学校から帰宅すると、いつものように玄関で迎えてくれた猫のツキが「ニャア」と鳴いた。
「ただいま、ツキ」
大切な家族のツキは、黒目がちの瞳に薄茶色の毛並みの男の子。
三年前の九月のある夜、塾の帰りに通り掛かった近所の公園で小汚い段ボール箱に入れて捨てられていたところを偶然見つけ、どうしても放っておけなくて連れて帰って来てしまったのだ。
ツキを一目見た両親には予想通り猛反対されたけど、金銭面以外の面倒をすべて自分で見ることを条件に飼うことを許してもらえた。
正直、最初はどれだけ頼み込んでも無駄かもしれないと思っていたから、両親が許可を出してくれた時は心底驚いた。
物心ついた時からわがままを言うことがほとんどなかった私が引き下がらなかったからなのか、それとも普段は家でひとりで過ごすことが多い私に少なからず同情したのか……。考えられる理由はそれくらいだったけど、もし両親に許可をもらえなかったとしても、きっと私にはツキを元の場所に戻して来ることなんてできなかったと思う。
だって……段ボール箱の隅で体を丸めながら警戒心を剥き出しにしていたツキに、当時いつもひとりぼっちだった自分自身の姿を重ねてしまったから──。
中学三年生だった当時、私は学校でいじめられていた。
子どもの頃から人とコミニュケーションを取るのが苦手だったから、もともと友達は少なかったし、中学生になっても親友だと思えるような存在はひとりしかいなかったけど……。それでも、友達は数じゃないから信頼できる子がたったひとりいればいいと思っていたし、授業や行事でペアを組む時には時々困ることはあったものの、それ以外では大きな問題を感じたことはなかった。
ところが、中学三年生の一学期のある日、突然いじめのターゲットにされてしまったのだ。
なんの前触れもなかった。
本当に、ある日突然だった。
親友と呼べる子はひとりだけだったけど、だからと言って休み時間にひとりで過ごすような孤立した状態だったわけじゃない。
一・二年生の時には同じクラスだった親友の彩加とは三年生で違うクラスになってしまったから、教室にいる時は部活が同じだったふたりのクラスメイトとよく一緒に過ごしていた。
彼女たち以外のクラスメイトとだって、もちろん普通に他愛のない会話くらいはしていた。
だから……あの頃の私は、まさか自分がいじめのターゲットになる日が来るなんて思ってもみなかったのだ。
最初に小さな異変を感じたのは、六月も残り数日という頃。
その日、私は四人のクラスメイトに頼まれて、放課後の教室で期末テストの勉強を教えていた。
クラスメイトと言っても、彼女たちは校則違反なんて気にもせずに髪を染めているような派手なグループで、地味な私とは時々しか会話をしないような関係だったから、昼休みに『勉強を教えてくれない?』と声を掛けられた時はとても驚いた。
それでも、頼られるのは悪い気はしなかったし、四人から一斉に頼まれてしまっては断りにくいということもあって、『塾の時間までなら』という約束で承諾をした。
最初は他愛のない会話をしたり、四人が問題を解いている間に手持ち無沙汰になれば私もテスト勉強をして、わりと有意義な時間を過ごせていたと思う。
ただ、二十分もしないうちに四人ともやる気を削がれたかのように雑談ばかりになってしまい、その間もひとりで黙々とテスト勉強をする私を余所にずっと会話が途切れることはなかった。
それから三十分以上が経った頃、彼女たちがようやく勉強に戻ったかと思えば同じパターンの問題で何度もつまずいて先に進まず、私が帰らなければいけない時間になっても最初に開いていた問題集は一ページの半分も終わっていなかった。
正直、無駄な時間だ、と途中から思っていた。
つまらない雑談の中で集中できるはずもなくて、テスト勉強は途中から捗っていなかったから。
こんなことなら帰ってひとりで勉強するか、早めに塾に行って自習室で勉強している方が確実に捗っただろうし、塾の自習室ならわからない問題を先生に教えてもらうことだってできた。
私が時間を割いても本人たちにやる気がなければ捗るわけがないのだから、それなら自分のために時間を使いたかった。
こんなことになるってわかってたら、断る理由を考えたのに……。結局、ほとんど喋ってただけじゃない。
そんな気持ちからため息が漏れた私は、自分でも気づかないうちに不機嫌な顔になっていたのかもしれない。
不意に静まり返ったことに違和感を抱いて顔を上げると、四人の視線が自分に集まっていたことに戸惑った。
「どうしたの?」
控えめに尋ねた私に、グループのリーダー格の女子が微妙に笑みを浮かべた。
「いやぁ、松浦さん怒ってる?」
「え?」
「ほら、うちら頭悪いから全然進まなかったじゃん? だから、ムカついたのかなーって思ってさ」
半笑いの軽い口調に苛立たなかったと言えば嘘になるけど、そんな気持ちと戸惑いを押し退けて口を開いた。
「そんなことないよ。でも、ごめんね。私、そろそろ帰らなきゃいけないから……」
暗に『終わりにしよう』と告げたつもりで、広げていた教科書や問題集を閉じて筆記用具とともにバッグに片付け始めたけど……。
「ねぇねぇ、ここわかんないんだけど」
そんな私のことなんてお構いなしで、別の女子がそう口にした。
「え? あ、ごめんね。私、もう──」
「まだいいじゃん! 松浦さん、あと十分は大丈夫なんでしょ?」
たしかに、私は『十七時前まで』と言っていたし、時計はその十分前を指している。
「ここなんだけどさぁ」
だけど、指差された問題はほんの数分前に教えたばかりのもので、さすがに付き合い切れないと思ってしまった。
「そこ、さっきも教えたよ? っていうか、今日はずっとそれと同じパターンの問題しかやってないから、やり方は全部同じだよ」
自分でなんとかしてよ、と言いたかったのはさすがに飲み込んだけど……。
「……あ、そう。じゃあ、もういいや」
質問して来た女子の声がワントーン低くなったことに気づき、ハッとして四人の顔を見た。
一瞬だけ時間が止まったように感じたけど、彼女たちはすぐに笑っていた。
この時は、たしかに笑っていたはずだった。
その日はそのまま解散することになり、私は一瞬だけ微妙な空気になったことが気になったけど……。夜には塾の宿題とテスト勉強に追われていたせいでそんなことはすっかり忘れて、翌日もいつものように彩加と学校に行った。
違和感を抱いたのは、その直後のこと。
廊下で彼女と別れて教室に入ると、教室内の雰囲気がいつもと違うような気がしたのだ。
なにが違うのかはわからない。
ただ、教室に入った瞬間に目が合った数人のクラスメイトが私から視線を逸らし、いつも一緒に過ごすふたりのもとへ行って「おはよう」と言うと、どこか困ったように笑いながら挨拶を返された。
それらの出来事に違和感を感じないはずはなくて、もしかしたら顔や制服になにかついているのかと不安になったけど、さりげなく確認してみてもおかしなところは見当たらない。
そんな私のことをすぐ傍で見ていたのは昨日の四人で、彼女たちは数歩分の距離を歩いて来るとニッコリと笑った。
「松浦さん、おはよ。昨日はありがとねー」
「うちらバカだから、付き合うの面倒だったでしょ?」
「一応、ちゃんと頑張ったんだけどさぁ」
「ねー」
四人の口調に棘を感じながらも、出来るだけ笑顔で首を横に振った。
「面倒だなんて思ってないよ」
無駄だったとは思ったけど、面倒だとは思わなかった。
勉強は捗らなかったとは言え、教えるのは自分の勉強にもなるし、なによりも頼ってもらえたことについては今も悪い気はしていないから。
ただ、もしまた同じことを頼まれたらどうしようかと身構えてしまって、笑顔が引き攣りかけていた。
「あっ、うちら、今日からは自力で勉強することにしたから」
その言葉にホッとしたけど、そもそも今日以降のことは約束していなかったはず。
それなのに、あえて宣言のようにも取れる言い方をされたことが引っ掛かって、なんだかモヤモヤとした。
「松浦さんもうちらみたいなバカに付き合ってられないでしょ?」
「そうそう。昨日もつまんなそうだったもんね」
「最後なんてため息ついてたし」
「ずっと学年上位の松浦さんは、レベルが違うもんねー」
教室中に響くような声で会話を始めた四人を前に、背中に嫌な汗が伝った。
あぁ、そうか……。私……私は……。
きっと、失敗してしまったのだ。
思い当たるのは昨日のことだけで、ミスをしたのはその時しかない。
それに気づいた時、私を見るクラスメイトたちの目はなんとも言えないものだった。
そのあとは、四人になにを言われたのかはよく覚えていない。
ただ、自分がとても危うい状態だということだけは理解できて、なんとかしようと口を開くものの、機転の利いた言葉はなにひとつ出て来なかった。
派手なグループのターゲットになってしまった私に手を差し伸べてくれるクラスメイトはいなくて、四人に囲まれて針のむしろになる私の頭の中は真っ白になっていた。
この時、上手く取り繕っていれば、それができなくても『そんなつもりはなかった』とでも言って謝罪していれば、なんとかなったのかもしれない。
ようやくチャイムが鳴って彼女たちから解放された時にはホッとしたけど、すぐ傍で見ていたふたりのクラスメイトは私と目を合わせようとしなくて……。この時から、私はクラスで孤立してしまった。
クラスメイトたちは、私のことをできる限り避け、目も合わせてくれない。
先生がクラスメイトづてに私を呼び出した時も伝言すら届かなくて、なにも知らない先生に注意されたこともあった。
教室にいるのが息苦しくなって、休み時間の度にトイレや人気のない場所に逃げた。
それでも、登校時と昼休みだけは今まで通り彩加と過ごすことができていたから、教室で孤立していてもなんとか頑張れていた――。
それから二週間が過ぎて一学期の期末テストが終わった頃、ようやく彩加に打ち明けることができた。
この日は珍しく彼女が所属しているテニス部の練習が休みで、週に二回しか活動していない美術部だった私の教室まで「一緒に帰ろう」と誘いに来てくれたのだ。
この二週間はずっと放課後になると逃げるように教室を飛び出していた私にとって、彩加の声はまるで救いの女神のもののように思えた。
それが本当に嬉しくて、限界を感じ始めていたこともあって……。帰りに私の家に寄ってもらい、途中から泣きながらこの二週間のことをすべて話した。
「そっか……。やっぱり、そうだったんだね」
話し終えたあとに落とされた第一声は、そんな言葉だった。
彩加は、自分のクラスメイトから私がいじめのターゲットになっていることを聞いていたらしい。
ただ、それを聞いたのが期末テスト中だったし、その間は毎日ずっと一緒に登下校をしていたのに私がなにも言わないから、自分から尋ねることはできなかった、と付け足した。
それは、彼女なりの気遣いだったのだろう。
小学生の頃からずっと優しい彩加は、私がいじめられていることを知っても全然変わらずにいてくれて、その事実にまた涙が溢れた。
程なくして、彩加は先生や両親に相談することを勧めてくれたけど、私は首を横に振った。
先生に話していじめがひどくなるのが怖かったし、仕事で忙しい両親にはいじめられていることなんて知られたくなかった。
それに、いじめと言っても、無視をされているのと教室内であの四人に悪口を言われることばかりで、テレビやネットで知った状況と比べればずっとマシだと思っていた。
暴力をふるわれることも、教科書を破かれたり物を隠されたりすることもなかったし、グループラインなんかではもっとひどい悪口が交わされているのかもしれないけど、今のところは私自身がそれを感じていない。
なによりも、彩加がいてくれる。
クラスで孤立していることも無視や悪口もつらいけど、彼女は私のことを心配してくれている。
初めて人に打ち明けることができて少しだけラクになったというのもあったのか、クラスメイトたちから無視されていてもたったひとりの理解者がいるだけで心強く思えたのだ。
「わかった。千帆が嫌なら言わないよ。でも、私は千帆の味方だから」
彩加の言葉は涙が止まらなくなるほど嬉しくて、彼女だけは味方でいてくれると思うともう少しくらいなら頑張れるような気がした。
それなのに……そんな時間も、長くは続かなかった。
彩加に打ち明けてから数日後に夏休みに入り、あの教室の雰囲気から解放されたことにホッとしていた。
夏休みが終わるのは怖くてたまらなかったけど、とりあえず一ヶ月は教室に行かなくてもいい。
その事実は私の心を軽くしてくれたし、もしかしたら二学期にはいじめがなくなっているかもしれないという淡い期待もあった。
だから、週二回の美術部の活動を休むことなくお盆休み前の引退まで頑張り、それ以外は塾や家で受験勉強に励んだ。
家から一番近い高校に進学するつもりだった私と彩加は、引退がもう少し先だった彼女の部活が休みの日にはお互いの家で夏休みの課題と受験のための勉強会を開いたりもして、わりと充実していたと思う。
その時には『ふたりで同じ高校に行こうね』と口癖のように言い合い、二学期への不安を感じながらも来年の春への期待に胸を膨らませていた。
だけど……お盆の頃から少しずつ彩加からの連絡が減り始め、それから一週間もするとまったく返事が来なくなってしまった。
母方の田舎に行くと言っていたから忙しいのかと思っていたけど、彼女がこんなにも連絡をくれなかったことは今までに一度もなくて、次第に不安が大きくなっていった。
彩加から連絡が来なくなってしまった時、最初は忙しいのかと考え、次に体調を崩したのではないかと心配になり、最後に不安だけが残った。
八月の最後の土日にある地元のお祭りには毎年必ず彼女と行っていたけど、不安を抱えながら誘ったメッセージにはやっぱり返事が来なくて、それどころか“既読”がつくこともなかった。
それでも、二学期の始業式の前日には勇気を出して【いつもの場所で待ってるね】と送ったけど、始業式の日に彩加が待ち合わせ場所に来ることはなくて……。最後まで自分の置かれた状況を信じられなかった私は、ギリギリまで待っていたせいでチャイムが鳴る寸前に教室に着いた。
教室内の私への雰囲気は一学期となにも変わらなくて、私が教室に入った直後に大声で笑ったあの四人を見て、目の前が真っ暗になった。
「あれぇ? 松浦さん、今日はひとり?」
「いつもの友達は一緒じゃないの? あの子、早くに来てたみたいだけどー」
ケラケラと笑う声が耳を突き刺し、嫌な汗が背中を伝う最中に足が震え始めた。
しばらく教室のドアの前で動けなかった私は、たぶん担任の先生に注意をされて席に着いたのだったと思う。
そして、始業式のために体育館に行った時、さらに絶望感を抱いた。
「彩っ……!」
体育館の入口のところで彩加の姿を見つけた私は、咄嗟に彼女のことを呼んでいた。
親友の彩加だけは“あちら側”には行かないはずだと、この状況はきっとなにかの間違いなのだと自分自身に言い聞かせ、彼女の傍に駆け寄ろうとしたけど……。私に気づいた彩加は、目を見開いたあとであからさまに顔を背け、逃げるように体育館に入ってしまった。
途端に感じたのは、絶望。
地面がガラガラと崩れていくような気がして、真っ逆さまに落ちる自分自身の姿が脳裏に浮かんだ。
他の生徒たちは突然止まった私に怪訝な顔をしながらも体育館に入って行き、何人かにぶつかられたことを感じながらも動けない。
「松浦さん、親友にまで見放されたんだー」
そんな私の耳元で落とされたのは、嘲るような声。
心臓が鷲掴みにされたように苦しくなって、その聞き覚えのある声はあの四人のうちの誰かのものだということを理解した直後、踵を返して走り出していた。
呼吸すら上手くできないのに無理に走ったせいで、あっという間に息が上がる。
どうしよう……。どうしよう、どうしよう……。
頭の中ではその五文字が繰り返し流れるけど、絶望に包まれた心が考えることを拒絶していた。
ただ逃げることだけを考えて走っていた私は、廊下で美術部の顧問とぶつかったことによって止まることになった。
先生はすぐに私の様子がおかしいことに気づいたようで、汗でぐっしょりと濡れている私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? なにかあった?」
「……っ」
美術の授業と部活でお世話になっている芝田先生は四十代の女性で、優しい声音が耳に届いた時には涙が零れ落ちていた。
「こっちへいらっしゃい」
先生はフラフラと歩く私を支えるようにして保健室に連れて行き、「あとでまた来るから」と言って養護教諭に私のことを託して体育館に行ってしまった。
始業式が終わるまでは保健室で休ませてもらい、再びやって来た芝田先生は私に事情を訊こうとしていたけど……。教室から荷物を持って来てくれた先生にお礼だけ言って、結局それ以外はなにも話さずに帰宅した。
仕事で忙しい両親は家にはいなくて、学校から連絡を貰ったらしい母から電話が掛かって来たけど、「体調が悪かっただけ」と短く答えて切った。
ひとりぼっちの家の中では絶望感が大きくなっていき、ただただ涙が止まらなかった。
そして、この日をきっかけに、私は学校にあまり行けなくなってしまった──。
「ただいま、ツキ」
大切な家族のツキは、黒目がちの瞳に薄茶色の毛並みの男の子。
三年前の九月のある夜、塾の帰りに通り掛かった近所の公園で小汚い段ボール箱に入れて捨てられていたところを偶然見つけ、どうしても放っておけなくて連れて帰って来てしまったのだ。
ツキを一目見た両親には予想通り猛反対されたけど、金銭面以外の面倒をすべて自分で見ることを条件に飼うことを許してもらえた。
正直、最初はどれだけ頼み込んでも無駄かもしれないと思っていたから、両親が許可を出してくれた時は心底驚いた。
物心ついた時からわがままを言うことがほとんどなかった私が引き下がらなかったからなのか、それとも普段は家でひとりで過ごすことが多い私に少なからず同情したのか……。考えられる理由はそれくらいだったけど、もし両親に許可をもらえなかったとしても、きっと私にはツキを元の場所に戻して来ることなんてできなかったと思う。
だって……段ボール箱の隅で体を丸めながら警戒心を剥き出しにしていたツキに、当時いつもひとりぼっちだった自分自身の姿を重ねてしまったから──。
中学三年生だった当時、私は学校でいじめられていた。
子どもの頃から人とコミニュケーションを取るのが苦手だったから、もともと友達は少なかったし、中学生になっても親友だと思えるような存在はひとりしかいなかったけど……。それでも、友達は数じゃないから信頼できる子がたったひとりいればいいと思っていたし、授業や行事でペアを組む時には時々困ることはあったものの、それ以外では大きな問題を感じたことはなかった。
ところが、中学三年生の一学期のある日、突然いじめのターゲットにされてしまったのだ。
なんの前触れもなかった。
本当に、ある日突然だった。
親友と呼べる子はひとりだけだったけど、だからと言って休み時間にひとりで過ごすような孤立した状態だったわけじゃない。
一・二年生の時には同じクラスだった親友の彩加とは三年生で違うクラスになってしまったから、教室にいる時は部活が同じだったふたりのクラスメイトとよく一緒に過ごしていた。
彼女たち以外のクラスメイトとだって、もちろん普通に他愛のない会話くらいはしていた。
だから……あの頃の私は、まさか自分がいじめのターゲットになる日が来るなんて思ってもみなかったのだ。
最初に小さな異変を感じたのは、六月も残り数日という頃。
その日、私は四人のクラスメイトに頼まれて、放課後の教室で期末テストの勉強を教えていた。
クラスメイトと言っても、彼女たちは校則違反なんて気にもせずに髪を染めているような派手なグループで、地味な私とは時々しか会話をしないような関係だったから、昼休みに『勉強を教えてくれない?』と声を掛けられた時はとても驚いた。
それでも、頼られるのは悪い気はしなかったし、四人から一斉に頼まれてしまっては断りにくいということもあって、『塾の時間までなら』という約束で承諾をした。
最初は他愛のない会話をしたり、四人が問題を解いている間に手持ち無沙汰になれば私もテスト勉強をして、わりと有意義な時間を過ごせていたと思う。
ただ、二十分もしないうちに四人ともやる気を削がれたかのように雑談ばかりになってしまい、その間もひとりで黙々とテスト勉強をする私を余所にずっと会話が途切れることはなかった。
それから三十分以上が経った頃、彼女たちがようやく勉強に戻ったかと思えば同じパターンの問題で何度もつまずいて先に進まず、私が帰らなければいけない時間になっても最初に開いていた問題集は一ページの半分も終わっていなかった。
正直、無駄な時間だ、と途中から思っていた。
つまらない雑談の中で集中できるはずもなくて、テスト勉強は途中から捗っていなかったから。
こんなことなら帰ってひとりで勉強するか、早めに塾に行って自習室で勉強している方が確実に捗っただろうし、塾の自習室ならわからない問題を先生に教えてもらうことだってできた。
私が時間を割いても本人たちにやる気がなければ捗るわけがないのだから、それなら自分のために時間を使いたかった。
こんなことになるってわかってたら、断る理由を考えたのに……。結局、ほとんど喋ってただけじゃない。
そんな気持ちからため息が漏れた私は、自分でも気づかないうちに不機嫌な顔になっていたのかもしれない。
不意に静まり返ったことに違和感を抱いて顔を上げると、四人の視線が自分に集まっていたことに戸惑った。
「どうしたの?」
控えめに尋ねた私に、グループのリーダー格の女子が微妙に笑みを浮かべた。
「いやぁ、松浦さん怒ってる?」
「え?」
「ほら、うちら頭悪いから全然進まなかったじゃん? だから、ムカついたのかなーって思ってさ」
半笑いの軽い口調に苛立たなかったと言えば嘘になるけど、そんな気持ちと戸惑いを押し退けて口を開いた。
「そんなことないよ。でも、ごめんね。私、そろそろ帰らなきゃいけないから……」
暗に『終わりにしよう』と告げたつもりで、広げていた教科書や問題集を閉じて筆記用具とともにバッグに片付け始めたけど……。
「ねぇねぇ、ここわかんないんだけど」
そんな私のことなんてお構いなしで、別の女子がそう口にした。
「え? あ、ごめんね。私、もう──」
「まだいいじゃん! 松浦さん、あと十分は大丈夫なんでしょ?」
たしかに、私は『十七時前まで』と言っていたし、時計はその十分前を指している。
「ここなんだけどさぁ」
だけど、指差された問題はほんの数分前に教えたばかりのもので、さすがに付き合い切れないと思ってしまった。
「そこ、さっきも教えたよ? っていうか、今日はずっとそれと同じパターンの問題しかやってないから、やり方は全部同じだよ」
自分でなんとかしてよ、と言いたかったのはさすがに飲み込んだけど……。
「……あ、そう。じゃあ、もういいや」
質問して来た女子の声がワントーン低くなったことに気づき、ハッとして四人の顔を見た。
一瞬だけ時間が止まったように感じたけど、彼女たちはすぐに笑っていた。
この時は、たしかに笑っていたはずだった。
その日はそのまま解散することになり、私は一瞬だけ微妙な空気になったことが気になったけど……。夜には塾の宿題とテスト勉強に追われていたせいでそんなことはすっかり忘れて、翌日もいつものように彩加と学校に行った。
違和感を抱いたのは、その直後のこと。
廊下で彼女と別れて教室に入ると、教室内の雰囲気がいつもと違うような気がしたのだ。
なにが違うのかはわからない。
ただ、教室に入った瞬間に目が合った数人のクラスメイトが私から視線を逸らし、いつも一緒に過ごすふたりのもとへ行って「おはよう」と言うと、どこか困ったように笑いながら挨拶を返された。
それらの出来事に違和感を感じないはずはなくて、もしかしたら顔や制服になにかついているのかと不安になったけど、さりげなく確認してみてもおかしなところは見当たらない。
そんな私のことをすぐ傍で見ていたのは昨日の四人で、彼女たちは数歩分の距離を歩いて来るとニッコリと笑った。
「松浦さん、おはよ。昨日はありがとねー」
「うちらバカだから、付き合うの面倒だったでしょ?」
「一応、ちゃんと頑張ったんだけどさぁ」
「ねー」
四人の口調に棘を感じながらも、出来るだけ笑顔で首を横に振った。
「面倒だなんて思ってないよ」
無駄だったとは思ったけど、面倒だとは思わなかった。
勉強は捗らなかったとは言え、教えるのは自分の勉強にもなるし、なによりも頼ってもらえたことについては今も悪い気はしていないから。
ただ、もしまた同じことを頼まれたらどうしようかと身構えてしまって、笑顔が引き攣りかけていた。
「あっ、うちら、今日からは自力で勉強することにしたから」
その言葉にホッとしたけど、そもそも今日以降のことは約束していなかったはず。
それなのに、あえて宣言のようにも取れる言い方をされたことが引っ掛かって、なんだかモヤモヤとした。
「松浦さんもうちらみたいなバカに付き合ってられないでしょ?」
「そうそう。昨日もつまんなそうだったもんね」
「最後なんてため息ついてたし」
「ずっと学年上位の松浦さんは、レベルが違うもんねー」
教室中に響くような声で会話を始めた四人を前に、背中に嫌な汗が伝った。
あぁ、そうか……。私……私は……。
きっと、失敗してしまったのだ。
思い当たるのは昨日のことだけで、ミスをしたのはその時しかない。
それに気づいた時、私を見るクラスメイトたちの目はなんとも言えないものだった。
そのあとは、四人になにを言われたのかはよく覚えていない。
ただ、自分がとても危うい状態だということだけは理解できて、なんとかしようと口を開くものの、機転の利いた言葉はなにひとつ出て来なかった。
派手なグループのターゲットになってしまった私に手を差し伸べてくれるクラスメイトはいなくて、四人に囲まれて針のむしろになる私の頭の中は真っ白になっていた。
この時、上手く取り繕っていれば、それができなくても『そんなつもりはなかった』とでも言って謝罪していれば、なんとかなったのかもしれない。
ようやくチャイムが鳴って彼女たちから解放された時にはホッとしたけど、すぐ傍で見ていたふたりのクラスメイトは私と目を合わせようとしなくて……。この時から、私はクラスで孤立してしまった。
クラスメイトたちは、私のことをできる限り避け、目も合わせてくれない。
先生がクラスメイトづてに私を呼び出した時も伝言すら届かなくて、なにも知らない先生に注意されたこともあった。
教室にいるのが息苦しくなって、休み時間の度にトイレや人気のない場所に逃げた。
それでも、登校時と昼休みだけは今まで通り彩加と過ごすことができていたから、教室で孤立していてもなんとか頑張れていた――。
それから二週間が過ぎて一学期の期末テストが終わった頃、ようやく彩加に打ち明けることができた。
この日は珍しく彼女が所属しているテニス部の練習が休みで、週に二回しか活動していない美術部だった私の教室まで「一緒に帰ろう」と誘いに来てくれたのだ。
この二週間はずっと放課後になると逃げるように教室を飛び出していた私にとって、彩加の声はまるで救いの女神のもののように思えた。
それが本当に嬉しくて、限界を感じ始めていたこともあって……。帰りに私の家に寄ってもらい、途中から泣きながらこの二週間のことをすべて話した。
「そっか……。やっぱり、そうだったんだね」
話し終えたあとに落とされた第一声は、そんな言葉だった。
彩加は、自分のクラスメイトから私がいじめのターゲットになっていることを聞いていたらしい。
ただ、それを聞いたのが期末テスト中だったし、その間は毎日ずっと一緒に登下校をしていたのに私がなにも言わないから、自分から尋ねることはできなかった、と付け足した。
それは、彼女なりの気遣いだったのだろう。
小学生の頃からずっと優しい彩加は、私がいじめられていることを知っても全然変わらずにいてくれて、その事実にまた涙が溢れた。
程なくして、彩加は先生や両親に相談することを勧めてくれたけど、私は首を横に振った。
先生に話していじめがひどくなるのが怖かったし、仕事で忙しい両親にはいじめられていることなんて知られたくなかった。
それに、いじめと言っても、無視をされているのと教室内であの四人に悪口を言われることばかりで、テレビやネットで知った状況と比べればずっとマシだと思っていた。
暴力をふるわれることも、教科書を破かれたり物を隠されたりすることもなかったし、グループラインなんかではもっとひどい悪口が交わされているのかもしれないけど、今のところは私自身がそれを感じていない。
なによりも、彩加がいてくれる。
クラスで孤立していることも無視や悪口もつらいけど、彼女は私のことを心配してくれている。
初めて人に打ち明けることができて少しだけラクになったというのもあったのか、クラスメイトたちから無視されていてもたったひとりの理解者がいるだけで心強く思えたのだ。
「わかった。千帆が嫌なら言わないよ。でも、私は千帆の味方だから」
彩加の言葉は涙が止まらなくなるほど嬉しくて、彼女だけは味方でいてくれると思うともう少しくらいなら頑張れるような気がした。
それなのに……そんな時間も、長くは続かなかった。
彩加に打ち明けてから数日後に夏休みに入り、あの教室の雰囲気から解放されたことにホッとしていた。
夏休みが終わるのは怖くてたまらなかったけど、とりあえず一ヶ月は教室に行かなくてもいい。
その事実は私の心を軽くしてくれたし、もしかしたら二学期にはいじめがなくなっているかもしれないという淡い期待もあった。
だから、週二回の美術部の活動を休むことなくお盆休み前の引退まで頑張り、それ以外は塾や家で受験勉強に励んだ。
家から一番近い高校に進学するつもりだった私と彩加は、引退がもう少し先だった彼女の部活が休みの日にはお互いの家で夏休みの課題と受験のための勉強会を開いたりもして、わりと充実していたと思う。
その時には『ふたりで同じ高校に行こうね』と口癖のように言い合い、二学期への不安を感じながらも来年の春への期待に胸を膨らませていた。
だけど……お盆の頃から少しずつ彩加からの連絡が減り始め、それから一週間もするとまったく返事が来なくなってしまった。
母方の田舎に行くと言っていたから忙しいのかと思っていたけど、彼女がこんなにも連絡をくれなかったことは今までに一度もなくて、次第に不安が大きくなっていった。
彩加から連絡が来なくなってしまった時、最初は忙しいのかと考え、次に体調を崩したのではないかと心配になり、最後に不安だけが残った。
八月の最後の土日にある地元のお祭りには毎年必ず彼女と行っていたけど、不安を抱えながら誘ったメッセージにはやっぱり返事が来なくて、それどころか“既読”がつくこともなかった。
それでも、二学期の始業式の前日には勇気を出して【いつもの場所で待ってるね】と送ったけど、始業式の日に彩加が待ち合わせ場所に来ることはなくて……。最後まで自分の置かれた状況を信じられなかった私は、ギリギリまで待っていたせいでチャイムが鳴る寸前に教室に着いた。
教室内の私への雰囲気は一学期となにも変わらなくて、私が教室に入った直後に大声で笑ったあの四人を見て、目の前が真っ暗になった。
「あれぇ? 松浦さん、今日はひとり?」
「いつもの友達は一緒じゃないの? あの子、早くに来てたみたいだけどー」
ケラケラと笑う声が耳を突き刺し、嫌な汗が背中を伝う最中に足が震え始めた。
しばらく教室のドアの前で動けなかった私は、たぶん担任の先生に注意をされて席に着いたのだったと思う。
そして、始業式のために体育館に行った時、さらに絶望感を抱いた。
「彩っ……!」
体育館の入口のところで彩加の姿を見つけた私は、咄嗟に彼女のことを呼んでいた。
親友の彩加だけは“あちら側”には行かないはずだと、この状況はきっとなにかの間違いなのだと自分自身に言い聞かせ、彼女の傍に駆け寄ろうとしたけど……。私に気づいた彩加は、目を見開いたあとであからさまに顔を背け、逃げるように体育館に入ってしまった。
途端に感じたのは、絶望。
地面がガラガラと崩れていくような気がして、真っ逆さまに落ちる自分自身の姿が脳裏に浮かんだ。
他の生徒たちは突然止まった私に怪訝な顔をしながらも体育館に入って行き、何人かにぶつかられたことを感じながらも動けない。
「松浦さん、親友にまで見放されたんだー」
そんな私の耳元で落とされたのは、嘲るような声。
心臓が鷲掴みにされたように苦しくなって、その聞き覚えのある声はあの四人のうちの誰かのものだということを理解した直後、踵を返して走り出していた。
呼吸すら上手くできないのに無理に走ったせいで、あっという間に息が上がる。
どうしよう……。どうしよう、どうしよう……。
頭の中ではその五文字が繰り返し流れるけど、絶望に包まれた心が考えることを拒絶していた。
ただ逃げることだけを考えて走っていた私は、廊下で美術部の顧問とぶつかったことによって止まることになった。
先生はすぐに私の様子がおかしいことに気づいたようで、汗でぐっしょりと濡れている私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? なにかあった?」
「……っ」
美術の授業と部活でお世話になっている芝田先生は四十代の女性で、優しい声音が耳に届いた時には涙が零れ落ちていた。
「こっちへいらっしゃい」
先生はフラフラと歩く私を支えるようにして保健室に連れて行き、「あとでまた来るから」と言って養護教諭に私のことを託して体育館に行ってしまった。
始業式が終わるまでは保健室で休ませてもらい、再びやって来た芝田先生は私に事情を訊こうとしていたけど……。教室から荷物を持って来てくれた先生にお礼だけ言って、結局それ以外はなにも話さずに帰宅した。
仕事で忙しい両親は家にはいなくて、学校から連絡を貰ったらしい母から電話が掛かって来たけど、「体調が悪かっただけ」と短く答えて切った。
ひとりぼっちの家の中では絶望感が大きくなっていき、ただただ涙が止まらなかった。
そして、この日をきっかけに、私は学校にあまり行けなくなってしまった──。



