梅雨を迎えた六月中旬、窓の向こうでは小雨が降り、校庭の土はいつもよりも色濃くなっていた。
控えめな雨音をBGMにした金曜日の教室に響くのは、クラスメイトの朗読の声。
教科書に載っている作品にはあまり興味が湧かなくて、過去の文豪たちがしたためた文章はただの文字の羅列にしか思えない。
読書は好きな方だけど、好んで読むのは現代の作家たちが書くものばかり。
だから、教科書に仕方なく目を滑らせているだけの授業は特におもしろくはないし、この先の展開が気になることもない。
そんな私だけど、昔から優秀だったらしい両親のDNAのお陰なのか成績はいい方で、幼い頃から勉強することを習慣づけてくれた両親に感謝している。
「じゃあ、次は松浦。続きから読んで」
「はい」
頬杖をついて教科書を見ていた私、松浦千帆は国語の先生に指名され、今まで朗読していたクラスメイトと交代で席を立った。
四限目の終了を告げるチャイムまで、後五分。
私が五行分を読み終えたら、先生が綺麗な字で板書をして、午前中の授業は終わるのだろう。
今日の昼休みはできるだけ早く昼食を済ませて、一限目の数学の時間に出された宿題を片付けよう。
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響くと、途端にクラスメイトたちの気が抜けたような声が飛び交い始めた。
「起立、礼」
日直の女子の声に合わせて、生徒と先生が一斉に一礼をした。
そのまま転がるようにして教室を飛び出して行く男子たちを横目に着席すると、国語の教科書を片付ける。
代わりに取り出した数学の問題集と机の上に置いてあるペンケースを持ち、スクールバッグから財布だけを出して教室を後にした。
同学年の生徒たちで賑わう廊下を進み、階段を降りる。
そこには一年生と二年生の教室が並んでいて、さらに階段を降りて着いた一階の校舎を抜けて別棟に移動した。
この校舎の二階には体育館があり、一階の奥には柔道場と剣道場、その手前に食堂がある。
雨の日は、普段は外で食べている生徒たちもやって来るせいかいつもよりも食堂が混んでいて、ひとりで過ごすことに慣れていてもほんの少しだけ居心地が悪い。
タイミングが悪ければ席を取るのも一苦労で、注文だって結構並ばなければ順番が回って来ない。
小雨が降る今日も予想通りの状況で、食堂の隅にある購買でメロンパンとうちの学校の名物である“からむす”を調達し、すぐにたくさんの生徒たちで賑わっている食堂を出た。
校舎の端にある非常階段は、屋根はあるけど吹き抜けになっていて、雨の日は風向きによってはコンクリート造りの階段も柵も濡れている。
小雨とは言え、今日みたいな日にはほとんど人が来ないことをわかっている私は、自動販売機でパックのお茶を調達してからそこに向かった。
非常階段は予想通り人気がなくて、風向きのせいで階段のコンクリートの外側部分が十センチほど濡れていたけど、校舎側の壁に寄って座ればなんの問題もなさそうだ。
二階と三階の間の踊り場からさらに二段分上がってから腰を下ろすと、制服のスカート越しにひんやりとした感触が肌に届いた。
買ったばかりのパックにストローを挿し、まずは冷たい緑茶で喉を潤す。
それからメロンパンをひと口かじり、ぼんやりとしながら咀嚼した。
そんなことを繰り返してメロンパンを食べ終え、ラップに包まれたおにぎりに手を伸ばす。
三角に握られたおにぎりの真ん中に唐揚げがひとつ押しつけるように添えられ、上には申し訳程度に黒ごまが乗っているこれが、校内名物のからむす。
八十円という良心的な価格のからむすは、『この学校にいる誰もが一度は口にしたことがあるはずだ』と言われるほど、先生たちからも生徒たちからも人気を集めている物だ。
絶妙な塩加減の白米と、手のひらサイズほどのおにぎりの中心を陣取る唐揚げは、今日も美味しくてあっという間に完食してしまい、僅かに残していた緑茶を飲み干した。
食べ始めてから十五分弱の間に強まった風のせいで、さっきよりもコンクリートの濡れている部分が近づいて来ている。
食べている間に濡れなくてよかったと考えながら立ち上がり、階段を上り切って三階の廊下に置かれているゴミ箱にゴミを捨て、そのすぐ前にある図書室に入った。
図書室には司書の先生と数人の生徒がいたけど、まだ席はたくさん空いている。
いつものように無言で笑顔を向けて来た先生に会釈をし、カウンターの前を通り過ぎて誰もいない長机の隅に腰掛けた。
昼休みは残り二十分ほどしかないけど、頑張れば宿題として出された量の半分くらいは片付けられるだろう。
以前は苦手意識があった数学だけど、今は得意だと思えるようになったし、開いた問題集にザッと目を通した限りでは得意な問題が多いような気がする。
問一の文章を読んでシャーペンを走らせ始めると、あっという間に集中できた。
静かな図書室で向き合う宿題は自分でも満足できるほどよく捗り、昼休みが終了する五分前に予鈴が鳴った時には予定通りの量をこなせていた。
教室に戻ると、私の席にクラスメイトの女子が座っていた。
他のクラスの子も一緒に五人でお弁当を食べていたらしく、くっつけた三つの机を皆で囲んで楽しそうに話していたけど……。
「あの……」
近づいた私が声を掛けると、五人が一斉にこちらに顔を向け、明らかに作り笑顔だとわかる表情になった。
「予鈴、鳴ったけど……」
「あ、ごめんねー」
私の椅子に座っていた女子がそそくさと片付け、それに続いて他の四人も散らかしていた机を元に戻していく。
その間、私とはあまり目を合わせなかった五人がなにを考えているのかは、なんとなくわかっている。
彼女たちが立ち去ったあと、背後から「松浦さんって暗くない?」という潜めた声が聞こえて来て、小さなため息が漏れた。
他のクラスのふたりが教室から出て行くと、残ったクラスメイトの三人が私の方をチラチラと見てなにかを言い始めたことに気づいたけど、あえて知らない振りをする。
「松浦さん、本当に喋らないよね」
「近寄りにくいし」
「勉強はできるのに、いつもひとりだよね」
聞こえてるんだけど。せめて、私に聞こえないように言えばいいのに……。
心の中で悪態をついた私は、再びため息を落とした。
五限目の世界史と六限目の生物は、何度か睡魔に襲われながら授業を受けた。
午後の授業ならではの満腹感を抱いている時間に眠くなるのは、たぶん仕方がないことだと思う。
教室内を見渡せば、机に突っ伏したり頭が揺れている生徒が何人かいて、先生が注意をしてもその人数はあまり減らなかった。
私も六限目の途中で睡魔に負けてしまいそうだったけど、ジメジメとした梅雨の気候が感じさせる鬱陶しさのせいで快適な睡眠からは程遠くなることはわかっていたから、無駄に丁寧にノートを取って耐えた。
少しだけ開いた窓から入って来る雨の匂いは湿っぽくて、まだしばらくの間はこんな日々が続くのだと思うと憂鬱になる。
ただでさえ学校が楽しくないのに、雨の日は登下校さえも面倒になるし、ジメジメとした気候に集中力を削がれる。
こんな日には、私にとっては居心地の悪い教室の空気が全身に纏わりつくようで、昼休みの不満が残っていたことも相俟ってイライラしてしまう。
高校の入学式の挨拶の時、髪の薄い校長先生が『私は十七歳の頃が人生で一番キラキラしていた』なんて言っていたけど、十七歳なんてちっとも楽しくない。
だから、学校にいる時の私は、いつだってどこか不機嫌なんだと思う──。
控えめな雨音をBGMにした金曜日の教室に響くのは、クラスメイトの朗読の声。
教科書に載っている作品にはあまり興味が湧かなくて、過去の文豪たちがしたためた文章はただの文字の羅列にしか思えない。
読書は好きな方だけど、好んで読むのは現代の作家たちが書くものばかり。
だから、教科書に仕方なく目を滑らせているだけの授業は特におもしろくはないし、この先の展開が気になることもない。
そんな私だけど、昔から優秀だったらしい両親のDNAのお陰なのか成績はいい方で、幼い頃から勉強することを習慣づけてくれた両親に感謝している。
「じゃあ、次は松浦。続きから読んで」
「はい」
頬杖をついて教科書を見ていた私、松浦千帆は国語の先生に指名され、今まで朗読していたクラスメイトと交代で席を立った。
四限目の終了を告げるチャイムまで、後五分。
私が五行分を読み終えたら、先生が綺麗な字で板書をして、午前中の授業は終わるのだろう。
今日の昼休みはできるだけ早く昼食を済ませて、一限目の数学の時間に出された宿題を片付けよう。
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響くと、途端にクラスメイトたちの気が抜けたような声が飛び交い始めた。
「起立、礼」
日直の女子の声に合わせて、生徒と先生が一斉に一礼をした。
そのまま転がるようにして教室を飛び出して行く男子たちを横目に着席すると、国語の教科書を片付ける。
代わりに取り出した数学の問題集と机の上に置いてあるペンケースを持ち、スクールバッグから財布だけを出して教室を後にした。
同学年の生徒たちで賑わう廊下を進み、階段を降りる。
そこには一年生と二年生の教室が並んでいて、さらに階段を降りて着いた一階の校舎を抜けて別棟に移動した。
この校舎の二階には体育館があり、一階の奥には柔道場と剣道場、その手前に食堂がある。
雨の日は、普段は外で食べている生徒たちもやって来るせいかいつもよりも食堂が混んでいて、ひとりで過ごすことに慣れていてもほんの少しだけ居心地が悪い。
タイミングが悪ければ席を取るのも一苦労で、注文だって結構並ばなければ順番が回って来ない。
小雨が降る今日も予想通りの状況で、食堂の隅にある購買でメロンパンとうちの学校の名物である“からむす”を調達し、すぐにたくさんの生徒たちで賑わっている食堂を出た。
校舎の端にある非常階段は、屋根はあるけど吹き抜けになっていて、雨の日は風向きによってはコンクリート造りの階段も柵も濡れている。
小雨とは言え、今日みたいな日にはほとんど人が来ないことをわかっている私は、自動販売機でパックのお茶を調達してからそこに向かった。
非常階段は予想通り人気がなくて、風向きのせいで階段のコンクリートの外側部分が十センチほど濡れていたけど、校舎側の壁に寄って座ればなんの問題もなさそうだ。
二階と三階の間の踊り場からさらに二段分上がってから腰を下ろすと、制服のスカート越しにひんやりとした感触が肌に届いた。
買ったばかりのパックにストローを挿し、まずは冷たい緑茶で喉を潤す。
それからメロンパンをひと口かじり、ぼんやりとしながら咀嚼した。
そんなことを繰り返してメロンパンを食べ終え、ラップに包まれたおにぎりに手を伸ばす。
三角に握られたおにぎりの真ん中に唐揚げがひとつ押しつけるように添えられ、上には申し訳程度に黒ごまが乗っているこれが、校内名物のからむす。
八十円という良心的な価格のからむすは、『この学校にいる誰もが一度は口にしたことがあるはずだ』と言われるほど、先生たちからも生徒たちからも人気を集めている物だ。
絶妙な塩加減の白米と、手のひらサイズほどのおにぎりの中心を陣取る唐揚げは、今日も美味しくてあっという間に完食してしまい、僅かに残していた緑茶を飲み干した。
食べ始めてから十五分弱の間に強まった風のせいで、さっきよりもコンクリートの濡れている部分が近づいて来ている。
食べている間に濡れなくてよかったと考えながら立ち上がり、階段を上り切って三階の廊下に置かれているゴミ箱にゴミを捨て、そのすぐ前にある図書室に入った。
図書室には司書の先生と数人の生徒がいたけど、まだ席はたくさん空いている。
いつものように無言で笑顔を向けて来た先生に会釈をし、カウンターの前を通り過ぎて誰もいない長机の隅に腰掛けた。
昼休みは残り二十分ほどしかないけど、頑張れば宿題として出された量の半分くらいは片付けられるだろう。
以前は苦手意識があった数学だけど、今は得意だと思えるようになったし、開いた問題集にザッと目を通した限りでは得意な問題が多いような気がする。
問一の文章を読んでシャーペンを走らせ始めると、あっという間に集中できた。
静かな図書室で向き合う宿題は自分でも満足できるほどよく捗り、昼休みが終了する五分前に予鈴が鳴った時には予定通りの量をこなせていた。
教室に戻ると、私の席にクラスメイトの女子が座っていた。
他のクラスの子も一緒に五人でお弁当を食べていたらしく、くっつけた三つの机を皆で囲んで楽しそうに話していたけど……。
「あの……」
近づいた私が声を掛けると、五人が一斉にこちらに顔を向け、明らかに作り笑顔だとわかる表情になった。
「予鈴、鳴ったけど……」
「あ、ごめんねー」
私の椅子に座っていた女子がそそくさと片付け、それに続いて他の四人も散らかしていた机を元に戻していく。
その間、私とはあまり目を合わせなかった五人がなにを考えているのかは、なんとなくわかっている。
彼女たちが立ち去ったあと、背後から「松浦さんって暗くない?」という潜めた声が聞こえて来て、小さなため息が漏れた。
他のクラスのふたりが教室から出て行くと、残ったクラスメイトの三人が私の方をチラチラと見てなにかを言い始めたことに気づいたけど、あえて知らない振りをする。
「松浦さん、本当に喋らないよね」
「近寄りにくいし」
「勉強はできるのに、いつもひとりだよね」
聞こえてるんだけど。せめて、私に聞こえないように言えばいいのに……。
心の中で悪態をついた私は、再びため息を落とした。
五限目の世界史と六限目の生物は、何度か睡魔に襲われながら授業を受けた。
午後の授業ならではの満腹感を抱いている時間に眠くなるのは、たぶん仕方がないことだと思う。
教室内を見渡せば、机に突っ伏したり頭が揺れている生徒が何人かいて、先生が注意をしてもその人数はあまり減らなかった。
私も六限目の途中で睡魔に負けてしまいそうだったけど、ジメジメとした梅雨の気候が感じさせる鬱陶しさのせいで快適な睡眠からは程遠くなることはわかっていたから、無駄に丁寧にノートを取って耐えた。
少しだけ開いた窓から入って来る雨の匂いは湿っぽくて、まだしばらくの間はこんな日々が続くのだと思うと憂鬱になる。
ただでさえ学校が楽しくないのに、雨の日は登下校さえも面倒になるし、ジメジメとした気候に集中力を削がれる。
こんな日には、私にとっては居心地の悪い教室の空気が全身に纏わりつくようで、昼休みの不満が残っていたことも相俟ってイライラしてしまう。
高校の入学式の挨拶の時、髪の薄い校長先生が『私は十七歳の頃が人生で一番キラキラしていた』なんて言っていたけど、十七歳なんてちっとも楽しくない。
だから、学校にいる時の私は、いつだってどこか不機嫌なんだと思う──。



