「ただいま」


ジリジリと照りつける太陽と蟬時雨を浴びながら帰宅すると、いつものように誰もいない家で独り言を零した。
相変わらず忙しい両親は以前にも増して家にいる時間が減り、私を出迎えてくれる人は誰もいない。
すっかり慣れた環境に息をついて部屋に行き、再び口を開いた。


「ただいま」


その声にもやっぱり返事はないけど、代わりにチェストの上に置いてある首輪の鈴を指先で弾いて、チリンと鳴らす。
そうすればまるでツキの声が聞こえてくるようで、そっと微笑みが零れるのだ。
エアコンを点けて床に置いたバッグから荷物を出し、その中のひとつを手に取ってパラパラとめくっていった。
もうすぐ提出予定のこのレポートは今日の講義の空き時間に無事に終わり、あとは最終チェックをすればいいだけ。
机に向かって教科書と資料用の本を開くと、シャーペンを片手にレポートの見直しを始めた。
本棚や机に立っている教科書や本には、【心理学】や【心理カウンセラー】の文字が入ったものばかりが並んでいる。


十八歳の誕生日から、もうすぐ三年──。
大学生になった私は、あの日にやりたいと感じた心理カウンセラーになりたくて、猛勉強の日々を送っている。


高校卒業後、私は第一志望の地元の大学に進学した。
三年前には想像もつかなかった日々だけど、決して多くはないものの学校には友達がいて大学生活はとても充実しているし、家庭教師のアルバイトもしている。
最初は時給に惹かれて始めたバイトは思っていた以上に大変だったけど、やり甲斐を感じられるおかげで楽しくもあった。
堀田さんと中野さんもそれぞれ別の大学に通っていて、ふたりともバレーボールサークルに入っている。
彼女たちはサークルを通して会う機会も多いらしく、だいたいは堀田さんの主催で集まることになる月に一度の女子会では、ふたりのサークルでのことやお互いの近況を話しているうちに、いつもあっという間に数時間が経過していた。
再来週に会う時は創作フレンチのお店でランチをする予定で、一昨日のLINEで決まった時から楽しみにしている。
ありがたいことにずっと仲良くしてくれているふたりのことを、今は当たり前のようにあだ名で呼んでいて、あの頃よりも随分と距離が縮まったと思う。


「……あっ、もうこんな時間だったんだ」


レポートのチェックが一段落したところでバイトに行く時間になり、急いで身支度を整えていつものように「行ってきます」と言ってから家を出た。


今日のバイトは二十時前に終わり、自宅の最寄り駅に着いた時は二十時半近くになっていた。
三年前となにも変わらない景色の中を歩き、いつものように公園に立ち寄る。
あの頃と同じベンチに腰かけると、グッと伸びをしながら夜空を仰いだ。
今日は奇しくも満月で、そこにはまんまるの月が輝いている。
クロとの別れを経験した十八歳の誕生日の夜、家に帰るとツキの姿はなかった。
誰もいない部屋の窓が開いていて、舞い込む夏風にカーテンがユラユラと揺れていた。


あの日の私は、彼がいなくなるということの意味を頭では理解しながらも、心のどこかではツキが家で待っていてくれるかもしれないという淡い期待を抱いていて……。現実を突きつけられた瞬間、その場に崩れるようにしてワンワンと声を上げて泣いた。


クロとツキ……。
たしかに存在していた大切なふたりが、どうなったのかはわからない。
ただ、『いつかきっとまた会える』と思わずにはいられなくて、特に満月の夜は欠かさず公園に足を運んでいた。


……なんてね。会えるわけないよ……。
自分自身を諦めさせるために心の中で呟いた言葉に胸の奥が締めつけられるけど、泣きたくなったのをごまかすように深呼吸をして立ち上がった。


「掴めそうなんだけどな」


今日の満月はくっきりとしていて大きくて、ぽつりと呟いた言葉が消えるよりも先に思わず空に手を伸ばしていた。
クロのお願いは、満月の夜に叶った。
だから、私も満月の夜には奇跡が起こるような気がして何度も願ってみるけど、今日もそんな夢みたいなことは叶わない。


「十年……ううん、五十年先でもいい。せめて、生きてる間に会えないかな」


心の中だけで紡いだはずの言葉は声に出てしまっていて、それに気づいた途端に苦笑した。


私は、大丈夫。……だって、ちゃんと笑えているから。
こうして笑っていられるのはクロとツキのおかげで、傷ついた痛みを知っている彼が私にしてくれたように、私も誰かの傷を癒やしたい。
だから、心理カウンセラーという道を選んだ。
まだ夢の途中だけど、どんなことがあっても前を向いて真っ直ぐに進んでいけるように頑張りたい。
そうでなければ、クロに会わせる顔がないから。


「心配しないでね」


今度はちゃんと意識して声に出し、満月に笑みを向けてから踵を返した。
その瞬間、息が止まりそうになった。
チリン、と鈴の音が響く。


「ただいま、千帆」


夏の満月の下、柔らかい声音が鼓膜をそっとくすぐり、見開いた瞳の中で黒目がちの瞳の青年が優しい笑みを浮かべた──。





END.