翌日、いつも通りの一日を過ごした私は、陽が落ちるにつれて落ち着かない気持ちになっていた。
昨夜はあのまま立ち去った男性に呆気に取られたまま帰宅し、ツキに一部始終を話した。
話したところで返事をもらえるわけではないけど、ツキに話し掛けるのは毎晩のことだから、自然とあの出来事を説明していたのだ。


正直、名前すら知らない異性に会いに行くなんてバカげていると思う。
なにもされない保障なんてないし、昨夜はせっかく無事に帰宅できたのだから、今夜はなにもノコノコ行くことはない。
頷いてしまったから行かなければ約束を破ることになるけど、そもそも私があの男性のお願いを聞く義理はないのだから。
昨夜のうちにそういう結論が出たはずだったのに、つい時計を気にしてしまうのはどうしてなのだろう。


「……私、行かなくていいよね?」


ベッドに寝転んで胸元で抱いていたツキに訊くと、ツキは私の顔を数秒間じっと見つめたあとで前足で私の唇に触れた。
それがどういう意味なのかはわからないけど、いつものように鳴かないツキの瞳がなにか言いたげに思えて……。

『君と君の未来を少しだけ変えてあげる』

ふと、あの男性に言われた言葉を思い出した。


「い、行かないよ……。私が行く必要はないんだから」


自分自身に言い聞かせるように零したのに、罪悪感が芽生えてくる。


行かない。絶対、行かない。……別に行かなくていいんだってば。
心の中で呪文のように繰り返しながらも時計を見てしまうのは、やっぱり気になっているからなのだろうけど……。行く義理があるのかないのかという以前に、そもそも私は人と関わりたくない。
学校ではクラスメイトとすら極力接しないようにしていて、塾だって地元の有名どころを避けてわざわざ自宅の最寄駅からふたつ先にある個別指導を選んだ。
そんなことまでしている私が、どうして名前も知らない人のことを気にしなければいけないのか。


他人に心を掻き乱されるのは、もう嫌……。あんな目に遭うくらいなら、最初から誰とも関わらなければいい。
そう思っているからこそ、私は高校生になった今も人と関わることを避けているのに、なぜか昨日の男性の真剣な瞳と無垢な笑顔が頭から離れなくて、記憶に焼きつくように私の中に居座る彼のことを気にせずにはいられない。


「あー、もう……。ちょっとコンビニに行ってくるね」


ため息をついた私を玄関まで見送ってくれたツキは、どこか嬉しそうに「ニャア」と鳴いた。


梅雨だというのに今日はよく晴れた一日で、薄い雲が漂う空には月と星が光っていた。
昨夜は満月だったけど、今日はほんの少しだけ欠けている。
大都会ではないにしても、生活に困らない程度の街並みであるこの辺りで見る夜空は特別綺麗なこともなくて、ほとんどの星はあまり目立たない。
月だけが煌々と輝いている夜空から視線を落とすと、自然とため息が零れた。


公園までは、徒歩で五分も掛からない。
ただ、私の目的は公園ではなく、その先にあるコンビニでシャーペンの芯を買うこと。
なくなりそうなそれを明日の朝に買い忘れないように、今夜のうちに買っておこうと思っているだけ。
まるで自分自身に言い聞かせるように小さく頷いたあと、木に囲われた公園が見えてきたことでなんだかソワソワしてしまって、できるだけ右側を視界に入れないようにしながら歩いていた。


一体、私はなにがしたいのだろう。
心の中で問い掛けたことに対する答えが出ることはなく、それなのに踵を返すことのない自分自身の行動が理解できないけど……。視線の先に見えた公園の前にあの男性が立っていることに気づいて、さらに足早になっていく。


「あっ」


そして、明るい声が耳に届いた時、心臓が跳ねた。


「千帆ちゃ──ちょっ、ちょっ!」


喜びを帯びた声が慌てたものに変わった直後、右腕を掴まれてしまった。
半ば強制的に足を止めさせられて立ち止まった私に、男性がきょとんとした顔を見せた。


「え、どこ行くの? 俺に会いにきてくれたんだよね?」
「……私はそこのコンビニに用があるだけです」


できるだけ冷静でいるように努めて淡々と話すと、彼は一瞬だけ目を見開いてから噴き出した。


「なにそれ。ツンデレ?」
「は?」
「まあいいや。あっちのベンチに座ろう」


私が言い返すよりも早く決断を下した男性は、私の腕を離さないまま歩き出した。


よくよく腕を掴む人だな、なんて呑気に考えてしまったあとで、抵抗するのを忘れていたことを思い出したけど……。

「はい、座って」

彼は毒のない笑みを浮かべ、公園に入ってすぐのところにあるベンチに無理やり私を座らせた。
ひんやりとした感触が布越しに伝わってきた瞬間、ハッとして顔を上げる。


「わ、私はコンビニに──」
「それはもういいって。俺、あんまり時間がないから、君と早く話したいんだ」


少しだけ焦ったような言い方に眉を寄せると、彼はすぐに笑顔に戻って「なに話そうかなー」と零した。


「あ、まずは自己紹介からか」


ひとり呟くように言った男性の名前をまだ知らなかった私は、思わず彼の顔を見てしまった。
これではまるで私が彼のことを知りたいと思っているみたいだと気づいた時には、人懐っこさを携えた満面の笑みを向けられたあとのことだった。


「えーっと……俺はクロ。たぶん二十歳くらい」
「は?」


自分の年齢を“たぶん”とか“くらい”とか言われれば、おかしいと思うのが普通だろう。
すっかり忘れていたけど、彼は自分のことを超能力者なんて言う人だった。


「なんで年齢がいい加減なの」
「あー……。俺、捨てられてたから?」


疑いの眼差しを向けると、返ってきたのは紡がれた言葉に似つかわしくない明るい声。


「え?」


予想だにしなかった答えのせいで反応がひと呼吸遅れた私に、クロがごく普通にニコッと笑った。


「だから、ちゃんとした年齢ってわからないんだよね。でも、だいたい合ってると思うから気にしないで。年齢なんて今は関係ないから、気にする必要もないし」


言葉が出てこなくて無言で頷くと、彼は困ったような笑みを浮かべた。


「なんで千帆がそんな顔するんだよ。俺、いい人に拾って貰ったおかげで幸せだから、しんみりしないでよ」


あっけらかんと言われて、なんだか面喰らった。
きっと明るく笑っていられるような話ではないはずなのに、クロの顔には無邪気な笑顔が戻っている。
こういう時、どんな反応をすればいいのかわからない。
人と付き合うことを避けてきた私には、コミュ二ケーション能力が欠如しているから。
私が普通に話せるのは、ツキだけ。
だから、この雰囲気をどう捉えればいいのかわからなくて、“また”間違ってしまうのではないかという不安が芽生えた。


だけど……。

「千帆」

そんな私の心を見透かすように、不意に温もりがそっと降ってきた。


顔を上げるとクロが笑っていて、頭の上にある優しい温度は彼の手から与えられたものだと気づく。
サァッ、と夜風が通り過ぎていく。
クロの柔らかそうな薄茶色の髪が揺れ、切れ長の瞳が緩められた。
この公園の電灯は明るく、彼の顔がよく見える。
黒目がちの瞳なのに全体的に色素が薄くて、白いTシャツから覗く肌も日焼けしていない。


「次はなに話そうか」


ポンポンと頭を撫でた手が離れたあと、クロが私を見つめながら首を傾げた。


「別になんでも……」


ぽつりと零した私は、たぶんもう彼のペースにはまっていた。


「とりあえず、先に条件を話さないといけないか」
「条件?」
「一ヶ月間こうやって会ってもらうんだから、千帆にもメリットが必要だろ?」
「えっ!? 一ヶ月!?」


気づけば呼び捨てが定着していたことよりも、提示された期間に驚いて声を上げてしまった。


「あれ? 昨日言わなかった?」
「聞いてない!」
「あ、言い忘れてたか。ごめん、ごめん」


悪びれもなく笑うクロになにか言ってやりたいのに、「一ヶ月間よろしく」と当たり前のように言われて力が抜けてしまいそうになる。


「無理に決まってるでしょ! 私は今日だけだと思ったから昨日は不本意ながらも同意しただけで、一ヶ月なんて知ってたら絶対に断ってた!」


眉を寄せた笑みを前にして、クロが確信犯だったことに気づく。


「私、帰る」
「まあ、とりあえず俺の話を聞いてよ。千帆に損はさせないから」


どうやら私の名前を呼び捨てにすることは決定事項のようで、あまりにも自然に呼ばれたことに益々ペースを乱されて立ち上がるタイミングを逃してしまう。
クロは、自分のペースに巻き込むのが上手いらしい。
少なくとも、いつも他人とは一定の距離を保っている私のペースを簡単に崩してしまうくらいには……。


「これから一ヶ月……って言っても昨日もカウントしてってことなんだけど、夜にここで会って欲しい」


ニコニコと笑うクロは、私が反論する隙を与えないつもりのようだ。


「基本的には夜の八時から九時で、用事がある日は可能な時間からでいい。でも、あんまり遅くなるわけにもいかないし、会うのは十時までにする」


私が口を開くよりも早く話を進めていき、コミュニケーション能力が低い私はもちろん口を挟むタイミングがない。


「ただ、普通に話をするだけでいいんだ。今日の出来事とか、好きなものとか、そういう他愛のないことで構わない」


彼はそれを見透かすように私から視線を逸らさなくて、まるで物語を読み聞かせるかのように一定のリズムで話している。


「絶対に一時間以上は望まないし、一ヶ月経ったら終わりでいい」


その声音は心地好さを携えているかように穏やかで、反論したい私にとってはタチが悪い。


「その代わり──」
「勝手に決めないでよ」


ようやく口を挟んだけど、半ば強引だったせいで予想以上に強い口調になってしまった。


「なんで赤の他人の私が、あなたのお願いを聞かなきゃいけないわけ?」


クロにじっと見つめられて怯みそうになったけど、虚勢を張るように続けた。


「そもそも、今日ここに来たのはあなたに文句のひとつでも言ってやるつもりだっただけなの。あなたと話すために来たわけじゃない」


コンビニに行くという言い訳をすっかり忘れていたことに気づいたけど、今はそれを気にする余裕はなかった。


「メリットだかなんだか知らないけど、私は別にあなたにそんなもの与えてもらうつもりはないし」
「でも、千帆にとっては結構いい条件だと思うよ?」
「いい条件?」
「言っただろ、『君と君の未来を少しだけ変えてあげる』って。すぐに目に見えるような変化がなかったとしても、一ヶ月経てば千帆にとってはメリットだったってわかるよ」
「意味がわからない」


クロの言うメリットがなんなのか、少しだけ気になった。
ただ、もしそれを聞いてしまったらもう本当に引き返せないような気がして、あえてそこには触れないことに決めた。


「だいたい、一ヶ月も付き合えるわけないじゃない。私、受験生なんだから」


切羽詰まっているかと言われたらそんなことはないけど、大学受験をすることは決めているから貴重な時間を取られるわけにはいかない。
これを盾に話を進めようと決めた直後、ひとり考え込むように黙っていたクロが意味深な笑顔になった。


「松浦千帆、七月二十日生まれ、A型、南高校三年二組、兄弟はいない」
「……え?」


クロが話している内容をすぐに理解できなかったのは、自分のプロフィールを説明されているのだと認めるのが怖かったから。
そんな私の気持ちを見透かすように、彼がクスリと笑った。


「言っただろ、俺は超能力者だって。なんでもわかるってわけじゃないけど、千帆のことは色々知ってるよ」


毒のない笑みなのにその裏になにか隠されているような気がして、警戒心を抱えながら咄嗟に立ち上がった。


「だから、なにもしないって。小娘には興味ないし」
「なっ……!」


二、三歳しか違わないはずの相手に必要以上に子ども扱いされてカッとなったけど、私の瞳を真っ直ぐ見つめるクロはふざけているつもりはないらしい。


「ナンパ目的ならこんな回りくどいことしないし、襲うなら昨日のうちにやってる。俺は本当に千帆と話がしたいだけなんだ」


それを裏づけるように真剣な声音で話した彼の言い分はもっともらしくて、それなら本来の目的はなんなのだろうと考えてしまう。
私と会話したって、別にメリットがあるとは思えない。
だいたい、二十歳の青年が“ただ話すだけの時間”なんて求めるものなのだろうか。


「信じないなら誓約書でも書こうか?」
「私はあなたのことを知らないんだから、そんなの意味ないじゃない」


誓約書というのは、それぞれに自分自身を保証できるものがあるから交わせるのであって、クロのことをなにも知らない私にはただの紙切れにしかならない。


「なんなの、あなた……。なんで私のこと……」
「超能力のおかげ、ってとこかな」


嘘なのか本当なのか、クロの笑顔はそれを悟らせない。
嘘っぽいのにそうではないような気がしてくるのは、彼の纏う雰囲気にはどこか安心感にも似た柔らかさがあるからなのかもしれない。
凪いだような穏やかな空気感なのに、心中はまるで嵐みたいに掻き乱されるようで、その相反する状況に戸惑いを隠せなかった。


「俺、もうすぐこの街からいなくなるんだ。その前に思い出作りっていうのかな……まぁ、そういうのをしておきたくなってさ」


立ったままの私に、クロが自分の隣をポンポンと叩く。
空いたベンチに腰掛ける気にはなれなくて動かずにいると、彼は困ったように笑ったあとで真剣な表情を見せた。


「ずっと前から、ひとりぼっちの千帆のことが気になってたんだ」


そして、クロの口から零されたのは、自分自身がよく知っていることだった。


「俺の知る限り、千帆は中学を卒業する前からずっと友達がいない」


胸の奥に鉛を落とされたように、ズシンと苦しくなった。
友達なんて、いなくてもいい。
あんな風につまらない理由で孤立して、信じていた人にも目を背けられてしまうのなら、結局はひとりでいても変わらない。


だから……。

「私は友達がいないんじゃない。作らないの」

クロの顔を睨むように見ながら、自分自身の主張を吐き捨てるように告げた。


「集団で群れなきゃなにもできないような人間と友達ごっこをするなんて、バカみたいだし時間の無駄だと思ってる。親友なんて言ったって、結局いざって時に離れていくんだから……。そんな友達ならいなくてもいい」


しっかりとした口調で話せているのに鼓動がやけに大きく鳴っていて、まるで心が震えているようだった。


「そんなの、本心じゃないだろ?」
「本心だよ。別に友達なんていなくても生きていける」


学校では時々困ることもあるけど、プライベートではなにも困らない。
それに、私にはツキがいる。
話ならツキにできるし、人の言葉を話せなくてもきっとツキは私の気持ちをわかってくれている。
ツキが私の心の拠り所だし、ツキは大切な家族なのだから。


「じゃあ、これからもずっとひとりでいるのか?」
「そうかもね」


強い口調で返せたのは、ツキの姿が脳裏に浮かんでいたから。


「まさかペットの猫が友達だなんて言わないよな?」


だけど、クロはそれすらも見透かすように、眉を寄せて鼻で笑った。
目を見開いた私は、言葉を失った。
図星を突かれたことも、ツキの存在まで知られていることも、たぶん小馬鹿にされたことも、私から言葉を奪うには充分だった。
思わず、一歩後ずさる。
彼はピクリと反応したように見えたけど、すぐに真剣な顔に戻って口を開いた。


「猫の寿命なんて、そう長くはないだろ」
「いい加減にしてよ! 知り合いでもないくせに、なんなの!? いくらなんでも、言っていいことと悪いことがあるでしょ!」
「でも、事実だ。人間も猫も、いつか寿命が来る。そして、それは確実に猫の方が早い」


わかってる……。そんなのこと、もうとっくに知ってる……。
ツキのことだと強気でいられなくて、声に出せば泣いてしまいそうで心の中で呟いた。
ツキを家族として迎えた頃に、猫についてたくさん調べた。
食事やトイレや接し方に始まり、病気や怪我した時のこと。
そして、もちろん寿命も……。


無意識のうちに俯いていた私は、クロが立ち上がったことに気づいてさらに一歩後ずさった。
顔を上げてみたけど、彼は昨夜会った時みたいに別に慌てる様子もなくて、相変わらず顔には真剣さを纏っている。
ふざけているのなら、もっと強く言えたのかもしれない。
だけど、真っ直ぐな瞳からはどうしてもそんな風には思えなくて、苛立ちと戸惑いが同居する。


「もし俺が千帆のペットで、千帆が俺だけを友達だと思ってるなら、嬉しさよりも心配になるよ」


不意に眉を下げたクロは、まるで本当に私のことを心配しているような顔つきになった。


「ペットを大切にすることは悪いことじゃない。でも、ペットがいるから人間の友達はいらないって言うのなら、それは違うだろ」
「別にそんなんじゃない……。私は、ただ……」
「人と接するのが怖い?」
「違っ……!」


思わず口ごもった私は、彼の見透かすような瞳と言葉に心を突き刺されるようで上手く否定できなかった。
別に、怖くなんてない。
ただ、どうせ無駄になると思っているだけ。


「だったら、今からでも学校で友達を作ってみれば?」


だから、挑発するような笑みを浮かべたクロから、一瞬も視線を逸らさなかった。


「怖くないなら、できるだろ? これから先も、生きてる限りは絶対に人と接していくしかないんだ。友達くらい作れないと苦労すると思うけど?」


子ども扱いしているとわかる、優しく諭すような口調。
向けられた笑みも、宥めるためのものに見えた。
私を見つめたままの黒目がちの瞳が、否応なく心に入り込んでくる。


「それとも、やっぱり怖い?」


これは、挑発だ。
映画やドラマの台本になぞらえたような台詞と表情が、それを雄弁に語っている。


だから、クロのことなんて無視して、このまま立ち去ればいいとわかっていたのに……。

「別に怖くなんかない。今までは必要ないから行動しなかっただけなんだから」

決して逃げないと暗に込め、彼を力強く見つめ返した。


すると、クロはフッと笑みを落とし、どこか脱力したように再びベンチに腰を下ろした。


「じゃあ、俺がレッスンしてあげるよ」
「は?」
「友達の作り方……よりも、まずは人との接し方からの方がいいか。ここで話すついでに友達を作るための練習台になるから、千帆は俺で練習すればいい」
「ちょっと待って、なんでそうなるの?」


見返すつもりで挑発に乗った私は、勝手に話を進める彼に嫌な予感を抱いた。


「交換条件だよ」


クロの言葉で察したのは、抱いた嫌な予感が的中しているだろうということ。


「千帆に一ヶ月間付き合ってもらう代わりに、俺は千帆に友達ができるように協力する」


にっこりと向けられた笑みに目眩を覚えながらも、慌てて口を開いた。


「一ヶ月も付き合えるわけないでしょ! 私、受験生なんだってば!」
「勉強の邪魔はしないよ。なんなら、俺と会ってる時に暗記とか手伝うけど」
「いっ、いらない! 私はひとりで勉強したいの!」
「じゃあ、ダメか」
「問題はそこじゃない!」
「千帆、成績はいいだろ? 大丈夫だよ」
「そうじゃなくて、勉強時間を削ってまでやる必要ないって言ってるの!」
「なに? やっぱり怖気づいた?」
「違う! 別に怖くないって言ってるでしょ!」


無謀なやり取りが続き、息が乱れ掛けていることに気づいた。
こんな風に誰かと話したのはいつ以来だろう、なんてことが頭の中を過る。
両親とは別に喧嘩をしないし、そもそも短い会話でそんなところにまで発展しない。
学校や塾では必要最低限の言葉で済ませてしまうし、ツキには毎日話し掛けてはいても会話にはならないから、こんなにも長く人と言い合った記憶は中学生以来かもしれない。


「じゃあ、こうしよう」


意図せずに下りた沈黙を先に破ったのは、クロだった。


「明日の夜までに、学校で同級生と連絡先を交換して来てよ。そしたら、俺は全部潔く諦める」


全部、になにが込められているのか。
程なくして文字通りなのだと理解した私に、彼がにっこりと笑った。
二年以上在学して、同級生はもちろん、全校生徒の誰とも連絡先を交換したことなんてない。
いじめられこそしていないものの、入学式の頃を除けば一匹狼の私に関わろうとする人なんていなかったから。
だから、学校でまともな会話をした記憶がほとんどない私にとって、誰かと連絡先を交換するなんて安易ではない。
クロはそれも見透かしているから、そんな提案をしたのだろう。


「それが無理だったら、大人しく一ヶ月間付き合ってよ」
「……私、不利じゃない」
「そう? ……あ、もしここに来なかったら家まで迎えに行くし、それでもダメなら学校に乗り込むから」


脅迫めいた内容と話が通じないことに、呆れてしまった。
家に来られるのはもちろん、学校にまで追ってこられたらどんな噂が立つかわからない。
疲れ切ってため息を漏らした私を余所に、クロが私に複雑そうな笑みを向けたあとで夜空を仰いだ──。