土曜日と日曜日も、いつものようにクロと会った。
もう少しで一緒に過ごす時間も終わるというのに、彼はそんなことは気にしていないと言わんばかりに至って普通で、反して私は寂しさが募っていく。
私だけがこんな気持ちでいるのだと思うと虚しくて、優しい笑顔を向けられる度に胸の奥が締めつけられた。


クロに会えて、とても嬉しい。
彼に会えなくなるのは、とても寂しい。
出会った頃にはこんなことを思う日が来るなんて思ってもみなかったのに、心の中では素直にそう思う私がいて、クロには悟られないようにする為に必死だった。


だけど……本当は、彼に気づいてほしかったのかもしれない。
そうすれば、“優しいクロなら私の気持ちを汲んでくれるのではないか”というずるい考えがあって、月が満ちたあとも繋がっていられる可能性があるような気がしたから。
だから、素直に口にできないこの感情が伝わればいいのに、なんてガラにもないようなことを何度も考えて。
彼が超能力を使えるというのが本当なのだとしたら、口にしなくても伝わるのではないかと思ってしまうことすらあったけど。このことには一切触れられることはなく、あっという間に週が明けてしまった。


月曜日は、いつも以上に憂鬱だった。
あれほど嫌だった学校に行くことに対してではなく、明後日が私の誕生日だということに対して抱いたその感情の理由は、その日がクロとの約束の最後の日だから……。
よりにもよって誕生日に最後の日を迎えなければいけないと思うと余計に虚しくなって、十八歳の誕生日なんて来なければいいと思うようになっていた。
だけど、私がどんなに願っても、時間が止まることはない。
陽が落ちる頃には心の中は寂しさと悲しみでいっぱいになっていて、部屋の窓から夜色に染まっていく空を見つめながら唇を噛み締めた。


思考も心も彼に囚われて、勉強なんてできない。
真面目に机に向かっていてもまったく捗らなくて、受験生でありながら先週からこんな日を繰り返していることに焦りを感じているのに、どれだけ問題集と向き合ってもシャーペンが進むことはない。
進路もまだ決まっていない私には、クロのことを考えている余裕はないのに……。気がつけば彼への想いだけが胸を占め、他のことに働かせようとした思考は止まってしまう。
恋煩い、なんて可愛いものではない。
好きという感情よりも大きくなりそうな切なさと悲しみは、ただただ苦しさを感じさせるだけだったから……。


塾が終わると一目散に教室を飛び出そうとしたのに、先生に呼び止められてしまった。


「松浦さん、最近集中できてないみたいだけど、なにか悩みでもあるのかな?」


三十代半ばほどの男性講師は、他の生徒たちの視線を避けるためか空き教室に促してきたけど、その質問に答える時間すら惜しかった。


「いえ」
「でも、明らかに集中できてないし、なによりもいい加減に進路を決めないといけないけど、なにか考えた?」
「とりあえず、志望校は自宅から通える場所にしようと思ってます。学部は、まだこれから……」


今日は学校でも担任からまったく同じ質問を受けたこともあって、早く公園に行きたくて焦れるような感覚を抱きながら話していた。


「わかってると思うけど、学部によって受験する科目も対策も変わってくるから、もっとちゃんと考えないといけないよ」


わかってる……。でも、今は……。
悪いのが自分だということも、優しい口調の講師が私のことを気に掛けてくれていることも理解していたけど、なかなか解放してもらえないことに焦りと苛立ちが募っていく。


「とにかく、面談までにご両親とよく話し合っておいてね」


ようやく話が終わると、私は挨拶もそこそこに教室を飛び出した。


「お疲れ、千帆」


公園に着くと、クロはいつもと同じ場所にいて、ベンチの背もたれに背中を預けながら「ちょっと遅かったな」と微笑んだ。


「先生と話してて……」


本当はもっと早くここに来たかったのに、時計は二十一時半過ぎを指している。
『どんなに遅くても十時までにする』と最初に決めた彼と一緒にいられるのは、残り三十分もないことに悲しくなった。


「どうした?」
「進路のこととか、色々あって……」


座るように促したクロの言う通りにして腰を下ろすと、彼が瞳を伏せていた私の顔を覗き込んだ。


「進路、決めたか?」


心配の色を携えた苦笑を前すると言葉にできなくて、首を小さく横に振って答えた。


ため息が零されたあとに困ったように微笑まれて、呆れられてしまったのだと感じたけど……。

「真剣に考えないといけないけど、あんまり思い詰めるなよ」

程なくして笑みを浮かべたしたクロは、優しい口調でそんなことを言った。


「え?」
「千帆、ひどい顔してる。ちゃんと寝てないだろ?」


寝不足なのは進路について悩んでいるからではなくて、彼のことを考えているせい。
そんなことは言えないけど、クロに心配してもらえていることが嬉しいと思ってしまった。


「ちゃんと寝ろよ」


そう微笑んだクロが、私の頭をそっと撫でた。
無理するなよ、と言われているようで、彼の温もりと優しさに胸の奥がキュウッと苦しくなる。
嬉しいのに、悲しい。
嬉しいのに、苦しい。
相反する感情に挟まれているせいで口を開けば泣いてしまいそうで、いつからこんなにも弱くなってしまったのだろうと情けなさが芽生えた。


ひとりでいることに慣れていた時には、誰かのせいで心が振り回されることなんてなかったのに……。

「千帆は、ちょっと頑張り過ぎるところがあるから」

たったの一ヶ月足らずで人の温もりに慣れてしまったのか、こんな言葉にすら鼻の奥がツンと痛くなる。


これ以上弱くなりたくないのに、クロの言葉ひとつで今にも泣いてしまいそうになった私は、たぶん自分で思っているよりもずっと弱い。
それを認めるしかなくて、だけど認めてしまうとますます泣きたくなって、もうどうすればいいのかわからない。


「ほら、また思い詰めたような顔してる。話くらい聞いてあげるから、とりあえず顔を上げろ」


きっとひどい顔をしているはずだから見られたくなかったのに、彼は顔を上げようとしない私の両頬を突然掴んだかと思うと、そのまま強引に上を向かせた。


てっきり真剣な顔をしているのだと思っていたクロは、目が合った直後にプッと吹き出したけど……。

「なんて顔してるんだよ。いっぱい笑う練習したのに、もう忘れたのか? ちゃんと笑えるようになったと思ってたけど、まだまだだな」

すぐに瞳を伏せるようにした彼の表情が微かに曇って、眉を寄せながら苦笑が零された。


真っ直ぐに絡み合う視線が呼吸すら奪うようで、まるで溺れたように胸の奥が苦しくなる。
クロの苦笑には心配の色が混じっているような気がして、こんな時にそんな顔を見せないで欲しいと思う反面、私のことを気に掛けてくれることに喜びを感じてしまう。


「だったら……これからも、ちゃんと教えてよ……」


だから、彼に縋るように小さく訴えた。
心に秘めた想いも、大きくなり続ける寂しさも、素直に口にできない。
そんな私の、精一杯の言葉。


「なに言ってるんだよ。らしくない顔しないで、最初の頃みたいに強気でいろよ」


だけどやっぱり、僅かな沈黙を経て返ってきたのはたしかな拒絶で、それは刃となって胸の奥深くに突き刺さった。


「明後日には、ちゃんと笑ってくれよ? 最後に心配事を残して行きたくないんだ……」


そして、ひと呼吸置いて、クロが静かに言った。


「……っ!」


咄嗟に唇を噛み締めたのは、瞳の奥から込み上げてくる熱に気づき、なんとしてでもそれを堰き止めたかったから……。
ここで涙を零してしまったら、私はきっと本気でクロに縋ってしまう。
彼と離れたくはないけど困らせたくもなくて、様々な感情でグチャグチャになっている心の中をごまかすように必死に口角を上げた。


「なに本気にしてるの? もう口煩く言われなくて済むと思うと、せいせいするよ」


発した声が震えないように努めたのに僅かに掠れてしまったから、たぶん私が必死に隠そうとした心の中の感情たちは伝わってしまったと思うけど、クロは少しの間を置いてから瞳を伏せてフッと笑った。


「久しぶりにそういう千帆を見たよ。最近は雰囲気が柔らかくなってたけど、出会った頃はいつもこんな感じだったな」


「なんだか懐かしい気もするよ」と零した彼が、私を見つめながら微笑した。
クロが気づいていない振りをしてくれたことがわかって安堵する反面、やっぱりなにも変わることはないのだと察してまた悲しくなってしまう。
あと二日間の中にある残された時間で、私はなにができるのだろう……。
それはわからないけど、せめて最後は泣かないようにしよう、と密かに誓った──。


ほとんど眠れないまま迎えた翌日は、朝からずっと顔が引き攣っていたかもしれない。
堀田さんと中野さんに何度も心配されたけど、私はやっぱり胸の内を話すことはできずに笑顔を繕った。
気に掛けてくれるふたりに打ち明けられないことは、申し訳なくて心苦しくもあった。
だから、心の中で何度も謝罪を紡ぎ、精一杯笑って見せた。


「ただいま、ツキ」
「ニャア」


部屋のドアの前で出迎えてくれたツキを見ると気が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。
途端に駆け寄ってきて「ニャーニャー」と鳴くツキに笑みを向け、体をひと撫でしたあとにツキを抱き締める。


「明日なんて来なければいいのに……」


ようやくホッとできたような気がした直後、自然と落ちていたのはそんな言葉だった。
明日が最後の日なのだから、明日が来なければ別れは来ない。
そうすれば、クロとの時間をもう少しだけ守ることができるかもしれない。
頭の中で躍る、安直な思考。
その子どもじみた内容に、ため息と嘲笑が漏れた。


「……こんなの、私らしくないよね。でも……誰かとの別れがこんなにつらく感じるなんて、知らなかったよ……」


震える声で紡いだ言葉は、ツキの小さな鳴き声に包まれて消えた。


夜が来るのが、怖かった。
今夜を迎えると明日まではきっと瞬きをするように一瞬に感じてしまうと、なんとなくわかっていたから。
それでも呆気ないほどに淡々と時間は過ぎていき、夜が訪れるのを見せつけるように沈んでいく夕陽を恨めしく思いながらため息を繰り返していた。


「……じゃあ、行ってくるね」


いつものように見送ってくれたツキを自室に残して家を出ると、どんよりとした空が広がっていた。
予報では降らないはずだけど、この様子だとひと雨来るような気がする。
傘を忘れたことを後悔しながら重い足取りで歩いて公園に着くと、いつもの場所にクロの姿はなかった。
時計はまだ二十時前を指していて、彼が来ていないのは私が約束の時間よりも早く着いたせいだと気づく。
ため息混じりにベンチに腰を下ろすと、雲に覆われた夜空を見上げた。
ゆっくりと移動する雨雲の隙間から、満ちる寸前の月が見え隠れしている。


それを見ていると、『次の満月まで』という約束を交わしている私たちが会うのは明日で終わりなのだと、嫌というほどに突きつけられているような気がして……。

「千帆」

寂しさと切なさに唇を噛み締めながら視線を落とした直後、少し離れたところからクロの声が聞こえた。


「ごめん。待った?」


首を小さく横に振ると、クロは安心したように笑った。
時計はちょうど二十時を示していて、今日も変わらずにいつも通りの時間に現れた彼にまた寂しさが募った。
ベンチに腰掛けるクロを見ながら、やっぱり彼と私の気持ちには距離があることを思い知る。


「今日はどうだった?」
「え?」


沈む気持ちを抱えていた私は、ぼんやりとしていたせいでクロの言葉にきょとんとした。


「学校だよ。楽しく過ごせたか?」


彼は僅かに苦笑したあと、いつものように微笑んだ。
まるで父親みたいなことを訊くクロの唇から、何度これと似た質問が紡がれただろう。
それらを聞けるのも明日で最後だと思うとさらに切なさが大きくなり、最初のうちは鬱陶しくてたまらなかったことが嘘のように思える。


「……普通だけど」
「そうか」


呟くように答えた私に、彼が安堵の色を混じらせた笑みを零した。


「堀田さんと中野さんと、今日も色々話した?」
「うん。夏休みの宿題をいつするか決めたよ」


“普通”ということが、一ヶ月前と今の私にとってどれだけの変化になっているのか。
それをわかっているからこそ、クロはホッとしたように笑っているのだと思う。


「すごいな。一ヶ月前の千帆からは想像できない成長だ」


出会った頃は振り回されていることに戸惑い、些細な言葉にすら何度も苛立ちながら言い返していたのに、今はこうしてクロの声が聞けることが嬉しい。


「そうだね」


だから、どんな言葉でもいいからその優しい声音を聞いていたくて、彼が話してくれるようにしたかった。


「クロは夏休みとかないの?」
「……さぁ」
「さぁ、って……」


「そんな顔するなよ」と苦笑したクロが、私を見つめたまま続けて口を開いた。


「じゃあ──」
「それも質問事項に加えておくよ、でしょ」


ため息混じりに彼のセリフを奪うと、気を取り直したように向けられていた笑顔が苦笑に戻った。


「いつも同じセリフなんだから、わかるよ」


答えてもらえないとわかっていながらも質問してしまったのは、なにかひとつでもクロのことを知りたかったから。
だけど、結局はまた悲しくなっただけで、呆れたような顔で平静を装いながらも胸の奥が締めつけられた。


「千帆、あのさ……」


不意に真剣になった声音に心臓が小さく跳ねた時、クロが「あ……」と零した。


「雨だ」


そのまま独り言のように落とされた言葉通り、頬に冷たい雫が落ちてきた。


「雨宿りできるところに行こう」
「あ、うん」


頷いた私が立ち上がってクロの後を追おうと足を踏み出した直後、降ってきたばかりの雨がサーッと音を立て始めた。


「うわっ! 千帆、急ぐぞ!」
「えっ? ……ちょっ⁉︎」


彼の言葉を理解するよりも早く掴まれたのは左の手首で、目を見開いた私は戸惑い慌てたけど、そのまま引っ張られてしまったせいで抵抗する暇もなく走り出すしかなかった。
あっという間に強まっていく雨の中、風を纏うようにして走る。
クロの背中を追うことに必死で、少しずつ息が上がっていくのに、掴まれた手を引っ込めることはできなかった。


「ほら、千帆。早く」


滑り台の下にある、土管のような穴。
雨の日にはいつも利用するその場所に入るように促した彼は、私の手を離して背中を押した。
返事もせすに体を屈めて中に入り、四つん這いの姿勢で少し進んだところで止まって体勢を変える。
後ろから入ってきたクロも体勢を変えたけど、子ども用に設計されている土管の中はゆったりと座れるようなスペースはなく、体を少しだけ丸めるようにするしかない。
彼とここに入るのは何度目かわからないけど、気をつけなければ頭を打ちそうだと思うのは毎回のことだった。


「結構降ってきたな」


落とされた言葉が反響するように耳に届き、まるで全身がクロの声に包まれたような気がした。
無意識のうちに右手で掴んでいた左の手首には、まだ彼の熱が残っている。
それを意識した途端に体の奥から熱が込み上げてきて、息の仕方を忘れてしまいそうになった。


「すぐにやめばいいけど」


右側に座るクロは、心配そうに外を見ている。
ほんの少しだけ手を伸ばせば触れられるほどの距離にいるのに、強まり続ける雨ばかりを気にする彼の心はやけに遠くにあるように感じて、切なさが溢れ出してしまいそうだった。


「ねぇ……」


その横顔に振り向いてほしくて、なにを話すか決めていないまま発した声は僅かに掠れていた。


「ん? どうした?」


続く言葉を考えていなかったせいで、唇はなにも紡げない。
程なくして「寒いか?」と訊かれて首を横に振ると、クロは瞬きを数回したあとで不思議そうな顔した。


「どうした?」


優しい眼差しに見つめられ、胸の奥がキュンと鳴く。


切なくて切なくてたまらないのに、それでも心はこうしてときめいてしまうなんて……。

「千帆?」

初めて知った感覚に戸惑う私は、柔らかな声音に包まれながら泣きたくなってしまった。


言葉を探すことを忘れかけていると、不意に頭に温もりを感じた。
それがクロの手のひらだと気づいた時には、頭をポンポンと優しく撫でられていた。


「……なに?」


咄嗟に疑問を口にしながらも、話しかけておいて黙ったのは自分自身だったことを思い出してハッとしたけど……。


「なんか、撫でてほしそうだったから」


彼は瞳をそっと緩めると、優しい表情で私を見つめた。
途端に鼻の奥がツンと痛んで、瞳の奥から溢れ出しそうになる熱をこらえるために歯嚙みした。
唇を噛み締めないようにしたのは、クロに泣きそうになっていることを知られたくなかったから。
咄嗟の判断を下せた自分自身をよくやったと褒めたけど、眉を下げて困ったような笑みを浮かべた彼にはバレていたと思う。
それでも、どちらも決してそのことに触れようとはしなかったのは、そこに触れてしまえば私が涙をこらえられないことをお互いにわかっていたからなのかもしれない。


「雨、やみそうだな」


独り言のように落とされた声が響き、頭の上にあった温もりが離れていく。
さっきよりも泣きたくなったのは、今日の別れが近づいていることを感じていたからで、どうせなら雨が降り続けてくれればいいのに、なんて思ってしまった。
数分もしないうちに無情にも雨はやみ、クロはホッとしたように笑って先に外に出た。


「ほら」


重い腰を上げるようにして四つん這いでさっき通ったばかりの場所を戻ると、土管から顔を出した私の目の前に彼の手が差し伸べられた。
少しだけ悩んだ末に、左手を伸ばす。
今まで自分から取ることのなかったその手は大きくて熱くて、しっかりと握られた手から熱に侵されていく。
ドキドキしながら外に出た私は、その温もりを少しでも長く感じていたくてゆっくりと立ち上がったけど、クロは私が無事に立ったとわかった直後にパッと手を離した。


「一気に涼しくなった」


通り雨だったらしく、雨雲に覆わていた夜空はすっきりとした景色を見せている。
だけど、左手に感じていた彼の温もりが離れてしまったことに切なさを抱く私の心は、代わりに雨雲に覆われたように重く暗くなっていた。


「もう、こんな時間か」


クロに促されていつものベンチまで戻ってくると、噴水の傍に立っている時計を見上げた彼がぽつりと零した。
二十一時までは、残り十五分。
あっという間に貴重な時間のうちの四分の三が過ぎていたことに悲しくなって、雨で濡れた地面に吸い寄せられるように俯きながら唇を噛み締めた。


「さすがに座れないか」


その声にハッとして顔を上げると、私に背中を向けて指先でベンチに触れたクロが苦笑しながら振り返った。


「あそこに戻る?」
「ここでいいよ」


少しだけ悩んだけど、今は歩く時間すら惜しい。
彼を追ってその背中を見ているよりも、向かい合って言葉を交わしていたかった。
「あと十分くらいだしな」と再び時計に視線を遣ったクロにつられて、慌てて視線を上げる。
残り十三分だと知り、時間が刻まれていくことに胸が痛んだ。
雨はやんで、時間は進む。
『やまない雨はない』とか『いつだって時間は進んでいく』とか、どこかで聞いたことがある言葉たちの意味をこんなにも重く感じたのは初めてで、誰でもいいから時間を止めてほしいと願った。


「千帆」


そんな私を呼んだのは低い声で、いつもよりも真剣味を帯びた声音になにかを感じて彼を見ると、真っ直ぐな視線が向けられていた。


「……明日、話すから」


暗に込められた“すべてを”という意味を理解し、本当に明日が最後なのだと思い知らされたけど……。私は泣かないように努めることで精一杯でひと言も発せなくて、今にも溢れ出しそうな涙と切なさを隠して微笑を浮かべると、ただ小さく頷いた──。