと会話するんだぞ。まずは相手の名前を呼んで挨拶して、それからなんでもいいから他愛のない話を振ってみろ」
「ちょっ、ちょっと待ってよ! 今週って、もう明日しかないんだよ⁉︎」


いくらなんでも、最初のステップのハードルが高過ぎる。
もともと人付き合いが苦手だったうえに、この三年間は学校でも塾でも必要最低限の会話以外したことがないのに、たった一日で挨拶どころか私から話を振るなんて……。


「私、必要最低限のこと以外、先生ともほとんど話したことないんだけど!」
「でも、やるんだよ」


胸を張って言うようなことではないけど、戸惑いを隠せなくてつい強く言ってしまうと、クロが真剣な表情を見せた。


「で、でも……」


せめてもう少し時間を与えて欲しいと伝えたいのに、クロの真剣な瞳に言葉を奪われてしまう。


「仕方ないだろ、あんまり時間がないんだから。のんびりしてたら一ヶ月なんてあっという間だぞ」


そんな私に放たれたのは、私たちが約束した期間のこと。
頭がそれを理解した瞬間、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ気がした。


「最初から無理って言うな。とにかくやってみるんだ。いいな?」


拒否を許さない真っ直ぐな視線に思わず頷いてしまったあとでハッとしたけど、残念ながらもう遅かったらしい。


「よし。明日、頑張れよ」


彼は私を見つめたまま笑顔で言うと、慌てたように立ち上がった。


「帰ろう。送ってあげられないけど、大丈夫か?」
「平気」
「気をつけて帰れよ!」


淡々と答えて歩き出した私は、クロがどうしてあんなにも時間を気にしているのかを考える余裕もなくて、彼の声にも振り返ることなく公園を後にした。


たった一日でどうしろって言うのよ? いきなり話せるわけないじゃない……。
チクリと痛んだはずの胸の奥はもうなんともないけど、足早に歩きながら明日のことばかり考えてしまうせいで気が重くなり、何度もため息が漏れた。


「ただいま」


数分で家に着くと、玄関ではいつものようにツキが「ニャア」と出迎えてくれた。
可愛らしい鳴き声に癒やされた瞬間、ホッとしたせいなのか一気に疲労感が襲ってきて、ツキを抱き上げてその顔に頬ずりをした。


「ツキだけが私の癒やしだよ……」


猫は気まぐれだなんて言われているけど、いつだって大人しいツキは私の行為に抵抗する素振りも見せずに付き合ってくれる。
クロとのやり取りに疲れたせいか食欲がなくて、抱いたままのツキがご飯を食べたことを確認してから自室に行った。


明日、どうしよう……。挨拶なんて誰にすればいいんだろ……。
友達がいない私は、同じ委員会や隣の席になった子と必要な会話をする程度の交流しかなくて、もちろん他愛のない話をできるような相手なんていない。
彼は簡単そうに言っていたけど、挨拶をしてから他愛のない話を振るなんて考えただけで気が重くなる。


『千帆自身に努力する姿勢がないなら千帆は一生なにも変わらないよ』


それでも、彼の厳しい言葉が忘れられなくて、どうすればいいのかと思考を働かせる。
今はまだ“変わりたい”なんて強くは思えなくても、せめて“一生なにも変わらない”という不安だけは拭いたかったから――。