グズグズとしていた空が雨雲を吹き飛ばした今日、梅雨明けが宣言された。
七月も十二日目になり、すっかり夏らしい青空が広がっている。
先週の水曜日から始まった期末テストも火曜日の今日が最終日で、最後のテスト科目だった日本史と数学にしっかりと手応えを感じたこともあって、いつになく心が開放感に包まれていた。


「ねぇねぇ、ほっちゃん」
「ん?」
「ここの問題、わかった?」
「えー、どれー?」


SHRが始まる前に帰り支度をしていると、隣の席の堀田さんのもとにやって来たクラスメイトの中野(なかの)さんが、数学の問題用紙を広げて指差した。


「うーん……って、わかるわけないじゃん! 私が数学嫌いなの知ってるでしょ!」
「やっぱり、ほっちゃんじゃダメかぁー」
「失礼な奴ー!」


中野さんもバレー部に所属していて、休み時間によく一緒に過ごしているほど仲良しのふたりは、きっと部活でもこんな感じなのだろう。
昨日も今日も堀田さんに挨拶をするだけで精一杯だった私には、ふたりのような関係性には縁がないことはわかっている。
だからこそ、視界の隅にチラチラと映る彼女たちの明るい笑い声を聞きながら、少しだけ羨ましく思ってしまった。


素直に羨ましく思った自分自身に驚いたのは、そんなことを考えてから数秒が経った頃のこと。
今までの私なら“羨ましい”なんて思うことはなかったし、もしそんな風に感じたとしても抱いた感情に蓋をして誤魔化していただろう。
たとえ、自分の心の中だけだったとしても、そうして目を背けたに違いない。
だから、口に出したわけではなくても羨ましいと感じたことを素直に受け入れた自分自身の変化に、とても驚いていた。
クロに言わせれば、こういうことも“変わり始めている”影響なのだろうか。
今すぐに訊いてみたくなったけど、彼の連絡先すら知らない私は、夜まで待つしかないのだと気づく。
その時にはもう素直ではいられなくなっているような気がしたけど、できることなら話してみたいと思った。


「ねぇねぇ」


無意識のうちに手が止まっていたことに気づいたのは、堀田さんの声が聞こえてきた時だった。
手にしたままのペンケースをバッグに入れてファスナーを閉めると、再び「ねぇ」と呼び掛けが耳に届いたけど……。

「松浦さーん!」

いつかと同じように、まさか自分が声を掛けられているなんて考えもしていなかったから、それまでよりも大きな声で名前を呼ばれて初めて隣の席を見た。


「え? ……私?」


声を掛けられたことも、そのボリュームが大きかったことにも驚いてキョトンとすると、堀田さんがプッと吹き出した。


「デジャヴ!」
「え?」
「ノート貸した時と同じ反応なんだもん!」


ケラケラと笑う彼女に呆気に取られているのは私だけではないようで、中野さんも目の前の光景にポカンとしていた。


「え、ほっちゃん? 急にどうしたの?」
「あ、そうだそうだ」


その質問に落ち着きを取り戻した堀田さんが、にっこりと笑って数学の問題用紙を手に取った。


「松浦さん、ここわかる?」
「えっ!?」
「はっ!?」


当たり前のように尋ねられて、私と中野さんの驚きの声が重なった。


「え、ちょっと……。急になに訊いてるの? 松浦さん、びっくりしてるじゃん」
「松浦さんなら頭いいからわかるかと思って」


あっけらかんと答えた堀田さんに反し、私よりも驚いているように見える中野さんは明らかに戸惑っている。
その表情から気まずさを読み取ることができて、どう反応すればいいのかわからなかったけど……。

「もしわかるなら、教えてくれない?」

そんな私たちの気持ちなんて気にする素振りもない堀田さんは、ごく普通に笑顔で言った。


指差された問題用紙の問六は得意な問題だったから、計算ミスをしていなければ間違っていないとは思うけど、勉強を教えることに苦くて痛い思い出が強く残っているせいで、正直に答えるべきなのか悩んだ。
また、失敗してしまうかもしれない。
堀田さんはあの四人とは違うのだろうけど、教えるのは“私”なのだから……。


「あれ、わからなかった? 松浦さんならいけると思ったんだけどなー」
「もう、ほっちゃん! 松浦さん、困ってるじゃん。ごめんね、松浦さん。気にしないで」


眉を寄せて笑う堀田さんをたしなめるように話した中野さんが、気まずそうな笑顔で私を見た。
それは微妙な表情ではあったけど、謝罪とともにホッとされたことはなんとなくわかって、出しゃばらなくてよかったと思った。


中野さんだって、私なんかに教えられても困るよね。私じゃなくても、ふたりなら教えてくれる友達くらいいるだろうし……。
心の中でそんなことを呟いたのは、少しだけがっかりした気持ちを抑えるためだった。
堀田さんが声を掛けたくれたことは嬉しかったし、本当は解けたことを言いたかったけど、臆病な私は不安に負けてしまったから、まるで正論のような言い訳を探して強引に諦めようとしたのだ。


だけど……これでよかったのだと自分自身に言い聞かせるためにギュッと閉じた瞼の裏で、クロの笑顔を思い出してしまった。
離れているはずなのに、まるで図ったようなタイミングで私の心の中に現れた彼なら、こんな私にどんな言葉を掛けるのだろう。
ノートを借りた時と同じように、きっとがっかりさせてしまう。
『変わりたい』と告げた気持ちに嘘はなくて、私の想いを聞いたクロは優しく笑ってくれた。


背中を押し続けてくれる彼の想いに応えるためにも、自分自身の過去と向き合うためにも、今ここで勇気を出さなければいけないと強く感じて……。

「あのっ……!」

なによりも、優しい笑顔があの時のように曇っていくのをもう見たくないと思った直後、意を決して瞳を開くと同時に声を発していた。
すると、堀田さんと中野さんが驚いたような面持ちで私を見た。


「どうしたの?」


ふたりの視線に不安が大きくなって拳をキュッと握り、落ち着くために深呼吸をする。


「そ、その問題……解けたの……」


震えそうな声で紡いだ言葉は教室内の喧騒に掻き消されてしまったけど、すぐに堀田さんが嬉しそうに笑った。


「本当!? 教えてくれる?」


その笑顔に胸を撫で下ろし、不安と戸惑いを残しながらも控えめに頷いた。


そのあとすぐに先生が教室に入ってきたから、教えるのはSHRが終わってからになった。
緊張のせいで落ち着かなくてソワソワしてしまい、自信があったはずの問題が本当に間違いなく解けたのかという疑問が過って、不安に駆られる。
やっぱり出すぎたことだったかもしれないと後悔し始めた時、チャイムが鳴ってSHRが終わってしまった。


「松浦さん、机くっつけよ?」
「う、うん……」


そんな私を余所に、堀田さんはにこにこと笑っていて、中野さんも戸惑いを浮かべながらもやって来た。
ふたつの机を囲んで座る私たちに視線が集まっているのは、たぶん気のせいではない。
これまで私がこんな風に誰かと過ごすことなんてなかったから、教室に残っているクラスメイトたちは驚いているのだろう。
その中には興味本位の視線があることもわかっていたけど、今は堀田さんと中野さんと接することだけに集中しようと努めた。


「じゃあ、お願いします」
「えっと、よろしくね」


堀田さんが冗談めかしたように頭をペコリと下げると、中野さんも私に微笑を向けた。


「は、はい。あの……もし、間違ってたらごめんなさい」


不安を吐露した私に、堀田さんが「大丈夫大丈夫」とあっけらかんと笑って見せた。
数学の教科書を開き、そこに書かれている公式を引用して自分の問題用紙にシャーペンを走らせていくと、五分もしないうちに問題が解けた。


過去の失敗を踏まえるように丁寧に言葉を並べていく私の説明に、ふたりは何度か相槌を打ちながら真剣に聞き入ってくれていたけど……。

「やば……」

シャーペンを置いた堀田さんが、数字や記号が踊っているルーズリーフをまじまじと見ながら呟いた。
彼女の言葉にドキッとしたのは、なにかまずいことを口にしてしまったのかと不安になったから。
話し方には気をつけていたつもりだけど、ぶっきらぼうな口調になっていたのだろうか。
それとも、無意識のうちに嫌な気持ちにさせてしまったのだろうか。
グルグルと巡る不安に押し潰されそうになっていると、堀田さんがバッと顔を上げて満面に笑みを浮かべた。


「やばいよ、松浦さん! 私、一回の説明で数学が理解できたの、中一以来なんだけど!」
「えっ?」
「すっごくわかりやすかった! ねっ、中ちゃん!?」


興奮気味な堀田さんに、中野さんも最初とは正反対の明るい笑顔で頷いた。


「うん、本当にわかりやすかったよ! 私も理解できたもん」


ふたりの言葉が信じられなくて、瞳を小さく見開いた。


「本当……?」
「本当だって! 私も中ちゃんも、数学苦手だもん!」
「うん。正直、先生よりもわかりやすかったかも。って、大きな声では言えないけど」


興奮しながら話す堀田さんの隣で、中野さんが舌を小さく出して笑った。


「よかった……」


安堵の言葉とともに自然と頰が綻んで、息を大きく吐きながら胸を撫で下ろす。
すると、中野さんが瞳を丸くした。


「松浦さんが笑ってるところ、初めて見たかも」
「あはは! 私もこの間それ言った! 全然普通に笑えるじゃん、って思うよね?」
「うん、笑わない人なのかと思ってた。……あっ、ごめん」
「ううん、そう思われても仕方ないの。私、誰とも関わろうとしてなかったから」


素直に零したあとで、ふたりを困らせてしまうようなことを口走ったと気づいてバッとしたけど……。

「私は、今の松浦さんの方がいいと思う。ねっ、中ちゃん?」

堀田さんは笑顔でそんな風に言うと、中野さんも大きく頷いた。


「うん。笑えるんだし、勉強教えるの上手いんだし、ひとりでいるなんて勿体ないよ」
「そうだよ。よかったらまた教えて。あっ! 夏休みの宿題が出たら、三人で一緒にしない?」


笑顔で提案した堀田さんに、きょとんとした。


「私もいいの……?」
「なに言ってるの。いいから誘ってるんだよ」
「うん、私ももっと松浦さんと話してみたい」
「いつもは中ちゃんとやってるんだけど、ふたりとも数学が苦手だから最後まで苦戦しちゃって。だから、松浦さんが教えてくれると嬉しい」


当たり前のように誘ってくれたことが嬉しくて泣きそうになったけど、必死にこらえて精一杯の笑みを浮かべた。


「わ、私なんかでよかったら……」
「わー! ありがとう!」


おずおずと答えると堀田さんが嬉しそうに私の両手を握ってきて、その勢いに圧倒されながらもますます喜びが大きくなる。


「松浦さん、夏休みもよろしくね」
「あっ、こちらこそ」
「ほっちゃん、丸写しはダメだからね」
「しないよ! ちゃんと教えてもらうもん」


笑顔を見せてくれた中野さんが堀田さんをからかい、彼女たちのやり取りを見ていた私は思わずクスクスと笑っていた。


「やっぱり笑うと可愛いー」
「本当に雰囲気が全然違うね」


堀田さんの言葉に中野さんも共感するように頷いたから、慣れない雰囲気にふわふわとした気持ちになって、戸惑いと恥ずかしさでソワソワしてしまう。
そんな私を見ていたふたりは、顔を見合わせてクスリと笑った。


「松浦さんって、たしか下の名前は千帆だよね?」


堀田さんの質問の意図がわからないまま「うん」と頷くと、彼女はすぐにパッとなにかを思い付いたように笑った。


「じゃあ、“ちーちゃん”だ」
「うん、可愛いし親しみやすい」
「え?」
「松浦さん、って余所余所しいもん」
「ほっちゃん、あだ名付けるの好きなんだ。松浦さんはこれからちーちゃんだよ。私たちのことも、ほっちゃんと中ちゃんでいいからね」


瞬きを繰り返す私に、中野さんが微笑みながら言った。
目まぐるしく進んでいく状況にまだ頭も心も追いつかないけど、喜びだけは胸の中いっぱいに広がっていて笑みを零さずにはいられなかった。


「あっ、LINEやってる? 交換しよ」
「ほっちゃん、グループ作ってよ」
「わかってるって。ほら、ちーちゃんもスマホ出して」
「はっ、はいっ……!」


ワタワタとバッグを焦る私を見て、ふたりが楽しそうに笑った。


「あ、ちーちゃんの待受可愛い。その子、ちーちゃん家の子?」
「うん。ツキっていうの」


女の子特有の雰囲気を味わうのは久しぶりで、くすぐったい気持ちになりながらLINEの友達リストに追加されたふたりの名前を見て、また笑みが零れた──。


「ただいま、ツキ!」


帰宅して一目散に自室に行くと、「ニャア」と鳴いたツキがドアの前で出迎えてくれた。
普段は家に誰もいなくてもツキが自由に動けるようにドアを解放しているけど、夏場だけは部屋のドアを閉めて28°Cに設定したエアコンを稼働させている。
だから、先週からツキは私の部屋で見送りと出迎えをしてくれているのだ。


「あのね、聞いて!」


スクールバッグを放り投げるように置くと、抱き上げたツキにふふっと笑いかけた。
さっきの出来事を早く話したくて、家に着くのが待ち遠しかった。
興奮した声音がその気持ちを雄弁に語っていて、私に抱き上げられたツキはびっくりしているようにも見える。
いつもなら寝る前にゆっくり話すのに今は夜まで待てなくて、堀田さんと中野さんが部活に行くまでの楽しかった時間を思い出しながら一気に話した。


「私、ちーちゃんだって。それにね、今日はバレー部のメンバーとお昼を食べながらミーティングするから無理だったんだけど、今度お弁当も食べようって誘ってもらったの」


今日は緊張してふたりのことをあだ名で呼べなかったけど、そんなことも楽しかった。
ツキにもその気持ちが伝わっているのか、ツキは私の鼻先をペロペロと舐めた。


夜が待ち遠しかった私は、約束の時間よりも早く公園に着いた。
まだクロの姿は見えなくて、ベンチに腰掛けながらキョロキョロしてしまう。
いつもはだいたい彼の方が早いから気がつかなかったけど、この時間には思っていた以上に人が来ることがなくて、広い公園のベンチにひとりでいるのは少しだけ心細かった。


「千帆!」


それから少ししてクロが現れ、「今日は早いな」と笑った。
時計を見ると針が約束の時間ぴったりを指していて、少しくらいは早く来てくれるかと思っていたからなんだか残念な気持ちになったけど……。

「もしかして、なにかいいことでもあった?」

投げかけられた質問で昼間のことを思い出し、ベンチに座る彼を見ながら口を開いた。


「うん! あのね、今日はちゃんと話せた!」
「本当に!? すごいな、千帆!」


本当は堀田さんがきっかけを作ってくれたけど、それでも以前よりもずっと前を向けていたと思う。
クロもそれを感じ取ったのか、満面に笑みを浮かべて続きを促してきた。
数時間前にツキに散々話した内容だけど、まだ何度だって話したい。
だから、期待が混じった彼の瞳を真っ直ぐ見つめながら自然と笑顔になり、そのまま昼間のことを話し始めた。


事細かく話したせいで、ひとりで十五分近くも口を動かしていた。
自分がこんなにも饒舌だったなんて知らなくて、ツキと両親以外の人の前でひとりで話し続けた記憶はもう何年もないから、喜びが溢れる心の片隅には驚きがあった。
本当なら数分で説明できる内容なのにしっかりと時間を掛けた私を、クロがずっと優しい眼差しで見つめていて……。彼は相槌や喜びの言葉を挟むことはあっても、私の話を中断させないためなのか、長く話すことはなかった。


「すごいよ、千帆。不安も緊張もあったはずなのに、よく頑張ったな」


そんな気遣いも、褒めてもらえたこともとても嬉しくて、自分でも信じられないくらい素直に満面の笑みを零していた。
今日は楽しいことと嬉しいことばかりで、昼間からずっと心がふわふわしている。


「本当は早くクロに話したかったんだけど、私たちってお互いの連絡先を知らないってことに気づいたんだよね。この際だし、連絡先交換しない?」


だから、ガラにもなく素直になって、そんなことを口にしたのだと思う。


「あっ……えっと、ほら! 別に知っててもいいかな、って……」


それに気づいて慌てたけど、喜びに満ちた心のおかげで不安や恥ずかしさは感じていなかった。


だけど……。

「じゃあ、それも質問事項として覚えておくよ」

満面の笑みだったクロの顔色がほんの僅かに変わったかと思うと、彼はにっこりと笑って見せた。


その瞬間、クロと私の間に温度差を感じてしまった。
彼が今日のことを喜んでくれているのは間違いないし、今までだってずっと私と向き合おうとしてくれていた。
ただ、そんなクロだけど、私との関係は“あくまで一ヶ月間だけのもの”と考えているのだろう。
自分でも知らない間に心を開いていた私に反して、彼の私に対する距離感は最初からずっと一定だったように思えて……。同時に胸の奥がチクチクと痛み始め、寂しいような悲しいような、切なくて惨めな感覚を抱いた。


「またそれ? まぁ、別にどうしても知りたかったわけじゃないし、むしろクロの連絡先なんて知らなくてもいいけどね」


そんな気持ちを誤魔化したくて、舞い上がる心のせいで勢いづいてしまったことを後悔しながら、ぶっきらぼうな口調で平静を装った。


「そもそも、知ってる方が便利かと思っただけだし!」
「来週までは毎日ここで会うんだから、別に連絡先なんて知らなくても問題ないよ」


あくまで“知りたかったわけではない”と強調する私を余所に、クロはごく普通に微笑んでいた。
心を刺激し続けるチクチクとした痛みが、少しずつ鋭く重いものへと変わっていく。
正直、連絡先くらい普通に交換できると思っていて、そんな勘違いをして当たり前のように口にしたことが恥ずかしくなった。
他の人には自分から切り出せなくてもクロにはちゃんと言えて、私にとってそれはたしかに今までとは違う言動だったはずなのに……。ただ空気を読めていなかっただけなのかもしれないと思い、その気のない彼を前にして心にモヤモヤとした黒いものが落とされたような気がした。


私とクロとの距離はもう少し近いものかと思っていたけど、そんな風に感じていたのは私だけで、彼にとってはあくまで期間限定の関係に過ぎないのだと思い知る。
連絡先どころかクロの本名すら知らない私は、彼のことは片手ほどの情報しか知らないという事実にまた胸の奥が痛んで、平気な振りをしたいのに眉間に皺を刻んでしまう。


なんで、がっかりしてるんだろ……。別にいいじゃん、クロの連絡先なんて。今日は、堀田さんと中野さんと少しだけ仲良くなれたんだから。
心の中ではそんな風に呟いても気持ちは晴れなくて、この時初めて、自分が傷ついていることに気づいた。
そして同時に、信じ難い感情が芽生えていたことも……。


そんなはずない……。だって、私は別にクロのことなんて……。
“勘違い”だと言い切れる理由を探したいのに、胸の奥深くで眠っていた感情がそっと目覚めたことを感じて言葉を失った。


「千帆、そんな顔するなよ。今日はふたりも友達ができたんだから、さっきみたいに笑えよ」


私が落ち込んでいることを感じ取ったらしいクロは、いつものように優しい声音でそんなことを言ったけど、私の頭の中を占めるのはさっきまでとは別のこと。
もちろんまだ胸は痛むし、彼が自分のことを最後まで話そうとしない姿勢を貫くつもりなのも気になる。
それでも、今は“信じがたい感情”を勘違いとして処理できないことに気づいて、戸惑いと驚き、そして感じたこともないほどの切なさを抱いた。


違う……。だって……私にとって、クロはそんなんじゃ……。
心の中でひとり必死に否定を続けていた私は、不意に頭に温もりを感じて顔を上げた。


「ほら、千帆。そんな顔してないで、明日ふたりとどんな話をするか考えよう?」


笑顔とともに頭をポンポンと撫でられ、痛みを感じていたはずの胸の奥がキュウッと高鳴って……。
いつからか心の中に芽生えていたその想いがクロへの恋心であることを、もう認めてしまうしかなかった。


なんてバカなのだろう。
“一ヶ月間会うだけ”のはずだった相手を好きになってしまうなんて。
今日を省けばあと八日しか会わないと決めているクロにそんな感情を持ったって、どうせ叶うわけがないのに……。心の中では自分自身を嘲笑しながらも、出会ってからずっと真っ直ぐに向き合い続けてくれていた彼に惹かれていくのは必然だったのかもしれない、なんて考えてしまう私がいる。
思い返せば、クロの言動に鼓動が速くなったり、心が落ち着かなかったりしたことがあった。
もしも、それらがこの感情の種となり水となったのであれば、水を与えられた種が芽生えてしまうのは止められなかったことなのかもしれない。


「千帆?」


優しい声に導かれるように伏せていた視線を上げると、真っ直ぐに向けられていた瞳とぶつかって、彼が穏やかに微笑んだ。


「明日のこと、考えよう。せっかくもっと仲良くなれそうなんだから」
「……うん」


必死に平静を装って笑って見せたけど、気づいた本音が心を乱し、今はそんなことを考える余裕なんてない。
夜空を見上げて泣きなくなったのは、そこに浮かんでいる上弦の月が満ちるまでの時間が僅かだと知っているからで、その日を思って胸の奥が締めつけられた──。