「さて、結果を聞こうか」


目の前でニコニコと笑うクロは、きっと答えをわかっている。
毒はないはずなのに明らかに裏のある彼の笑顔に、なんだか不快感が芽生えて眉を寄せた。


「……聞かなくてもわかってるんでしょ。超能力者様なんだから」
「俺のことなんて信じてなさそうなのに、それ言っちゃうんだ」


嫌味を込めて顔を背ける私に、クロがクスクスと笑っている。
そっと視線を戻すと、笑い続ける彼が楽しそうな顔をしていた。


昨夜、一方的に交わされた約束。
クロから提示された条件を達成できるはずがなかった私は、彼なら本当に学校に押し掛けて来るんじゃないかという恐怖と不安からまたこうして公園に来てしまったのだ。


「でも、ちゃんと頑張ったんだろ?」
「なにが?」


不意に柔らかく微笑んだクロに素っ気なく返したけど、やっぱり本当になんでも知っているんじゃないかと思ってしまった。
だって、私なりにできる限りのことはしたから。
隣の席の女子や、図書室でよく顔を合わせる同級生、そして掃除当番で同じグループの子。
その三人に話し掛けてみようと、一応彼女達に近づいたのだ。
結果として、一言も話せなかったのだけど……。


「千帆は有言実行の子だからな」
「なにそれ。私のことなんて……」


知らないでしょ、と言い掛けて口を噤む。
私はクロのことを知らないけど、彼はなぜか私のプロフィールを把握していたから、“知らない”とは言えなかったのだ。
ただ、とても不思議なことに、学校に来られるかもしれないという恐怖と不安はあったのに、クロに対してはそんな感情を抱いていなかった。
もちろん、初めて会った時やプロフィールを含めた自分のことを言い当てられたことは怖かったけど、今は彼自身のことはそんな風には思えない。


信頼しているかと言われればそんなことはないし、クロのことを怖くない理由はわからないけど……。

「千帆? どうかした?」

もしかしたら、彼の纏う優しい雰囲気にどこか懐かしさに似たような温かいものを感じるせいなのかもしれない。


「……あのさ」
「ん?」


気を取り直して口を開いた私は、笑みを浮かべるクロに少しだけ怯みそうになりながらも続けた。


「私、やっぱり友達はいらない。だから、もう……」


“ここには来ない”
そう言おうとしたのに、言葉が喉で引っ掛かったように出てこなかった。
そんな自分自身に戸惑う私に、彼は困ったように微笑した。


「やっぱり、友達はいらないと思ってるんだな」
「だって、人は簡単に裏切るじゃない」
「でも、懐いたペットは裏切らない、って?」


私の心の中を見透かすように苦笑するクロの口調に、反射的に眉をグッと寄せた。


「そういう言い方しないで」
「本当のことだろ?」
「ツキはペットじゃない。家族だから」


きっぱりと言い放つと、彼が目を小さく見開いた。
裏切るとか裏切らないとかよりも、ツキのことをペットだと言われたことの方が嫌だったのは、私にとってツキはかけがえのない大切な家族だから。
たしかに、友達のいない私にとっては唯一ツキだけが本音で話せる存在で、友達のように思うこともあるけど、それよりもまずは家族だと思っている。


「あなたにとってはただの猫かもしれないけど、私にとってはかけがえのない大切な子なの」


だから、それをちゃんと伝えておきたくてクロの瞳を真っ直ぐ見つめれば、彼はなぜか複雑そうな笑みを零した。


「ごめん」


その表情の意味がわからない私に、クロは素直に謝罪を口にした。


本当は腹が立ったし、続けて文句を言うもりだったけど……。

「俺が悪かった」

あまりにも素直な態度を前にして、それは出てこなくなった。


ベンチに座っている私達の間には、少しだけ距離がある。
あえて距離を取って座った私との隙間を埋めるように、クロは頭を深々と下げた。


「本当にごめん」
「ちょっ……。なにもそこまで……」


たしかに怒っていたけど、三度の謝罪の言葉と頭を下げられたことに怯むように戸惑い、どうすればいいのかわからなくて慌ててしまう。


「いや、今のは俺が悪かったし、昨日の言い方も悪かったと思うから、その分も含めて謝罪したかったんだ」


昨夜、彼がツキのことを口にした時も、たしかに不快感を抱いた。
それを忘れたわけじゃないけどあえて口にしなかったのに、クロはちゃんとそのことを覚えていて、しかも謝罪をしてくれた。
その態度には誠意が見えて、彼のことを無下にはできない。
そして、それは今だけのことじゃなくて、これからも“そうなる”予感がした。


「もういいよ」


ため息混じりに零せば、ひと呼吸器置いてからクロが嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


どうやら私の気持ちを察したらしく、もう怒っていないことを知って安堵したようだった。


「でも、友達の件は別だからね」


彼から向けられた素直な笑顔に気まずさが芽生え、ついぶっきらぼうに言ってしまった。


「それは同意するけど、千帆の考え方に共感はできない」


不意に冷静な表情になったクロは、体勢を戻してから私の瞳を真っ直ぐ見つめた。
私は、彼のこの瞳が苦手だ。
すべてを見透かすような黒くて真っ直ぐな瞳は、まるで心を強く捕らえるかのようで、なにも言えなくなってしまいそうになるから。


「千帆は、本当に今のままでいいと思ってる?」
「思ってるよ」
「本当に、心の底からそう思ってる?」
「お……思ってる、よ……」


じっと見つめられて心臓が跳ね上がり、答えが途切れたようにしか出てこなかった。


「じゃあ、一生そうやって生きていくのか?」


真剣な顔で紡がれた“一生”という言葉がやけに胸に伸し掛かって、すぐに言い返せなかった。
一生、なんてわからない。
十七歳の私にとって人間の平均寿命は長過ぎて、それが私にとっての一生になるのなら不安で気が遠くなる。
いつか結婚して家族ができるのかもしれないけど、友達すら作れない私に恋人ができるとは思えない。
そんな私の考えを読み取るかのように、クロが眉を寄せて微笑した。


「本当は、千帆だって今のままじゃダメだってわかってるんだろ?」


そして、彼は頑なな私を諭すように優しく尋ねた。


「千帆」


俯き掛けていた私を止めたのは、クロの穏やかな声音。
柔らかい声なのに下を向くことを許さない強さが込められていて、私に与えられた選択肢は彼から視線を逸らさないことだけのように思えた。


「本当に、ずっとこのままでいいのか?」


きつい言い方をされたら言い返せたのかもしれないけど、優し過ぎる口調にはそんな風にはできない。


「千帆の大切な存在も、親も、普通なら千帆よりも先にいなくなる。そのあとにもし千帆が今のままだったら、千帆は本当にひとりになるんじゃないのか?」


クロもそれをよくわかっているかのように、表情にも声音にも優しさが滲み出ている。


「ひとりでも、なんとかなることはたくさんあるし、ある程度のことはどうにでもなるのかもしれない。でも、自分ひとりの力じゃどうしようもないこともある。そんな時はどうするんだよ?」


当たり前のことを言われるのは、心に鉛を落とされるようだった。
彼に言われたことは今までに考えたことはあるし、そんな時はいつも不安に襲われた。
その度に本当にこのままでいいのかと自問して、それでも自分を変えることができないまま過ごしてきたことは、ちゃんとわかっている。
だからこそ、クロの言葉が痛かった。


「そ、それは……」


言い訳でも文句でもいいのに、こんな時に限ってなにも浮かばなくて、言葉に詰まった。
すると、黙って私のことを見ていたクロが、ふっと微笑を零した。


「千帆だって本当は今のままじゃダメだと思ってるから、答えられないんだろ?」
「……っ」
「別に、友達をたくさん作れって言ってるわけじゃない。でも、このまま人と関わらないなら、どのみち社会に出た時に苦労すると思うけど」


彼の口から出るのは正論ばかりで、相変わらず返す言葉を見つけられない。
さっさと突っ撥ねて帰ればいいだけなのに、まるでクロの真っ直ぐな瞳に心を縛られているかのように足が動かなかった。


「千帆は、変わりたいと思わない?」


そんな私に、彼は真剣な表情を向けた。
先のことを考えるのがとても怖くて、いつもチラチラと顔を覗かせるそれを気にしないように努めていたのに……。クロが現実を突きつけるから、このままじゃいけないのだと改めて感じさせられてしまう。
ここで立ち上がって足を踏み出せば、今はこれ以上嫌な気持ちになることはない。
だけど……。それで解決するのは今抱いている不安な気持ちだけで、いつかまた同じ壁にぶつかることは目に見えていた。


夜の公園に、沈黙が下りる。
昼間は賑やかな場所だけど、陽が落ちてしまえば閑静な住宅街の中にあるここに人が来ることはほとんどなくて、今夜も昨夜と同じように私たちしかいない。
クロは私を見つめたまま口を開こうとはしなくて、彼が私の言葉を待っているのがわかった。
公園を出ればすぐ傍に道路があるから車の音は聞こえてくるのに、どちらも話さないせいで私たちの間だけ音がなくなってしまったように思えた。
それはまるで、ふたりだけの空間に閉じ込められたような、なんだか不思議な感覚だった。


「千帆が本当にこのままでいいと思ってるなら、これ以上なにを言っても無駄か」


そんな中、不意に耳に届いたのは、ため息混じりの言葉だった。


「え……?」
「だって、千帆にその気がないなら、俺がなにを言ってもどうすることもできないだろ?」


なんで……?
残念そうに苦笑したクロを見た瞬間、頭の中を過ったのはそんなこと。
一昨日からずっと強引だったくせに今になって引いてしまうなんて、あまりにも唐突だし、そんな彼がとても身勝手に見えた。
たったの三日間でクロに散々振り回されていた私は、不安だけ感じさせられたまま手を引かれるのかと思うと無性に腹が立ったのだ。


「なんなの……」
「え?」
「あなた、勝手過ぎるんだけど! いきなり現れて人のこと振り回しておいて、急に無駄だって決めつけて……。なんで私がこんな思いしなきゃいけないの!?」


小首を傾げたクロを睨めば、彼が瞳を小さく見開いた。
不安になったことを言葉にしなかったのは、たぶん強がっていたから。
よく知りもしない相手に弱味を見せたくなくて、“こんな思い”という言葉で心に抱えた感情を濁した。


「超能力者だかなんだか知らないけど、勝手に近づいてきと思ったら好き放題言うだけ言って、結局なにがしたかったの!?」
「だから、俺は──」
「私は人と関わりたくないの! それなのに、昨日も今日もわざわざここに来たんだよ!」


支離滅裂のような気もしたけど、感情を上手くコントロールできなくて止まらなかった。
そもそも、人と関わりたくなければ、昨日も今日もわざわざ来る必要はなかった。
親にでも相談すればどうにかなるかもしれないと考えなかったわけではないのに、それでも私はこうして今日もこの場所に足を踏み入れた。


「人のこと振り回したんだから、ちゃんと責任取ってよ!」


そうした理由は、たぶん私の中に変わりたいと思う気持ちがあったから……。


それは、きっとほんの少しだけ。
比率で言えば、1パーセントにも満たないほど、僅かなもの。
“変わりたい”と口にできるほどのものではなくて、漠然とした不安を和らげるためには変わるしかないということを心のどこかではわかっていたから、たぶん一方的な約束を守ったのだと思う。
だけど、やっぱり人と関わりたくなかったから、クロになにを言われても今までのままでいたかったのに……。彼に突き放されると感じた瞬間、その手を掴みたくなってしまったのだ。


知らない人なのに、信頼しているわけではないのに。
このままなにもせずにクロとの関係を消してしまえば、なにか取り返しのつかないことになるような気がした。
根拠なんてないのにこんなことを考えている自分自身のことが、自分でもよくわからない。


「な、なにか言ってよ……」


口を挟ませなかったのは私なのに反応を求めるのは少しばかり勝手だったかもしれないけど、この三日間の彼の行動と比べればこれくらいは許容してもらいたい。
あくまで強気でいたくてクロから目を逸らさずにいると、彼が笑みを浮かべた。


「じゃあ、ふたりで頑張ろう」
「え?」


笑顔で頷かれたことが予想外で、思わずきょとんとしてしまった。


「ごめんね」


優しい声音で紡がれた言葉に、なにが込められているのか。
考えてすぐに辿り着いた答えは間違いではないような気がして、クロの顔をキッと睨んだ。


「騙したの?」
「ただの駆け引きだよ」
「……最低」
「でも、千帆の素直な気持ちが聞けた。まぁ、ちょっと回りくどい言い方だったけど」


腹が立って不機嫌さをあらわにした私に反し、彼はとても嬉しそうだった。


「いちいちムカつくんだけど」
「千帆が素直じゃないから、俺は良心を痛めながらも駆け引きしたんだけどなぁ」


棒読みの台詞は悪いと思っていないことを雄弁に語り、さらにイライラが募る。
そして、こんなつまらない駆け引きに引っ掛かってしまった自分自身の単純さに呆れ、項垂れながらため息が漏れた。


「千帆」


程なくして、優しい声音に名前を呼ばれた私は、思わず顔を上げてクロを見た。
直後に視界に入ってきたのは、どこか切なさを孕んだような笑み。
てっきり普通に笑っているのかと思ったから、予想外のことに少しだけ戸惑ってしまう。
なによりも、向けられているその表情の意味がわからなくてなにも言えずにいると、彼が一度ゆっくりと瞳を閉じたあとでふわっと微笑んだ。


「一ヶ月間、よろしく」


漆黒の瞳が私の瞳を捕らえたあと、言葉がゆっくりと落とされた。
向けられた瞳は射るような強さではないのに、視線を僅かに揺らすことも許されないような雰囲気を静かに纏っていて、たった一度の瞬きすらできない。
それはまるで、心ごと真っ直ぐに向き合おうとしているかのようだった。
そして気がつけば、その選択肢しかないと言わんばかりにごく自然と小さく頷いていた。


不安はあった。
だって、人と関わりたくない気持ちも、過去の恐怖心も、とても鮮明に心に居座っているから。
刻まれたトラウマを拭えるとは思えなくて、“たったの一ヶ月間ではどうせなにも変わらない”と斜に構え掛けている私がいることにも気づいている。


だけど……。

「次の満月には、きっとなにかが変わってるよ」

すべてを見透かすように破顔したクロが穏やかな口調でそんな風に言うから、彼に懐かしさに似たものを感じていた私の頑なな心がほんの少しだけ和らいだのだ。


「今日の月は綺麗だな」


夜空を仰いだクロにつられて顔を上げれば欠け始めた蜂蜜色の月が浮かんでいて、次の満月を見る頃にはなにかが変わっているのだろうか、なんてことを心の片隅でぼんやりと思う私がいた――。