「ニャア」と鳴いたツキの声にハッとすると、窓の向こうの空はオレンジ色になっていた。
帰宅してすぐに始めたはずの数学の宿題は、あまり進んでいない。
嫌なことを思い出したせいで気分が悪くて、机に肘をついていた左手でこめかみの辺りをグシャッと掴む。
網戸にして扇風機を回しているだけの室内の空気はジメジメとしていて、体に纏わりつくその不快感にため息が漏れた。
そんな私の気持ちを察するように、ツキが足に体をすり寄せて来た。
薄茶色の毛はフワフワとしていて、少しだけくすぐったい。
蒸し暑さを感じているけど、ツキの体温はなんだか心地好かった。
「シャワー浴びようかな」
うちは夏場はシャワーだけで済ませるから、少し早いけどそれもいいかもしれない。
気分を変えるためにもそうすることに決めて立ち上がり、クローゼットの中にあるタンスから部屋着と下着を出した。
私が部屋を出ようとするとツキもそのあとを追うように歩き出し、階段を下りる私の後ろからピョンピョンと付いて来る。
普段のツキは部屋で待っていることの方が多いけど、私の気分が優れない時や元気がない時にはわかってしまうのか、こういう日は片時も離れようとはしないのだ。
私がシャワーを浴びている間、ツキはバスルームの前で大人しく待っていたみたいだった。
洗面台で濡れた髪を乾かしている時には私の足元で寝そべり、ドライヤーのスイッチを切るとピクリと反応して体を起こす。
「おいで。ご飯にしよう」
なにも言わなくても付いて来ることはわかっていたけど、誰よりも一番私の傍にいてくれるツキには話し掛けたくなるのだ。
だって、ツキは私の言葉を理解できているはずだから。
あくまでたぶんの話だけど、私の感情を敏感に感じているような行動を取るツキなら言葉も伝わっていると思う。
私に寄り添うようにトテトテと足早に付いて来るツキに笑みが零れ、憂鬱だった気分が随分と穏やかになった。
リビングに行って水分補給をしたあと、再び冷蔵庫を開けてコンビニのお弁当を出した。
仕事が忙しい両親とはあまり食事を共にすることはなくて、夕食どころか朝食ですら週末くらいしか一緒に食べることはない。
だから、両親ともに帰宅が遅くなる時には夕食は自分で用意するように言われていて、そうでない時にはダイニングテーブルや冷蔵庫に準備されている。
今朝はダイニングテーブルにお金が置いてあったから、学校帰りに近所のコンビニに寄ってお弁当を買っておいた。
そぼろ弁当をレンジで温めている間に、ツキのご飯と水を用意する。
ツキのご飯と水を入れるホワイトの容器は、外側に月と星が散りばめられ、外側から内側に向かって猫の足跡が点々と描かれていて、対になっている。
容器の中の底部分にお茶碗によそったご飯のイラストが描いてあるのがご飯用で、水の入ったコップが傾けられたイラストの方が水用。
容器の構造は猫が飲食しやすいように高さのある物になっていて、その工夫と可愛いイラストが気に入っている。
「はい、食べていいよ」
ダイニングテーブルの傍にそのふたつを置くと、ツキはその前でちょこんと座った。
程なくしてそぼろ弁当を温めていたレンジが鳴り、それを持ってダイニングテーブルのところまで行くと、ツキは座ったまま待っていた。
「食べていいよって言ったのに、また待ってたの?」
苦笑する私をじっと見つめているツキは、私が食べ始めるのを待っているのだ。
これはいつものことで、ツキは私が食べ始めてからご飯に口をつける。
特に躾として教えたわけではないけど、いつからかそうするようになっていて、その可愛らしい姿はまるで私と一緒に『いただきます』をしようとしているようにも見える。
一軒家にひとりで過ごしていると心細くなる時もあるけど、ツキがうちに来た日からそんな気持ちも少しずつ減っていった。
拾った時に右前足に傷を負っていたツキは、私が家に連れて帰る間は警戒心を出しながらも段ボール箱の隅にいるだけだった。
両親を説得したあとで汚れた体を拭こうにも今にも噛みつきそうなほど怯えているツキに手を伸ばすことはできなくて、あの日は心配でたまらないながらも段ボール箱の隅に水の入った器を置き、そのまま一夜を明かした。
当時は登校拒否気味だった私は、翌朝早くに地元の動物病院に連れて行った。
私は警戒心を剥き出しにしているツキを段ボール箱から出すことができなかったけど、獣医さんは難なくそこから出して診察をしてくれた。
右前足の傷は恐らく野良猫にでもやられたのだろうという診断で、推定年齢は七歳。
そして、予想通り衰弱していると言われ、看病のためのノウハウや必要なものを教えてもらって帰宅した。
最初のうちはもちろんツキの警戒心が解けることはなく、数日経つ頃にはきちんとご飯を食べてくれるようにはなったけど、ボロボロの段ボール箱から出ることをひどく嫌がっていて……。私は受験勉強の傍ら、ツキと根気良く向き合うことにした。
ツキという名前は、拾った日に決めた。
ツキを拾った時に公園で見た満月がとても綺麗だったことと、ツキとの出会いは夜空で輝く満月に導かれたような気がしたから。
獣医さんの話だともともとは飼い猫だったことは間違いないみたいだったから、新しい名前を与えても慣れてくれないかもしれないという不安はあったけど……。それでも希望を込めて、ツキと過ごすようになって三日が過ぎた頃に初めて名前を呼び、それからは毎日必ず何度も名前を呼んで話し掛けた。
ツキがうちに来てから一ヶ月が経った頃、ツキは初めて自分で段ボール箱の外に出た。
それまではお風呂や体を拭くために私が無理に出すことしかなくて、そんな時にはいつも引っ掻かれたりしていたけど……。この日の夜にご飯を与えようと準備をして部屋に行くと、私の姿を見たツキが段ボール箱の中からピョンと出てきたのだ。
この頃には少しずつ警戒心を見せることが減り始めてはいたけど、これにはさすがに驚いて言葉を失った。
だけど、程なくして自然と笑みが零れ、瞳にはうっすらと涙が浮かぶほど嬉しくなった。
そして、数え切れないほど呼び続けていた「ツキ」という名前に応えるようにツキが鳴いたのも、この時が初めてだった。
「ごちそうさまでした」
ツキを気にしながら夕食を食べ終えた時には、ツキは私の足元で寝転がっていた。
器にはご飯が四分の一ほど残っていて、思わず小さなため息が漏れる。
「また残したの? もういらないの?」
私の言葉にピクリと反応したツキは、ゆっくりと起こした体を私の足にすり寄せた。
最近、ツキは食欲が落ちた。
普段は特に変わった様子はないから蒸し暑さのせいかと思っていたけど、もしかしたらどこか悪いのかもしれない。
不安を感じながら抱き上げて膝に乗せると、ツキはいつものように喉を鳴らしながら甘え出した。
その愛らしい姿に笑みが零れるけど、ご飯が残ったままの器を見ると胸の中にはすぐに不安が戻って来た。
「近いうちに病院に行こっか」
食事も水もきっちり与えているし、室温だって気に掛けている。
それでも体調を崩すことはあるだろうし、なによりもこの二週間ほど食欲が落ちたままのツキが心配でたまらない。
病気をした時みたいにぐったりしているわけではないから様子を見ていたけど、このまま放っておいて大事に至ったら絶対に後悔するし、なによりもなにかあってからでは遅い。
私にとって、ツキはかけがえのない存在で、大切な家族だから。
しばらくツキを撫でたあと、「片付けるから待っててね」と下ろした。
そんな時のツキの瞳はどこか不満げに見えて、なんだか申し訳なくなるのはもちろん、益々愛おしくなる。
最初は反対していた両親も今ではツキを可愛がっているし、ツキも両親と接する時間が短いわりには懐いているとは思うけど……。それでも、ツキが一番懐いているのは私だというのは明白で、それ故に私の責任感や愛情もとても強い。
だからこそ、どんなに忙しくてもツキとの時間は大切にしている。
「ツキ、おいで」
手早く洗い物をしたあとでツキに声を掛けると、三歩ほど離れた場所に座っていたツキがすぐに寄って来た。
ツキを抱き上げると、腕の中の重みがツキの存在をしっかりと感じさせてくれて、安心したように抱かれるツキと同様に私もそんな気持ちになる。
「ちょっと痩せたね……」
ただ、今日は今まで以上に心配になって、素直にツキの体温と重さを感じるだけでは済まなかった。
自室に戻ってツキを下ろすと、私の様子を窺うようにしていたツキは、私が机に向かった直後に足元で寝転がった。
いつも通りのツキに癒やされた私は、時折ツキの薄茶色の尻尾が素足に触れるのを感じながら宿題をこなした。
宿題を終えた頃、帰宅して部屋にやって来た母と軽く会話を交わした。
内容は本当に他愛のないもので、その時間はほんの五分ほど。
母が仕事の日は大体こんな感じで、私も受験勉強に励む身だから特別なことがない限りは会話が長引くことはない。
父とは仲が悪いというほどではないけど、平日はほとんど顔を合わせないこともあって会話もない。
休日に顔を合わせればさすがに話すけど、お互いに口下手だからこの数年は話が弾むことはなかった。
それに、父も私もどう接していいのかわからないという気持ちがあるのだと思う。
友達と呼べる人がいないから他の家庭や親子関係がどんな感じなのかは知らないけど、両親の仲は良好のようだし、私自身はこの状況に対して特に不満を感じることもなかった。
ただ、忙しい両親との関係は気軽に相談できるようなものではないから、いざという時ですら頼り方がわからないというのはあるけど……。
「ツキが人間だったらいいのにね」
だからこそ、私にとってツキの存在はとても大きく、この台詞が口癖になっている。
だけど、それが叶わないとわかっている私は、いつからか眠る前の日課となっているツキの額へのキスをしたあと、ため息混じりの微苦笑を零した──。
帰宅してすぐに始めたはずの数学の宿題は、あまり進んでいない。
嫌なことを思い出したせいで気分が悪くて、机に肘をついていた左手でこめかみの辺りをグシャッと掴む。
網戸にして扇風機を回しているだけの室内の空気はジメジメとしていて、体に纏わりつくその不快感にため息が漏れた。
そんな私の気持ちを察するように、ツキが足に体をすり寄せて来た。
薄茶色の毛はフワフワとしていて、少しだけくすぐったい。
蒸し暑さを感じているけど、ツキの体温はなんだか心地好かった。
「シャワー浴びようかな」
うちは夏場はシャワーだけで済ませるから、少し早いけどそれもいいかもしれない。
気分を変えるためにもそうすることに決めて立ち上がり、クローゼットの中にあるタンスから部屋着と下着を出した。
私が部屋を出ようとするとツキもそのあとを追うように歩き出し、階段を下りる私の後ろからピョンピョンと付いて来る。
普段のツキは部屋で待っていることの方が多いけど、私の気分が優れない時や元気がない時にはわかってしまうのか、こういう日は片時も離れようとはしないのだ。
私がシャワーを浴びている間、ツキはバスルームの前で大人しく待っていたみたいだった。
洗面台で濡れた髪を乾かしている時には私の足元で寝そべり、ドライヤーのスイッチを切るとピクリと反応して体を起こす。
「おいで。ご飯にしよう」
なにも言わなくても付いて来ることはわかっていたけど、誰よりも一番私の傍にいてくれるツキには話し掛けたくなるのだ。
だって、ツキは私の言葉を理解できているはずだから。
あくまでたぶんの話だけど、私の感情を敏感に感じているような行動を取るツキなら言葉も伝わっていると思う。
私に寄り添うようにトテトテと足早に付いて来るツキに笑みが零れ、憂鬱だった気分が随分と穏やかになった。
リビングに行って水分補給をしたあと、再び冷蔵庫を開けてコンビニのお弁当を出した。
仕事が忙しい両親とはあまり食事を共にすることはなくて、夕食どころか朝食ですら週末くらいしか一緒に食べることはない。
だから、両親ともに帰宅が遅くなる時には夕食は自分で用意するように言われていて、そうでない時にはダイニングテーブルや冷蔵庫に準備されている。
今朝はダイニングテーブルにお金が置いてあったから、学校帰りに近所のコンビニに寄ってお弁当を買っておいた。
そぼろ弁当をレンジで温めている間に、ツキのご飯と水を用意する。
ツキのご飯と水を入れるホワイトの容器は、外側に月と星が散りばめられ、外側から内側に向かって猫の足跡が点々と描かれていて、対になっている。
容器の中の底部分にお茶碗によそったご飯のイラストが描いてあるのがご飯用で、水の入ったコップが傾けられたイラストの方が水用。
容器の構造は猫が飲食しやすいように高さのある物になっていて、その工夫と可愛いイラストが気に入っている。
「はい、食べていいよ」
ダイニングテーブルの傍にそのふたつを置くと、ツキはその前でちょこんと座った。
程なくしてそぼろ弁当を温めていたレンジが鳴り、それを持ってダイニングテーブルのところまで行くと、ツキは座ったまま待っていた。
「食べていいよって言ったのに、また待ってたの?」
苦笑する私をじっと見つめているツキは、私が食べ始めるのを待っているのだ。
これはいつものことで、ツキは私が食べ始めてからご飯に口をつける。
特に躾として教えたわけではないけど、いつからかそうするようになっていて、その可愛らしい姿はまるで私と一緒に『いただきます』をしようとしているようにも見える。
一軒家にひとりで過ごしていると心細くなる時もあるけど、ツキがうちに来た日からそんな気持ちも少しずつ減っていった。
拾った時に右前足に傷を負っていたツキは、私が家に連れて帰る間は警戒心を出しながらも段ボール箱の隅にいるだけだった。
両親を説得したあとで汚れた体を拭こうにも今にも噛みつきそうなほど怯えているツキに手を伸ばすことはできなくて、あの日は心配でたまらないながらも段ボール箱の隅に水の入った器を置き、そのまま一夜を明かした。
当時は登校拒否気味だった私は、翌朝早くに地元の動物病院に連れて行った。
私は警戒心を剥き出しにしているツキを段ボール箱から出すことができなかったけど、獣医さんは難なくそこから出して診察をしてくれた。
右前足の傷は恐らく野良猫にでもやられたのだろうという診断で、推定年齢は七歳。
そして、予想通り衰弱していると言われ、看病のためのノウハウや必要なものを教えてもらって帰宅した。
最初のうちはもちろんツキの警戒心が解けることはなく、数日経つ頃にはきちんとご飯を食べてくれるようにはなったけど、ボロボロの段ボール箱から出ることをひどく嫌がっていて……。私は受験勉強の傍ら、ツキと根気良く向き合うことにした。
ツキという名前は、拾った日に決めた。
ツキを拾った時に公園で見た満月がとても綺麗だったことと、ツキとの出会いは夜空で輝く満月に導かれたような気がしたから。
獣医さんの話だともともとは飼い猫だったことは間違いないみたいだったから、新しい名前を与えても慣れてくれないかもしれないという不安はあったけど……。それでも希望を込めて、ツキと過ごすようになって三日が過ぎた頃に初めて名前を呼び、それからは毎日必ず何度も名前を呼んで話し掛けた。
ツキがうちに来てから一ヶ月が経った頃、ツキは初めて自分で段ボール箱の外に出た。
それまではお風呂や体を拭くために私が無理に出すことしかなくて、そんな時にはいつも引っ掻かれたりしていたけど……。この日の夜にご飯を与えようと準備をして部屋に行くと、私の姿を見たツキが段ボール箱の中からピョンと出てきたのだ。
この頃には少しずつ警戒心を見せることが減り始めてはいたけど、これにはさすがに驚いて言葉を失った。
だけど、程なくして自然と笑みが零れ、瞳にはうっすらと涙が浮かぶほど嬉しくなった。
そして、数え切れないほど呼び続けていた「ツキ」という名前に応えるようにツキが鳴いたのも、この時が初めてだった。
「ごちそうさまでした」
ツキを気にしながら夕食を食べ終えた時には、ツキは私の足元で寝転がっていた。
器にはご飯が四分の一ほど残っていて、思わず小さなため息が漏れる。
「また残したの? もういらないの?」
私の言葉にピクリと反応したツキは、ゆっくりと起こした体を私の足にすり寄せた。
最近、ツキは食欲が落ちた。
普段は特に変わった様子はないから蒸し暑さのせいかと思っていたけど、もしかしたらどこか悪いのかもしれない。
不安を感じながら抱き上げて膝に乗せると、ツキはいつものように喉を鳴らしながら甘え出した。
その愛らしい姿に笑みが零れるけど、ご飯が残ったままの器を見ると胸の中にはすぐに不安が戻って来た。
「近いうちに病院に行こっか」
食事も水もきっちり与えているし、室温だって気に掛けている。
それでも体調を崩すことはあるだろうし、なによりもこの二週間ほど食欲が落ちたままのツキが心配でたまらない。
病気をした時みたいにぐったりしているわけではないから様子を見ていたけど、このまま放っておいて大事に至ったら絶対に後悔するし、なによりもなにかあってからでは遅い。
私にとって、ツキはかけがえのない存在で、大切な家族だから。
しばらくツキを撫でたあと、「片付けるから待っててね」と下ろした。
そんな時のツキの瞳はどこか不満げに見えて、なんだか申し訳なくなるのはもちろん、益々愛おしくなる。
最初は反対していた両親も今ではツキを可愛がっているし、ツキも両親と接する時間が短いわりには懐いているとは思うけど……。それでも、ツキが一番懐いているのは私だというのは明白で、それ故に私の責任感や愛情もとても強い。
だからこそ、どんなに忙しくてもツキとの時間は大切にしている。
「ツキ、おいで」
手早く洗い物をしたあとでツキに声を掛けると、三歩ほど離れた場所に座っていたツキがすぐに寄って来た。
ツキを抱き上げると、腕の中の重みがツキの存在をしっかりと感じさせてくれて、安心したように抱かれるツキと同様に私もそんな気持ちになる。
「ちょっと痩せたね……」
ただ、今日は今まで以上に心配になって、素直にツキの体温と重さを感じるだけでは済まなかった。
自室に戻ってツキを下ろすと、私の様子を窺うようにしていたツキは、私が机に向かった直後に足元で寝転がった。
いつも通りのツキに癒やされた私は、時折ツキの薄茶色の尻尾が素足に触れるのを感じながら宿題をこなした。
宿題を終えた頃、帰宅して部屋にやって来た母と軽く会話を交わした。
内容は本当に他愛のないもので、その時間はほんの五分ほど。
母が仕事の日は大体こんな感じで、私も受験勉強に励む身だから特別なことがない限りは会話が長引くことはない。
父とは仲が悪いというほどではないけど、平日はほとんど顔を合わせないこともあって会話もない。
休日に顔を合わせればさすがに話すけど、お互いに口下手だからこの数年は話が弾むことはなかった。
それに、父も私もどう接していいのかわからないという気持ちがあるのだと思う。
友達と呼べる人がいないから他の家庭や親子関係がどんな感じなのかは知らないけど、両親の仲は良好のようだし、私自身はこの状況に対して特に不満を感じることもなかった。
ただ、忙しい両親との関係は気軽に相談できるようなものではないから、いざという時ですら頼り方がわからないというのはあるけど……。
「ツキが人間だったらいいのにね」
だからこそ、私にとってツキの存在はとても大きく、この台詞が口癖になっている。
だけど、それが叶わないとわかっている私は、いつからか眠る前の日課となっているツキの額へのキスをしたあと、ため息混じりの微苦笑を零した──。



