月曜日の教室内は、どこか気怠い雰囲気が漂っている。
片道三十分ほど掛けて登校している私も例外ではなく、雨の中を歩いてようやく学校に辿り着いた時にはため息が漏れた。
自宅から徒歩で十分と電車で十五分、さらに徒歩五分の距離の通学は、真夏と真冬に続いて梅雨の時期には憂鬱になる。
もともと学校に行きたくない私にとって、憂鬱な要素がひとつ増えるだけでため息の数は何倍にもなってしまうのだ。


県内でも上位を争うレベルであるうちの高校を選んだのは、同じ中学出身の子がいないと知ったから。
中学三年生のほとんどが苦い思い出しかない私は、母校の生徒が多い地元の高校に進学するつもりだったのをやめて、願書を提出する直前に志望校を変えた。
それによって受験の難易度は高くなってしまったものの、幸いにも成績はそれなりだったおかげで無事に合格できた。
とは言え、中学三年生の二学期からは登校拒否だった時期が少なからずあるし、登校しても保健室や自習室でしか過ごせないことも何度もあったから、合格を素直に喜ぶことはできなかったけど……。同じ中学校出身の生徒がひとりもいないことが大きな救いとなり、結果的に高校は入学当初からちゃんと通うことができていた。


七時間授業の月曜日と水曜日は、一週間のうちでもっとも嫌いな曜日だ。
高校にはちゃんと通えていると言っても、中学時代の出来事をきっかけに人間不信に陥ってしまい、さらに人付き合いが苦手になったことで、二年以上通っている学校で友達と呼べる人は未だにひとりもいない。
そんな状況の中で、起きている時間のほとんどを学校に費やすというのは息苦しさを感じ、もちろんストレスも溜まる。
だから、勉強そのものが嫌いなわけではないのに学校はとても居心地が悪くて、週に二回の七時間授業の日はいつも以上に苦痛だった。


授業と授業の合間の十分間の休み時間が一回分増えることも、一時間長く学校で過ごさなければいけないことも、私にとってはつらいこと。
高校ではいじめに遭っていないだけ随分とマシではあるけど、それでも心が安らぐことのない場所での時間はとても長く思え、まるでずっと水の中にいるような息苦しささえ感じる。
もちろんそんなことは錯覚で、自分自身が変わる努力をすればいいだけだというのもわかっているけど……。高校に入学した当初は先生以外の人と話そうとすると本当に息ができなくなりそうだった私にとって、それはあまりにもハードルが高く、越えられそうにない大きな壁だった。


学校という空間から解放されると、いつもホッとする。
ようやく家に帰れるのだという事実が目の前にあるだけで、水の中から上がることができたような気になる。
もちろん明日の朝になればまた学校に来なければならないし、憂鬱な時間に囚われることになるその時のことが頭を過るとため息が落ちるけど……。それでも、解放されたばかりの今は、とにかく早く家に帰ることだけを考えていた。


SHRを終えたばかりの教室内の雰囲気は明るく、クラスメイトたちは談笑しながら各々の次の予定をこなすために動き出した。
引退間近の部活に向かう子もいれば、友達と寄り道をする子や予備校に行く子もいるし、最近は受験勉強のために教室に残って勉強会を開いている子もいるようだ。
そんなクラスメイトたちを横目に、できるだけ人と関わらずに済むようにするために部活に入らなかった私は、もちろん真っ直ぐ帰路に着く。
掃除当番や日直、委員会の仕事や先生からなにか頼まれた時や避けられない用事がある時以外は、SHRを終えたあとに教室に留まったことはない。
それは、高校に入学してから今日までずっと。
とにかく人と関わりたくなくて、いつも速やかに教室を出るようにしているのだ。


十七時過ぎに帰宅すると、いつものようにツキが出迎えてくれた。
ツキは基本的に私の部屋で過ごしているけど、私が出掛ける時には玄関まで見送ってくれ、帰って来た時には朝と同じところに座っている。
懐き始めた頃から私が家にいる時には私のあとを追うようになり、私が出掛ける時には引き止めるようにして玄関まで付いて来ていたことが、この行動を取るようになったきっかけなのだと思う。
私が帰宅する時は、恐らく門扉を開けた音で気づいて下りて来るのだろう。


小学生の頃から鍵っ子だった私は、ツキが来るまでは帰宅した時に家族に出迎えてもらえることなんて数えるほどしかなかったから、ツキの行動はとても嬉しかった。
ツキの言葉はわからないけど、それでもなんとなく求めているものはわかっているつもりだし、なによりも私のことを必要としてくれている。
出会った頃は警戒心を剥き出しにしていたのに、今ではすっかり健気で甘えん坊なのだ。


「ただいま、ツキ」


「ニャア」と鳴いたツキの頭を指先で軽く撫でると、ツキは気持ち良さそうな顔をした。


「ごめんね、今日はあんまり時間がないんだ」


ツキを抱いて自室に行き、すぐに塾の用意を済ませ、再びツキを抱いてリビングに下りた。
塾に通っている月曜日と木曜日は、帰宅してから家を出るまでとても慌ただしい。
近所にも塾はあるけど、この辺りだと中学時代の知り合いがいるかもしれないからわざわざ二駅先にある塾まで通っていて、さらにはツキのことが気になって一旦帰宅するからゆっくりできる時間はない。
個別指導の塾は、机がひとつひとつ仕切りで区切られているおかげで生徒たちと関わることはないから余計な心配はいらないし、熱心な先生が多くて教え方はわかりやすい。
月曜日は数学と英語、木曜日は数学と国語の授業を受けている。


塾に通い始めたのは半年前からだけど、それまで苦手意識の強かった数学の成績が安定するようになったし、もともと好きだった英語と国語はさらに好きになった。
高校生になってから苦手意識が強くなった数学を塾で勉強するようになった今では、どちらかと言うと得意科目だと言えるようになっている。
両親には評判のいい地元の予備校に通うことを勧められたけど、現段階の結果だけ見れば今の選択でよかったと思う。
だって、予備校だとどうしても個別指導のように生徒たちとまったく関わらないというわけにはいかないし、なによりも中学校の校区内から程近い場所にある予備校を選ぶ勇気はなかったから……。


ツキのご飯を用意したあと、寂しそうに玄関まで見送ってくれたツキを優しく撫でて家を出た。
学校から帰る時よりも僅かに雨足は弱まっているけど、相変わらず止む気配のない空模様にため息を零しながら傘を広げた。
駅まで足早に歩いて学校方面の電車に乗り、ふたつ先の駅で降りてから徒歩三分。
その道のりを経て、塾に着いた。


一限分の授業は五十分で、それぞれ十九時と二十時から、そして二十一時には終わる。
授業を受ける日は二十二時までなら自習室を自由に使えることになっていて、テスト前には私も利用することが多い。
両親が多忙のうえにひとりっ子の私は、自宅でもしっかりと勉強に集中できる環境ではあるけど、わからないところがあればすぐに訊ける塾で勉強するのも効率がいいのだ。
だから、学校の宿題で苦手な問題がある時には、塾で片づけることもある。
少し早く着いた日にも自習室を利用して勉強をしたり、時にはあえて早く来て自習室で過ごすこともあった。
今日は数学も英語も抜き打ちテストがあり、最後の二十分は小テストで終わった。
手応えを感じていた私は、次回の授業で小テストが返却されるのを楽しみにしながら自習室に足を運び、三十分ほど勉強してから塾を出た。


塾の帰りは決まって遅くなるから、自宅の最寄り駅に着いてからは自然と早足になる。
自宅までの道のりは人通りが多い方で明るい場所ばかりだけど、夜遅くにひとりで歩くのはほんの少しだけ不安になることもある。
スキニーデニムに英字がプリントされたグレーのTシャツというラフな格好をしているうえに、美容室に行くのが億劫で伸ばしているだけのセミディの髪とノーメイクの顔なのだから、別に誰からも興味を持たれたりはしないだろうけど……。こんなご時世だからなのか、学校では基本的に夜は制服で行動しないように指導されていて、母からも『遅くなる時はくれぐれも気をつけるように』と何度も言われているから、少しは緊張感を持たなければいけないことはわかっている。
とは言え、顔だって十人並みで人目を引くわけでもないのは重々理解しているから、自意識過剰に思えることもあった。


すっかり雨が止んだ夜道を歩きながらそんなことを考えていると、自宅近くの公園が見えて来た。
直径五メートルほどの噴水を兼ねた水場があるこの公園は、三年前にツキと出会った場所。
ここを通るたびに決まってそのことを思い出す私は、レンガで囲うようにして造られた出入り口の前に人が立っていることに気づいた。
一瞬足を止めてしまいそうになったのは、距離が縮まる最中で公園の前に立っている人が若い男性だと気づいたから。
昼間なら主婦や地元の中高生が集まっていることはあるし、私が中学生だった時も彩加と帰宅する日には何度かそこで足を止めたことがある。
だから、人がいること自体はちっとも不思議ではないけど、こんな時間にひとりで公園の前にいる人を見ることは滅多になかったから、少しだけ身構えそうになったのだ。
それが自意識過剰だと思い直したからこそ足を止めなかった私は、公園がある左側から少しだけ距離を取るためにさらに右側に寄って歩いた。


出入り口のすぐ傍にある街灯の光が、まるでその男性のためだけに存在しているかのように彼を照らしている。
ただの蛍光灯の光なのに、夜の空気のせいなのか、空を見上げているらしい男性の横顔とその姿はどこか儚くも見えた。


無意識のうちに視線を向けていたことに気づき、彼のいる場所まで残り二メートルほどになった時に慌てて目を逸らしたけど……。

「あっ!」

視線を逸らし切る前に男性が私を見たことを感じた瞬間、どこか焦りを孕みながらも柔らかな雰囲気を纏った声が飛んで来た。


「待って!」


そして、続けてそんな言葉が耳に届いた。


思わず男性の方を見てしまった直後、ハッとした。
しまった、と思った時にはすでに彼と目が合っていて、次の行動までの判断に時間を要したせいで微妙な間ができた。


それでも、すぐに不自然に声を掛けられたことを思い出し、慌てて目を逸らしたけど……。

「ちょっ、君! 待ってよ!」

男性は言い終わるよりも早く、無防備な私の左腕を掴んだのだ。


「……っ!」


反射的に悲鳴を上げようとしたのに声にならなくて、掴まれた左腕から伝わって来る力に体が硬直してしまう。
驚きと恐怖が混じると、声が出ないどころか咄嗟の判断すら下せないらしい。
いつも人の輪に入ることなく物事を見てばかりだったから、自分では冷静な性格だと思っていた。


だけど……。

「怪しい者じゃないから、悲鳴はやめてもらえないかな?」

いつの間にか目の前にいた男性の手で口を抑えられていることに気づいた時、頭の中が真っ白になってしまった。


心臓が大きく跳ね上がり、危険信号のようにバクバクと鳴っている。
一瞬で脳裏を過ったのは考えたくないような恐ろしいことばかりで、その想像のせいで足が竦み、体が震えていた。
そんな私の様子に気づいたのか、男性が慌てたように私の左腕から手を離した。


「ごめん。怖かったよね?」


まだ私の口から手を離していないのに、落とされたのは優しい声音。
矛盾しているような態度の男性への恐怖心で声は出なかったけど、体の震えが止まったことに気づく。
次の瞬間、初めて彼の顔をまともに見た。
お互いの視線が真っ直ぐにぶつかり、なんの隔たりもなく見つめ合う私たちの間には沈黙が下りた。
思わず息を呑んだのは恐怖心からではなく、なぜか泣きそうな顔をしている男性の瞳が優しげなものだったから。
決して安心できる状況ではないのに芽生えたはずの恐怖心は和らぎ始め、まだ足を動かすことはできないままだったけど抵抗しようという気持ちは薄まっている。


「あの、本当にごめん……。驚かせるつもりじゃなくて、ただ君にお願いがあっただけなんだ」


私を真っ直ぐ見つめたまま紡がれたのは、決して難しい内容ではないけど理解不能な言葉。
だって、私に頼み事をしてくるような人は、家族くらいしかいないはずなのだから。


「……えっと、叫ばないでね?」


男性から視線を逸らすことができずにいた私は、呼吸がしやすくなったことに気づく。
それは彼が私の口もとから手を離したからなのだと理解したあと、不安混じりの小さな笑みが向けられた。


「松浦千帆ちゃん」


耳を疑ったのは、優しげな声音で零されたのが自分の名前だったから。
大きく見開いた瞳には、目の前の男性が映っている。


「な、んで……」


どうして私の名前を知っているのかと訊きたかったのに、驚きのあまりそこで言葉に詰まってしまった。
和らいだはずの恐怖心がまた色濃くなり始めていると、少しだけ困ったような笑みが落とされた。
怖いはずなのに。
間違いなく、不安になっているのに。
私を見つめる瞳にどこか懐かしさにも似たようなものを感じ、逃げ出すことができない。


「俺、超能力者なんだ。君のことなら、なんでも知ってると思うよ」


ゆっくりとした口調で発された内容に、思わず口が開いた。


「……は?」

なにこの人……。超能力者って言った? 頭おかしいんじゃないの?

「……すみません、急ぐので」


さっきまでとは違う意味の恐怖心を抱く傍ら、バカげた発言のお陰で冷静になれたらしく、淡々と言いながら踵を返したけど……。


「ええっ!?」


直後、視界がグラリと揺れた。


「待って!」
「わっ!?」


全力で走り出そうとしていた私は、男性に引っ張られたせいでバランスを崩してしまった。


「……ぶっ!?」


転ぶと思ったのに、顔面を軽くぶつけただけだったけど……。

「わっ、ごめん! 大丈夫!?」

降って来た慌てたような声に顔を上げた瞬間、心臓が跳ね上がった。


鼓動が大きくなったのは、恐怖心のせいなのか、それともそれ以外の理由なのかはわからない。
ただ、自分が見知らぬ男性の胸の中に飛び込んでいたことに驚き、慌てて飛び退いた。


「大丈夫? 怪我してない?」


ぎこちなく頷いた私は、少しだけ痛む鼻の頭を軽く抑えながらとにかく逃げ出すことだけに神経を集中させようと試みたけど、足ごと前に出した体は掴まれた左腕によってそれ以上進むことを許されなかった。
咄嗟に振り返りながら口を開いたものの、彼と目が合った瞬間に放とうとした言葉を呑み込んでしまった。


「お願い、俺を助けて」


縋るような瞳で落とされたのは、まるで懇願。
彼がなにを望んでいるのかはもちろん、私に頼んで来る理由もわからないのに、その表情にほんの一瞬だけ心が揺らいだのがわかった。


だけど……。

「離して」

私は、彼を見つめたままはっきりと言った。
見知らぬ人の頼み事を聞くほどお人好しではないし、そもそも恐怖と不安はまだ残っているのだから。


「じゃあ、明日もここに来て。夜の八時に待ってるから」


そんな私に、男性は交換条件だと言わんばかりに告げた。


「なんで私が……」
「君じゃないと意味がないんだ」
「意味がわかりません。とにかく離してください」
「もちろん、タダでとは言わない。ちゃんと君にメリットがあるようにするから」


会話になっていないのはきっと気のせいではなくて、思わずため息が漏れたあとから不快感と苛立ちが募り出す。
メリットなんていらないから、私を解放して欲しい。
早く帰りたいのに相変わらず左腕は掴まれたままで、こんな時に限って人が通らないなんてツイていない。
自力でどうにかするしかないことを悟り、話の通じない相手を前にどうやってこの場から離れようかと考えていると、男性の手に力がこもった。


「ダメだ」


吐き出されたのは、とても真剣な声音。
私を見つめる瞳はまるで細い糸に縋りつくようで、そこからはたしかに不安げな色や弱々しさが覗いているのに……。真っ直ぐな黒目がちの瞳に、力強く吸い寄せられる。
目を、逸らせなかった。
なぜか私が離れればこの人が消えてしまいそうな気がして、彼の瞳を真っ直ぐ見つめたまま動けなくなってしまった。
いつの間にか恐怖心と不安は消えていて、代わりに男性の真意を探ろうとし始めている自分がいることに気づいた。
自分自身のことを超能力者だなんて言う怪しい人なのに、私を見つめる瞳があまりにも真っ直ぐなせいでこの人がふざけているとは思えなくなったのだ。


「明日の夜、またここに来て。絶対に変なことはしないし、君が嫌がることもしない」


優しく言われて思わず頷いてしまいそうになったけど、首を縦に振ろうとした瞬間にハッとした。


「そんなの、信じられるわけないでしょ」
「約束する」
「知らない人を信用できない」


無意識のうちに敬語を忘れていた私は、男性から視線は逸らさないままでいた。
逸らせなかったさっきまでとは違って今は故意に逸らさずにいたのは、そうすることで彼の真意を見つけようとしていたのかもしれない。


「じゃあ、友達と来てもいいから」
「友達なんて……」


言い掛けて口を噤んだ私に、男性がすべてを悟るようににっこりと微笑んだ。


不意打ちの笑みはとても優しげで、思わず心を奪われてしまいそうになったけど……。

「せ、せめて理由くらい話して」

まるで虚勢を張るように少しだけ強めの口調で言えば、今度は困ったような微笑を返された。


「理由はいずれ話すよ。俺はただ、君と話したいだけなんだ」


仄かに未来を思わせた言葉のあとで、今までで一番優しい声で紡がれた言葉が耳に届いた。
男性の薄茶色の柔らかそうな髪が、私たちの間を通り過ぎた夜風にふわりと揺れる。


黒目がちの瞳も、薄茶色の髪も、優しい声音も、初めて見聞きしたはずなのに……。

「千帆」

不思議なことにどこか懐かしいような気持ちになって、名前を呼ばれた直後に小さく頷いてしまった。


「約束だからね?」
「……え?」


そこでハッとした私は、ずっと人質のようになっていた左腕が解放されたことに安堵するよりも、頷いてしまったことを取り消すことが最優先だと理解したけど……。

「君が来るまでずっと待ってるから」

無垢な笑みを浮かべる男性に、発するはずだった言葉を奪われてしまった。


どこからか運ばれてくる雨上がり特有の匂いが鼻先を掠め、暑い夏の始まりを予感する。
それはまるで、なにかの合図にも思えた。


「俺のお願いを聞いてくれたら、君と君の未来を少しだけ変えてあげる。きっと、今よりもずっと楽しい人生になるよ」


そんなことを言った彼が意味深に笑った時、雨雲が切れた夜空には綺麗な満月が輝いていた──。