翌日の七月二十日は、人生で一番憂鬱な気持ちで迎えた誕生日だった。
昨夜は早々にベッドに入ったのに寝つけなくて、いつもはお気に入りのクッションで眠るツキが珍しく私の隣に来たから、ツキの体を優しく撫でながらその姿を見つめていた。
規則的な寝息を立てて眠るツキをぼんやりと見ながら考えるのは、クロのことばかり。
彼と出会ってからたったの一ヶ月だけど、人生で一番目まぐるしく色々な気持ちを味わった日々は、思っていたよりもずっと思い出が詰まっていたことに気づいた。
せめて泣かないようにしたいと決意を抱きながらも、クロと離れなくて済む方法を模索してしまう。
無駄な足掻きだとわかっているのに少しでも一緒にいたくて、どんな言葉なら彼の心を動かせるのだろうかと考え続けた。
それなのに……辿り着いたのはその答えでなく、自分がやりたいと“思えた”こと。
どんなに悩んでも欠片も見つからなかったのに、こんなタイミングで初めてそれを見つけてしまったのだ。
できるかどうかは、わからない。
なによりも、私には向かないことだというのは誰よりもよくわかっているけど、それでも十八歳の夜明けとともに見えたのは明るい空と“やりたいと思えること”だった。
一睡もできないままやってきた朝は体も心も重くて、洗面台の鏡に映った私はひどい顔をしていた。
気持ちを引き締めるために数回余分に顔を洗ってからリビングに行くと、父と母が揃ってダイニングテーブルに座っていた。
「おはよう」と口々に言った両親に、胸の内を悟られないように精一杯微笑む。
「おはよう」
ダイニングテーブルに並べられたクロワッサンにカフェオレ、ベーコンエッグとサラダは寝不足の体には少しばかり重く思えたけど……。
「いい匂いだね」
温められたことで香ばしい匂いを漂わせるクロワッサンが私のお気に入りのお店の物だとわかって、並んで座っている両親の前に笑顔を崩さないようにして腰を下ろした。
「千帆、お誕生日おめでとう」
「おめでとう。さぁ、食べようか」
私がお礼を言うよりも早く手を合わせた父の態度は、もしかしたら照れ隠しだったのかもしれない。
母と顔を見合わせて苦笑を零し、「ありがとう」と言ってから両親とツキと一緒に朝食を食べ始めた。
バターの風味がしっかりと感じられるクロワッサンをかじると、口の中に優しい甘さと香ばしさが広がっていく。
食欲はなかったけど両親に心配をかけたくない一心で、なんとか完食することができた。
学校に行くと、教室に足を踏み入れた途端に堀田さんが駆け寄ってきた。
「ちーちゃん、ハッピーバースデー!」
「わっ……!?」
勢いよく抱き着かれて驚く私を、堀田さんの後ろからやってきた中野さんが笑いながら見ている。
「お誕生日おめでとう」
仲良くなったばかりのふたりが私の誕生日を知っているのは、この間うちに遊びにきた時に誕生日の話題になったから。
少し前には友達からお祝いをしてもらうなんて考えられなかったけど、まさか抱き締めて『おめでとう』と言ってもらえるなんて、私には勿体ないくらいだと思った。
「ありがとう」
それでも嬉しくて笑顔を見せると、私から離れた堀田さんが「はい!」と満面の笑みで紙袋を差し出した。
「え?」
「ちーちゃん家に遊びにいった日の帰りに、中ちゃんと買いにいったんだ!」
可愛らしいロゴの入った紙袋は、ルームウェアと生活雑貨を中心に展開している人気のお店のもの。
「ほっちゃんと話し合って、ちーちゃんのイメージで選んでみたの」
目を見開いて驚く私を余所に、ふたりはニコニコと笑っている。
お礼を言うだけで精一杯だったけど本当に嬉しくて、ほんの一時だけ夜が来ることへの悲しみが和らいでいた──。
「ただいま、ツキ」
「ニャア」
可愛い鳴き声で出迎えてくれたツキに笑みが零れ、ツキを抱いてベッドに腰掛けた。
「プレゼント、もらっちゃった」
あのあとすぐに堀田さんに急かされ、ロゴ入りの白い紙袋の中からラッピングバッグを出してリボンを解くと、ルームウェアとヘアーバンドが入っていた。
ノースリーブとショートパンツのルームウェアはパイル地で、デザインはホワイトと淡いブルーのボーダー柄。
頭にリボンの結び目が来るように着けるヘアーバンドも同じデザインで、ふたりも色違いのものを持っていると言っていた。
プレゼントをもらえたことやお揃いだということはもちろん、ふたりから『夏休みにパジャマパーティーをしよう』と誘われて、さらに嬉しくなった。
今日がクロと会う最後の日ではなかったとしたら、もっと心底喜んでいたに違いないけど……。どんなに嬉しくても彼のことが頭から離れなくて、結局は単純に笑顔で過ごすことはできなかった。
「可愛いでしょ? お揃いなんだって」
だから、ベッドに広げたルームウェアを見ていても油断すれば泣いてしまいそうで、ツキに向けた表情は歪んでいたかもしれない。
そんな私の気持ちを察するように、ツキが小さく鳴いた。
「あ、そうだ」
足元に置いていたバッグから袋を出して「ツキ」と呼ぶと、ベッドで寝そべっているツキがピクリと反応した。
「おいで」
袋を開けて取り出したのは、首輪。
シュシュタイプのそれは、ネイビーの生地に星が散りばめられ、真ん中には銀色の鈴と三日月のチャームが付いている。
三日月のチャームの中にも銀色の小さな星が多数あしらわれていて、なにからなにまでツキのためのデザインのように思えて、さっきキャットフードを買うために立ち寄ったペットショップで手に取ってしまったのだ。
今着けている革製の物は、ツキがうちに来てから二ヶ月ほどが経った頃から使っているから、ところどころ擦れて剥げている。
「これは外そうね」
使わなくなったとしても、たくさんの思い出が詰まったものだから大切に取っておこう。
「やっぱりよく似合う。ツキ、かっこいいよ!」
大人しく新しい首輪を受け入れたツキは、満足げな顔をしているように思えた。
欲しいものが浮かばなかったから、この首輪は自分自身への誕生日プレゼント代わりみたいな気持ちで買うことにしたけど、自分のものを買うよりも喜びが大きいような気がする。
「大切にしてね」
頭を撫でて微笑むと、ツキは嬉しそうに鳴いた──。
夜を迎えるまでは、本当にあっという間だった。
今日が最後だとわかっているから、どんな顔をすればいいのかわからない。
ため息を零しながら部屋を出ようとした時、ツキが「ニャア」と鳴いた。
振り返ると、ツキは私をじっと見つめていて、どこかいつもとは違うことに気づいたけど……。
「どうしたの?」
首を傾げてみても、ツキはその場から動こうとはしない。
ただ真っ直ぐに私を見つめる瞳はなにか言いたげだけど、私にはツキの気持ちを読み取ることはできなかった。
「最近、お留守番ばかりでごめんね。でも……今日で最後だから」
しゃがんでツキを抱き上げると、ツキは甘えたような鳴き声を何度か上げた。
「寂しいの……?」
いつも気になってはいたけど、私がクロと過ごしている時間の分だけツキはひとりでいたのだから、きっと寂しかったに違いない。
「明日からはいっぱい一緒にいるからね」
ツキへの申し訳なさから今だけは彼のことを考えないように努め、ツキの額にそっと口づけた。
いつもは眠る前にする額へのキスだったけど、なんとなく今したくなってしまったから。
後ろ髪を引かれるような思いだったけど、ツキを残して「行ってくるね」と笑って部屋を出た。
重い足取りで歩く私の頭上には、綺麗な夜空が広がっていた。
たくさん見えるわけではないけど星はいくつもあって、月は今日を待ち焦がれていたように満ちている。
今日が、最後。
頭の中で反芻するのはその言葉ばかりで、この数日で数え切れないほど吐いたため息には切なさが詰まっていた。
公園が見えてくると思わず足が止まってしまったけど、今日はそんなことをする時間すら惜しいのだと自分自身に言い聞かせ、再び足を踏み出した。
程なくして着いた公園には人の姿は見当たらなくて、静かな雰囲気の中、いつものベンチに向かっていたけど……。すぐに見えたその場所にはまだクロの姿はなくて、今日はどうしても座って待つような気分にはなれなかった私は、噴水の方に足を向けた。
この公園の噴水は、底面が大理石のようなツルツルとした黒い石で造られていて、昼間は下から水が噴き上がる仕組みになっている。
水が噴き上がる場所は円形の噴水の中に等間隔で七箇所あり、水位は大人の足首の上辺りまでしかない。
夏になると小さな子どもたちが水遊びをする場になっていて、中学生たちがふざけて遊んでいることもある。
「千帆」
ぼんやりと水面を見ていると、後ろから聞き慣れた声に呼ばれた。
「クロ……」
「ごめん、待った?」
すぐ傍の時計を見ると二十時ちょうどを指していて、最後まで時間ぴったりにやってきたクロに微苦笑を零しながら首を横に振った。
「なに見てたんだ?」
「別になにも。ただなんとなく、噴水が見たくなって」
素直な気持ちとは少しだけ違う理由を口にした私に、彼は「そうか」と笑ったあとで噴水に視線を遣った。
「そういえば、毎日ここで会ってたのにちゃんと見たことがなかったな」
独り言のように言ったクロは、程なくして「あっ」と漏らした。
「千帆。ほら、見てみろ」
「え?」
彼に指差された方に視線を向けると、水面に月が小さく映っていた。
時々そよぐ風に合わせてユラユラと揺れる満月は、まるで空から落ちてきたみたいだった。
「綺麗だな。……どうせなら、もっと早く気づけたらよかった」
残念そうに笑うクロは、もうここには来ないつもりなのだろうか。
この街を去ったとしてもいつか帰ってくることがあるかもしれないと思っていたけど、彼の横顔を見ているとそんな希望は淡く色づいたあとにスッと消えた。
「今日はここで話すか」
その直後、クロが思いついたように破顔し、噴水の囲いになっている石に腰かけた。
クロに促されて噴水に背を向けて腰を下ろすと、布一枚を隔ててひんやりとした感触が肌に届いた。
鼓動が速くなっているのは、彼が隣にいるせいか、それとも……。
「千帆」
不意に、心音に戸惑っていた私を呼んだクロは、目が合うと笑みを消した。
視線が静かに絡み合い、お互いを真っ直ぐに見つめる。
「今日は、千帆との約束を守るつもりで来た。でも……気が変わったなら俺のことは話さないから、いつもみたいに過ごそう」
ほんの僅かにぶれることすらなかった彼の瞳が私を射抜き、色々な感情がグチャグチャに混ざり合った心を捕らえる。
その最中、迷いが生じた。
ずっとクロのことを知りたいと思っていたけど、もしここですべてを聞いてしまったらもう本当に取り返しがつかないような気がして……。なにも聞かずにいれば別れが来ないと言うのなら、今は彼の素性なんて知らなくてもいいと思えた。
「どうする? 最後だから、千帆に選ばせてあげるよ」
だけど、クロの口から出た“最後”という言葉にハッとさせられ、たとえ私がどちらを選んだとしても彼の選択は変わらないのだと改めて思い知らされた。
だったら、なにも知らないままで終わるよりも、ちゃんと知りたいと思う。
だから……。
「聞かせてよ、全部」
私はクロの黒目がちの瞳を真っ直ぐ見つめたまま、素直な気持ちをはっきりと告げた。
夏の匂いを含んだ風が、そっと舞う。
背後でちゃぷんと小さな音が鳴り、水面が揺れたことを知らせた。
残された時間がないことはわかっているから、訪れた沈黙を一刻も早く破ってほしい。
「わかった」
そんな私の気持ちに寄り添うように、少しの間を置いてから彼の声が耳に届いた。
一度瞼を閉じたクロが、ゆっくりと息を吐いてから目を開ける。
その間に緊張感に包まれていくのがわかって落ち着かなくなっていったけど、小さな深呼吸をして平常心でいることを心がけた。
再び口を噤んだ彼は、まるでなにか大きな秘密を打ち明けるかのような顔つきで地面をじっと見つめ、膝の上で手を握っていた。
その様子を見ているだけで不安が訪れ、抑えようとしている緊張感とともに私を包む。
自分が今どんな顔をしているのか、そしてこれからどんな表情に変わっていくのか……。それはわからなかったけど、少なくともクロの横顔を見ている限りでは明るい表情になれることはないと直感が告げる。
道路を走る車の音は聞こえてくるのに、夜の空気と緊張感がその音を遠ざけていくようだった──。
昨夜は早々にベッドに入ったのに寝つけなくて、いつもはお気に入りのクッションで眠るツキが珍しく私の隣に来たから、ツキの体を優しく撫でながらその姿を見つめていた。
規則的な寝息を立てて眠るツキをぼんやりと見ながら考えるのは、クロのことばかり。
彼と出会ってからたったの一ヶ月だけど、人生で一番目まぐるしく色々な気持ちを味わった日々は、思っていたよりもずっと思い出が詰まっていたことに気づいた。
せめて泣かないようにしたいと決意を抱きながらも、クロと離れなくて済む方法を模索してしまう。
無駄な足掻きだとわかっているのに少しでも一緒にいたくて、どんな言葉なら彼の心を動かせるのだろうかと考え続けた。
それなのに……辿り着いたのはその答えでなく、自分がやりたいと“思えた”こと。
どんなに悩んでも欠片も見つからなかったのに、こんなタイミングで初めてそれを見つけてしまったのだ。
できるかどうかは、わからない。
なによりも、私には向かないことだというのは誰よりもよくわかっているけど、それでも十八歳の夜明けとともに見えたのは明るい空と“やりたいと思えること”だった。
一睡もできないままやってきた朝は体も心も重くて、洗面台の鏡に映った私はひどい顔をしていた。
気持ちを引き締めるために数回余分に顔を洗ってからリビングに行くと、父と母が揃ってダイニングテーブルに座っていた。
「おはよう」と口々に言った両親に、胸の内を悟られないように精一杯微笑む。
「おはよう」
ダイニングテーブルに並べられたクロワッサンにカフェオレ、ベーコンエッグとサラダは寝不足の体には少しばかり重く思えたけど……。
「いい匂いだね」
温められたことで香ばしい匂いを漂わせるクロワッサンが私のお気に入りのお店の物だとわかって、並んで座っている両親の前に笑顔を崩さないようにして腰を下ろした。
「千帆、お誕生日おめでとう」
「おめでとう。さぁ、食べようか」
私がお礼を言うよりも早く手を合わせた父の態度は、もしかしたら照れ隠しだったのかもしれない。
母と顔を見合わせて苦笑を零し、「ありがとう」と言ってから両親とツキと一緒に朝食を食べ始めた。
バターの風味がしっかりと感じられるクロワッサンをかじると、口の中に優しい甘さと香ばしさが広がっていく。
食欲はなかったけど両親に心配をかけたくない一心で、なんとか完食することができた。
学校に行くと、教室に足を踏み入れた途端に堀田さんが駆け寄ってきた。
「ちーちゃん、ハッピーバースデー!」
「わっ……!?」
勢いよく抱き着かれて驚く私を、堀田さんの後ろからやってきた中野さんが笑いながら見ている。
「お誕生日おめでとう」
仲良くなったばかりのふたりが私の誕生日を知っているのは、この間うちに遊びにきた時に誕生日の話題になったから。
少し前には友達からお祝いをしてもらうなんて考えられなかったけど、まさか抱き締めて『おめでとう』と言ってもらえるなんて、私には勿体ないくらいだと思った。
「ありがとう」
それでも嬉しくて笑顔を見せると、私から離れた堀田さんが「はい!」と満面の笑みで紙袋を差し出した。
「え?」
「ちーちゃん家に遊びにいった日の帰りに、中ちゃんと買いにいったんだ!」
可愛らしいロゴの入った紙袋は、ルームウェアと生活雑貨を中心に展開している人気のお店のもの。
「ほっちゃんと話し合って、ちーちゃんのイメージで選んでみたの」
目を見開いて驚く私を余所に、ふたりはニコニコと笑っている。
お礼を言うだけで精一杯だったけど本当に嬉しくて、ほんの一時だけ夜が来ることへの悲しみが和らいでいた──。
「ただいま、ツキ」
「ニャア」
可愛い鳴き声で出迎えてくれたツキに笑みが零れ、ツキを抱いてベッドに腰掛けた。
「プレゼント、もらっちゃった」
あのあとすぐに堀田さんに急かされ、ロゴ入りの白い紙袋の中からラッピングバッグを出してリボンを解くと、ルームウェアとヘアーバンドが入っていた。
ノースリーブとショートパンツのルームウェアはパイル地で、デザインはホワイトと淡いブルーのボーダー柄。
頭にリボンの結び目が来るように着けるヘアーバンドも同じデザインで、ふたりも色違いのものを持っていると言っていた。
プレゼントをもらえたことやお揃いだということはもちろん、ふたりから『夏休みにパジャマパーティーをしよう』と誘われて、さらに嬉しくなった。
今日がクロと会う最後の日ではなかったとしたら、もっと心底喜んでいたに違いないけど……。どんなに嬉しくても彼のことが頭から離れなくて、結局は単純に笑顔で過ごすことはできなかった。
「可愛いでしょ? お揃いなんだって」
だから、ベッドに広げたルームウェアを見ていても油断すれば泣いてしまいそうで、ツキに向けた表情は歪んでいたかもしれない。
そんな私の気持ちを察するように、ツキが小さく鳴いた。
「あ、そうだ」
足元に置いていたバッグから袋を出して「ツキ」と呼ぶと、ベッドで寝そべっているツキがピクリと反応した。
「おいで」
袋を開けて取り出したのは、首輪。
シュシュタイプのそれは、ネイビーの生地に星が散りばめられ、真ん中には銀色の鈴と三日月のチャームが付いている。
三日月のチャームの中にも銀色の小さな星が多数あしらわれていて、なにからなにまでツキのためのデザインのように思えて、さっきキャットフードを買うために立ち寄ったペットショップで手に取ってしまったのだ。
今着けている革製の物は、ツキがうちに来てから二ヶ月ほどが経った頃から使っているから、ところどころ擦れて剥げている。
「これは外そうね」
使わなくなったとしても、たくさんの思い出が詰まったものだから大切に取っておこう。
「やっぱりよく似合う。ツキ、かっこいいよ!」
大人しく新しい首輪を受け入れたツキは、満足げな顔をしているように思えた。
欲しいものが浮かばなかったから、この首輪は自分自身への誕生日プレゼント代わりみたいな気持ちで買うことにしたけど、自分のものを買うよりも喜びが大きいような気がする。
「大切にしてね」
頭を撫でて微笑むと、ツキは嬉しそうに鳴いた──。
夜を迎えるまでは、本当にあっという間だった。
今日が最後だとわかっているから、どんな顔をすればいいのかわからない。
ため息を零しながら部屋を出ようとした時、ツキが「ニャア」と鳴いた。
振り返ると、ツキは私をじっと見つめていて、どこかいつもとは違うことに気づいたけど……。
「どうしたの?」
首を傾げてみても、ツキはその場から動こうとはしない。
ただ真っ直ぐに私を見つめる瞳はなにか言いたげだけど、私にはツキの気持ちを読み取ることはできなかった。
「最近、お留守番ばかりでごめんね。でも……今日で最後だから」
しゃがんでツキを抱き上げると、ツキは甘えたような鳴き声を何度か上げた。
「寂しいの……?」
いつも気になってはいたけど、私がクロと過ごしている時間の分だけツキはひとりでいたのだから、きっと寂しかったに違いない。
「明日からはいっぱい一緒にいるからね」
ツキへの申し訳なさから今だけは彼のことを考えないように努め、ツキの額にそっと口づけた。
いつもは眠る前にする額へのキスだったけど、なんとなく今したくなってしまったから。
後ろ髪を引かれるような思いだったけど、ツキを残して「行ってくるね」と笑って部屋を出た。
重い足取りで歩く私の頭上には、綺麗な夜空が広がっていた。
たくさん見えるわけではないけど星はいくつもあって、月は今日を待ち焦がれていたように満ちている。
今日が、最後。
頭の中で反芻するのはその言葉ばかりで、この数日で数え切れないほど吐いたため息には切なさが詰まっていた。
公園が見えてくると思わず足が止まってしまったけど、今日はそんなことをする時間すら惜しいのだと自分自身に言い聞かせ、再び足を踏み出した。
程なくして着いた公園には人の姿は見当たらなくて、静かな雰囲気の中、いつものベンチに向かっていたけど……。すぐに見えたその場所にはまだクロの姿はなくて、今日はどうしても座って待つような気分にはなれなかった私は、噴水の方に足を向けた。
この公園の噴水は、底面が大理石のようなツルツルとした黒い石で造られていて、昼間は下から水が噴き上がる仕組みになっている。
水が噴き上がる場所は円形の噴水の中に等間隔で七箇所あり、水位は大人の足首の上辺りまでしかない。
夏になると小さな子どもたちが水遊びをする場になっていて、中学生たちがふざけて遊んでいることもある。
「千帆」
ぼんやりと水面を見ていると、後ろから聞き慣れた声に呼ばれた。
「クロ……」
「ごめん、待った?」
すぐ傍の時計を見ると二十時ちょうどを指していて、最後まで時間ぴったりにやってきたクロに微苦笑を零しながら首を横に振った。
「なに見てたんだ?」
「別になにも。ただなんとなく、噴水が見たくなって」
素直な気持ちとは少しだけ違う理由を口にした私に、彼は「そうか」と笑ったあとで噴水に視線を遣った。
「そういえば、毎日ここで会ってたのにちゃんと見たことがなかったな」
独り言のように言ったクロは、程なくして「あっ」と漏らした。
「千帆。ほら、見てみろ」
「え?」
彼に指差された方に視線を向けると、水面に月が小さく映っていた。
時々そよぐ風に合わせてユラユラと揺れる満月は、まるで空から落ちてきたみたいだった。
「綺麗だな。……どうせなら、もっと早く気づけたらよかった」
残念そうに笑うクロは、もうここには来ないつもりなのだろうか。
この街を去ったとしてもいつか帰ってくることがあるかもしれないと思っていたけど、彼の横顔を見ているとそんな希望は淡く色づいたあとにスッと消えた。
「今日はここで話すか」
その直後、クロが思いついたように破顔し、噴水の囲いになっている石に腰かけた。
クロに促されて噴水に背を向けて腰を下ろすと、布一枚を隔ててひんやりとした感触が肌に届いた。
鼓動が速くなっているのは、彼が隣にいるせいか、それとも……。
「千帆」
不意に、心音に戸惑っていた私を呼んだクロは、目が合うと笑みを消した。
視線が静かに絡み合い、お互いを真っ直ぐに見つめる。
「今日は、千帆との約束を守るつもりで来た。でも……気が変わったなら俺のことは話さないから、いつもみたいに過ごそう」
ほんの僅かにぶれることすらなかった彼の瞳が私を射抜き、色々な感情がグチャグチャに混ざり合った心を捕らえる。
その最中、迷いが生じた。
ずっとクロのことを知りたいと思っていたけど、もしここですべてを聞いてしまったらもう本当に取り返しがつかないような気がして……。なにも聞かずにいれば別れが来ないと言うのなら、今は彼の素性なんて知らなくてもいいと思えた。
「どうする? 最後だから、千帆に選ばせてあげるよ」
だけど、クロの口から出た“最後”という言葉にハッとさせられ、たとえ私がどちらを選んだとしても彼の選択は変わらないのだと改めて思い知らされた。
だったら、なにも知らないままで終わるよりも、ちゃんと知りたいと思う。
だから……。
「聞かせてよ、全部」
私はクロの黒目がちの瞳を真っ直ぐ見つめたまま、素直な気持ちをはっきりと告げた。
夏の匂いを含んだ風が、そっと舞う。
背後でちゃぷんと小さな音が鳴り、水面が揺れたことを知らせた。
残された時間がないことはわかっているから、訪れた沈黙を一刻も早く破ってほしい。
「わかった」
そんな私の気持ちに寄り添うように、少しの間を置いてから彼の声が耳に届いた。
一度瞼を閉じたクロが、ゆっくりと息を吐いてから目を開ける。
その間に緊張感に包まれていくのがわかって落ち着かなくなっていったけど、小さな深呼吸をして平常心でいることを心がけた。
再び口を噤んだ彼は、まるでなにか大きな秘密を打ち明けるかのような顔つきで地面をじっと見つめ、膝の上で手を握っていた。
その様子を見ているだけで不安が訪れ、抑えようとしている緊張感とともに私を包む。
自分が今どんな顔をしているのか、そしてこれからどんな表情に変わっていくのか……。それはわからなかったけど、少なくともクロの横顔を見ている限りでは明るい表情になれることはないと直感が告げる。
道路を走る車の音は聞こえてくるのに、夜の空気と緊張感がその音を遠ざけていくようだった──。



