「なにから話そうかな」


そう零したクロは、傍に立っている時計を気にしながらも最初の言葉を見つけられないのか、とても悩んでいるように見えた。


「なんでもいいよ。全部話してくれるなら」


それはわかっていたけど、刻一刻と進み続ける時間に焦って一秒でも惜しいことを暗に告げると、彼がゆっくりと小さく頷いた。


「そうだな。それじゃあ、まずは……」


意を決したような瞳が、これからなにを語るのか。
それを聞いてなにが変わり、そしてなにを思うのか。
今はまだなにもわからなかったけど、語られるのがどんなことでもしっかりと向き合いたいと思った時、クロがそっと息を吐いた。


「一匹の猫の話をしようか」


「え?」


“猫”と聞いて浮かんだのはツキのことだったけど、彼にはツキのことを語るほどの接点はないから頭の中でありえないこととして処理し、次の言葉を待った。


「その猫は、まだ子どもだった頃にごく普通の老夫婦が住む家の庭に迷い込み、ふたりに拾われた。とても優しい夫婦で、猫はふたりとの慎ましい暮らしの中で穏やかで幸せな日々を過ごしていた」


まるで思い出を語るように瞳を細めたクロが、なぜこんな話をするのかがわからなくて戸惑った。
私が聞きたいのは猫の話ではなく、クロのこと。


「でもある日、その夫婦の妻が亡くなり、それから数ヶ月もすると残された夫も後を追うようにして亡くなってしまった。ふたりとも老衰で苦しむことはなかったけど、ひとり残された猫はこれからの未来を案じて不安になった」


だけど、彼はその話を続けるつもりらしく、焦れたように眉を寄せた私に微笑み、再び口を開いた。


「それでも、猫は誰かが手を差し伸べてくれると信じて疑わなかった。だけど……」


よくわからない話を聞かされて心は焦れているのに、クロが寂しげな笑みを浮かべたせいで彼につられたように胸の奥が苦しくなる。
思わず手を伸ばしそうになったけど、行き場を見つけられないその手をギュッと握ることでごまかした。


「老夫婦のふたりの娘は、遺産で揉めた末に残された猫を邪魔者として扱った。遺産の足しにするために家も売り、血統のない猫は段ボールに入れられ、まるで処分する家具と同じだと言わんばかりに公園に捨てられた」
「え?」


耳を疑ったのは、“捨てられた”という単語の前に“公園に”とついていたから。
まさかそんなはずはない、と思うのに。
バカげている、と思うのに。
私は、頭に浮かんだ可能性を消せなかった。


「外の世界をよく知らなかった猫は、突然放り出された場所から動くことができなくて、段ボールに入れられた少しの餌と水で数日間飢えをしのいだ。だけど、そのうち空腹に耐えられなくなって、勇気を出して段ボールから出たんだ」


聞きたいのは、クロのこと。
それなのに、この話の続きが気になって、時計を気にしながらも口を挟めない。
その理由はさっき浮かんだ可能性を消すことができないからで、バカげていると思うのに握ったままの両方の手のひらが汗ばんでいくのがわかった。


「猫にとって外の世界は新鮮なことばかりで、不安だったけど好奇心も湧いた。でも、外には敵も多くて、それまでの平穏な生活とは一変してしまった」


不安を感じたのは、その猫のことを案じる気持ちがあったから。
私には関係のない話だと思っていたのに、心の片隅ではそうではないような気がしていることには気づいていた。


「悪戯をしたり追いかけ回してくる人間もいれば、カラスや他の猫に襲われることもあった。毎日傷が増えていき、段ボールから出るのが怖くなった。時々気まぐれに餌をくれる人間もいたけど、傷だらけの姿を見ても差し伸べてくれる手はひとつもなかった」


戸惑い続ける私を余所に、彼がため息混じりに瞳を閉じた。


「心が弱かった猫は、毎日が怖くて未来が真っ暗に思えて、誰も信じられなくなっていったんだ……」


弱々しい声音で言葉が落とされたあと、クロの瞳がゆっくりと開いて私を見つめた。


「でも……」


そして、彼は優しい笑みを浮かべた。


「ある日、猫はひとりの少女と出会った」


私に向けられたとわかる笑顔の意味を、私はきっともうわかっていた。


「少女は、ボロボロの猫の姿を見てとても悲しそうな顔をしたかと思うと、ほとんど迷うこともなくすぐに家に連れて帰ったんだ」


だけど、クロの話を信じられなくて、自然と見開いていた瞳で彼の顔を見つめることしかできない。


「優しい少女が両親を説得してくれたおかげで、猫は新しい居場所を与えられた。それから、少女はその小汚い猫を必死に看病して優しく接したけど、誰も信じられずにいた猫はあろうことか少女を引っ掻き、何度も傷つけてしまったんだ……」


まさか……。そんなの、ありえないでしょ……? それなら、まだ超能力の方が信じられるよ……。
そんな風に思うけど、今はもう、クロが話しているのはツキのことだとしか思えない。
まるでありふれたファンタジー小説みたいだけど、彼の真剣な瞳がそれを肯定しているような気がしたのだ。
気づけば視線を一切逸らしていなかったクロは、いつからか私の瞳を真っ直ぐに見つめたままだった。


「それでも、少女は諦めずに猫と向き合い、誰も信じられなかったはずの猫は、その優しさに触れていくうちに少しずつ少女のことだけは信じられるようになっていった。そして、いつしか猫にとって、少女はとても大切な存在になっていた」


黒目がちの瞳がツキの瞳と重なって見える私は、どこかおかしいのかもしれない。
そんな風に思うのはまだ彼の話を信じ切れない気持ちがあったせいなのかもしれないけど、それはもう欠片ほどもないような小さな小さな疑心だった。
それほど疑いようもないくらいに、クロは私とツキのことそのものを語っているのだ。


「少女のおかげで、猫はまた穏やかな日々を送れるようになった。とても幸せだったし、少女には感謝していたけど、少女と過ごすうちにあることに気づいてしまった猫には、二年ほど前からずっと気がかりなことがあったんだ……」


息をゆっくりと吐いた彼は、眉を寄せて微笑を零した。
心配と悲しみが混じったようなその面持ちからは、息が苦しくなりそうなほどの切なさが伝わってくる。
そんなクロを見ていると泣きたくなって、胸に秘めた決意が崩れてしまいそうだった。


「少女は、両親や猫以外に親しい人がいなくて、いつもひとりだった……。そしてある夜、少女は猫にその理由を打ち明けて、それを聞いた猫は心配でたまらなくなったんだ」


悲しげな声音で語られた内容に、もうほんの欠片も疑うことはできなくなった。
誰かに笑われても、たとえバカにされたとしても、私には信じることしかできない。


あぁ、そっか……。そうだったんだね。だから、クロはずっと……。
クロが私のことを色々と知っていたことも、彼が自分のことを話そうとしなかった理由も、今ようやくわかった。


「今は少女の傍にいられたとしても、いつかきっと離れなければいけない時が来る。そう考えた猫は、自分がいなくなったあとの少女のことを案じた」


クロとツキが、重なって見える。
姿はまったく違うのに、真っ直ぐな瞳はツキの瞳そのものにしか思えない。


「だから、猫は少女のためになにかしたいと思った。少女からもらったたくさんの優しさをほんの少しでも返せるのなら、どんなことでもできると思ったんだ。……たとえ、その命を縮めることになったとしても」
「え?」
「千帆、俺は……」


不安を呼び起こした言葉に目を大きく見開くと、彼は一度瞳を伏せてから優しい眼差しで私の瞳を捕らえた。
クロが話し始めてから初めて“俺は”と口にしたその意味を察し、心の中を占める不安がより大きくなる。
そんな私に手を伸ばした彼が、頬に優しく触れた。


「千帆からたくさんの幸せをもらった。だから、どんな手を使ってでも、千帆の背中を押す力を手に入れたかったんだ」


左頬に感じる体温に抱いていた決意が崩され、瞳の奥から込み上げた熱を抑える暇もないまま零してしまう。


「だから、毎晩のように祈った。千帆のためになにができるのかはわからなかったけど、せめて言葉が話せるようになりたい、って。そのためならどんなことでもする、って決めて……」


ポロリと頬を伝った雫はクロの手を濡らし、音もなくスッと落ちていった。
彼は、穏やかに微笑んでいる。
まるで、すべての覚悟を決めている、とでも言うように。
それを感じた私からまた涙が溢れ、ポタポタと流れていく。


「七月の満月まで、人間の姿になれる。それと引き換えに、猫として生きるはずだった命を使い、あとの運命は預ける。……六月の満月の夜に、神様とそういう約束を交わしたんだ」


「神様なんて信じられないだろ?」と笑ったクロに否定も肯定もできなかったけど、止まらない涙がどんな言葉よりも雄弁に“信じている”と物語っていた。


これから待ち受けているクロの運命を察して、胸が張り裂けてしまいそうだった。


「……っ」


あとからあとから溢れ出す涙が彼の手までビショビショに濡らしていくことに気づいたけど、瞳の奥から次々と姿を見せる悲しみの雫を止める術なんてない。


「千帆」


そんな私に微笑みを向けている彼は、優しい声音で私の名前を紡いだ。


「泣く必要なんてないよ。これは俺が望んだことで、すべて自分で選んだ道なんだから」


いつもと変わらない優しさを与えられたことに、胸の奥がひどく痛くなる。
たしかに存在していたクロの未来を変えてしまうことになったのは、他の誰でもない私のせいなのに……。優しい彼は、こんな私を傷つけないように、すべて自分ひとりで背負っていくつもりなのだ。


「千帆の笑顔を見られなくなることも、一緒に眠ることも、眠る前に額にキスをしてもらえることもなくなると思うと、寂しいけど……」


少しだけ寂しそうに微笑むクロの顔が見えなくなっていくことが悲しくて、瞬きで涙を落としてぼやけてしまった視界を取り戻すと、彼が真っ直ぐな瞳を緩めて破顔した。


「でも、後悔はしてないんだ」


そして、クロは力強くきっぱりと言うと、清々しいほどに爽やかで明るい笑顔を見せた。
晴れ晴れとした、満面の笑み。


この状況に似つかわしくないと思えるそれは、もしかしたら私が責任を感じないために繕われたのかと思ったけど……。

「人の言葉を持たない俺が、言葉を持てただけじゃなくて、千帆と同じ目線で話せるようになった。千帆の手を掴んで、こうして頬に触れて、伝えたいことを伝えられる」

クロの声には後悔が滲むことはなく、本当になにも悔やんでいないと言わんばかりに明るく話している。


「だから、千帆と過ごした日々と同じくらい、今も幸せなんだ」


しかも、彼は“幸せだ”なんて言うのだ。
命を縮めても幸せだ、と。
なにもしなければ、きっともっと一緒に過ごせたのに、クロは私のために違う道を選んだ。
だけど、後悔はしていないと言う彼に、私は戸惑いと悲しみを隠しきれない。


「クロ……」


クロと呼ぶべきなのか、ツキと呼ぶべきなのか。
きっとどちらでも正しかったのだろうけど、私は今の姿の彼と出会った頃に教えてもらった名前を選んだ。


「ごめんね……っ」


掠れた声で零したのは、涙混じりの謝罪。
クロがそんな言葉を望んでいないことはわかっていたけど、謝らずにはいられなかった。
すると、彼は私の気持ちを察するように苦笑した。


「千帆」


左手を伸ばして私の右頬にも触れたクロが、両方の親指で涙を拭ってくれた。


「俺、千帆にすべてを打ち明けたら、なによりも伝えたいことがあったんだ」


“伝えたいこと”がなにかわからなくて目を瞬く私に、彼がふわりと微笑みを浮かべた。


「ありがとう」


予想外の言葉に瞳を見開く私を見つめるクロは、優しい笑みを崩さない。


「俺を拾ってくれたのが千帆で、本当によかった」

どうして……? だって、クロは私のせいで……。

「俺は千帆と出会えて、また人を信じられるようになった。だから、千帆にそれを伝えたかった。しかも、その経験が千帆の背中を押すきっかけになったんだ」


自分自身を責める私に投げかけられたのは優しさに満ち溢れた言葉で、私のことをどこまでも守ってくれようとする彼にまた涙が溢れ出す。


それなのに……。

「ほら、なにも悔やむ理由なんてないだろ? だから、泣くなよ」

クロがそう言って笑うから、彼を悲しませたくない一心で唇を噛み締めて必死に涙をこらえた。
ぶつかり合った瞳にお互いを映し、どちらともなく微笑みが零れる。


「ずっと、そうやって笑ってろよ」


私の顔は涙でグチャグチャだったけど、クロはとても嬉しそうに破顔した。
満月の下で微笑み合う私たちの周りはとても静かで、この世界にふたりきりでいるようだった。
公園の前を通り過ぎていく車の存在はたしかに感じているのに、その音は随分と遠くから聞こえてくる。
切り離されたような空間はどこか遠い世界で、もしかしたら夜空に浮かぶ月の中にいるのではないかという錯覚に陥り、ふたりだけで綺麗な月の中に沈んでいくような不思議な感覚を抱いた。
それはまるで、時間が止まったかのように思えて、このままずっとクロの温もりを感じていられるような気がした。


だけど……。

「そろそろ時間だ……」

そんな風に感じることを許されたのは夢物語の中にいられたほんの一瞬だけで、彼が切なさを孕んだ声で小さく零した。


時間は、別れの時に向かって刻まれていく。
私の願いを嘲笑うように刻一刻と進んでいた長針は、“12”の手前まで来ていた。
クロはきっと、私の寂しさと悲しみに気づいている。
だから、困ったような顔をしているのだろう。


「ルールなんだ……。この姿でいられるのは一日一時間だけで、今日までに千帆に正体がバレたらその時点で終わり。そういう約束だったから……」


瞳を僅かに伏せた彼は、寂しげな笑みを浮かべながら時計を見上げた。
ゆっくりと離れていく、大きな手の温もり。
クロの体温を感じる術を失くした私は、眉を寄せて立ち上がった彼を追って腰を上げると、思わずその手を掴んだ。


「千帆……」


左手で掴んだクロの右手にもう片方の手を添え、縋るようにギュッと包む。
その直後、彼の右手首の辺りにある傷痕が視界に飛び込んできて、それがツキの右前足にあったものだと気づくまで時間はかからなかった。
私たちが出会う前に、クロが受けた傷。
そこにそっと指を這わすと、彼がふっと笑ったのがわかり、顔を上げた。
すると、今度はクロの左手が私の手に触れ、私は自然と彼から両手を離していた。


「千帆のこと、たくさん引っ掻いてごめん……。優しくしてくれたのにずっと信じられなくて、本当にごめん……。痛かっただろ?」
「ううん。……ツキがつらい目に遭ったんだって思うと、あんな痛みくらい全然平気だったよ」


小さく笑うと、クロは微苦笑を零した。


「やっぱり、千帆は優しいな」
「……っ」
「そんな顔するなよ。千帆はちゃんと変われたんだから、俺がいなくても大丈夫だよ」


優しい言葉に胸の奥が締めつけられて顔を歪めると、彼がさらにそんなことを言ったから、また涙が零れ落ちてしまった。
クロはなにも言わなかったけど、私が泣きやむことを望んでいるのはわかっていたから必死に涙をこらえて、微笑しながら顔を上げた。
すると、目が合った彼は、私の頭をポンと撫でたあとで「そうだ」と呟いた。


「……これ」


チリンと音を鳴らしてクロのズボンのポケットから出てきたのは、今日買ったばかりの首輪。
差し出されたそれを見ながら首を横に振り、精一杯の笑みを浮かべて彼を見上げた。


「それは、ツキのために買ったものだから。持っててよ」

「……うん」


眉を寄せて微笑むクロの向こうに立っている時計は、二十時五十八分を指している。


「最後に、ひとつだけやりたいことがあるんだ」
「え?」
「それが終わったら、千帆は俺に背中を向けて歩き出して。……そしたら、絶対に振り向くなよ」


彼がその内容を詳しく話さなかったのは、たぶん時間がなかったから。
まだ心の準備ができていない私にはとても酷な言葉だったけど、真っ直ぐな視線を向けられて頷くしかなかった。
そんな私の反応を見たクロは、どこか安心したような面持ちで微笑した。
一歩踏み出した彼が、私との距離を縮める。
ゼロ距離まで残り僅かという状態の中、ゆっくり、ゆっくりとクロの顔が近づいてきた。


突然のことに驚いた私が瞳を閉じるよりも早く、額にそっと触れた温もり。
その正体がクロの唇だと気づくまでに数秒を要して、彼の温もりが離れる瞬間に涙がポロリと零れ落ちた。
それは、額へのキス。


「いつも、千帆が眠る前にしてくれてたから、一度やってみたかったんだ」


どんどん溢れ出す涙を抑えることに必死な私に、クロはどこか照れ臭そうに、それでいてとても幸せそうに破顔した。
こんな時なのに胸の奥がキュンと鳴って、甘い温もりに包まれていく。
だけど、それはほんの一瞬のことで、彼がすぐに切なげな笑みを浮かべた。


「ほら」


私の肩を押すようにして体の向きを変えさせたクロは、意を決したように息をゆっくりと吐いた。


「行け」
「……っ」


まだ、心の準備はできていなくて。
本当は、“ずっと一緒にいたい”と伝えたくて。
胸が張り裂けそうなほどの悲しみを抱く私の足は、まるで地面に張りつくようだったけど、それを口にすれば彼を困らせることはわかっていたから唇を噛みしめる。


そして……。

「振り向くなよ」

そんな私の背中を優しく押したクロは、懇願するように力強い声音でゆっくりと告げたあと、その手をそっと私から離した。

瞼を閉じて大きな深呼吸をひとつ落とし、ゆっくりと瞳を開いてから背筋を伸ばす。


グッと前を向いた私は、一歩を踏み出した。
一歩、また一歩……。
一瞬でも立ち止まればクロに縋りついてしまうとわかっていたから、彼に言われた通り振り返らないように歩いた。
唇を噛みしめて涙をこらえながら背筋を伸ばしたままでいたのは、クロの瞳に映る私の後ろ姿が悲しい記憶になってほしくなかったから。
せめて少しくらい凛とした姿を、あの黒目がちの瞳に焼きつけて忘れないでほしい。
彼から離れていくにつれて、頭の中では走馬灯のようにたくさんの思い出が流れていく。
クロとの思い出はもちろん、ツキとの日々もたくさんの思い出が溢れていて、それらが尽きることはない。


頭も心も悲しみでいっぱいになって、とうとう泣きそうになった時……。

「十八歳の誕生日、おめでとう」

背後から優しい声が届いて、瞳を大きく見開いた。


「……っ! クロっ……!」


涙混じりに彼の名前を叫ぶようにして振り返ったのは、その直後のことだった。
クロとの約束を破ってしまうことになるけど、最後にもう一度だけ彼の姿を見たかった。
だけど……視界に入ってきたのは、誰もいない景色だった。


「クロ……?」


たった今、たしかに聞こえてきたはずの声はまるで空耳だったのだと思わせられるほどに、目の前には人の気配がまったくない。


思わず走り出したけど、どこを探してもクロに会えないことは心のどこかではわかっていて、いつものベンチや雨の日に過ごした土管の中を探してみたあとで、さっきまで彼が立っていた噴水の前で足を止めた。
ふと、水面を見ると小さな満月がユラユラと浮かんでいて、吸い寄せられるように視線を上げて本物を見つめた。
もしかしたら、クロは満月の中に消えてしまったのだろうか。
そんな風に思えるほど彼の痕跡はどこにもなくて、バカげた考えだとわかっていても月から視線を逸らせなかった。
ツキと出会ったのも、クロと出会ったのも、そして彼との別れも……。まるで月に操られているように、すべて満月の夜だった。


「クロ……」


小さく呟いた名前は夜空に吸い寄せられるようにして消え、同時にこらえていた涙が頬を伝ってポロリと零れ落ちた。
十八歳の誕生日は、人生で一番悲しくて、寂しくて、切なくて。
だけど……夏の星空の中で静かに輝きを放つ綺麗な満月を見つめながら、胸の奥には温もりと優しさの光がそっと灯っていることを感じていた──。