生憎の曇天だった七夕から三日目になる今日は日曜日で、朝からグズグズとした空が広がっていた。
「千帆、できたわよー」
「はーい」
キッチンで朝食の支度をしていた母の声でソファーから立ち上がると、足元にいたツキも付いて来た。
父は疲労が溜まっているのかまだ眠っているから、母とふたりでダイニングテーブルを囲む。
トーストとベーコンを添えたスクランブルエッグ、そしてサラダとオレンジジュースという充実したメニューを味わい、久しぶりに母とゆっくりと会話をした。
「そういえば、進路は決めたの?」
「まだ。色々考えてるんだけど、やりたいことがわからなくて」
「だったら、今は悩むしかないでしょう。とりあえず大学には行きなさいよ」
「わかってる」
「お父さんとも話してたんだけど、やりたいことが決まらなくても大学で見つければいいんだから。志望校が決まらないなら、夏休み中に家から通える範囲の大学を見に行って来なさい」
「うん」
「必要なら早めに言ってくれれば付き合うわよ。それから、理系の大学がいいならお父さんに相談しなさい」
母はアイスコーヒーをひと口飲むと、「理系のことはよくわからないから」と苦笑した。
進路を決めなければいけない時期なのに、私はまだ進学するということしか決断できていない。
三年生の一学期が終わろうとしている今、進学する子たちのほとんどが進路をちゃんと決めて受験対策をしているのに、進路が決まっていない少数派に所属してしまっているのは不安で仕方がない。
人と関わることよりも、まずは将来のことを考えるべきなのはよくわかっているけど……。クロとの時間が当たり前のようになりつつあるうえ、学校やインターネットで調べてみてもやりたいことが見つけられないせいで、彼に会うことが息抜きのように思えることもあるくらいだった。
そんな私に対して、両親はとても理解のある対応をしてくれている。
今日みたいに時間がある時には進路についての質問をされたり、アドバイスをくれたりもするけど、答えを見つけられずにいる私を急かそうとはしない。
ガミガミ叱られることも、放置され過ぎることもなくて、適度な距離で待ってくれているのだ。
「大卒の資格はあった方がいいし、勉強しておいて損することはないんだから、やりたいことが見つからなくても今まで通り勉強はサボっちゃダメよ」
「うん、わかってる」
大きく頷いて見せると、母は安心したように微笑んだ。
両親とは特別仲がいいとは言えないけど、関係は上手くいっていると思う。
ガミガミと叱られた記憶はなく、過保護でも放任でもない環境は居心地が好くて、喧嘩や反抗をしたことはほとんどない。
勉強についても、両親ともに『勉強しなさい』としつこく言ってきたことは一度もなくて、それを聞いたとしてもサラリと告げられる程度だった。
小学生の時に守るように言われた約束事は、“遊びに行く前に宿題を済ませる”というものだけ。
そんな状態でも勉強に取り組む習慣が付いたのは、大人になっても努力を怠らずに勉強し、知識を取り入れようとする姿勢を見せ続けてくれている両親のおかげだろう。
父は薬学の研究職を、母は通訳者をしていて、ふたりとも本や新聞をよく読んでいる。
研究職という職業柄なのか、興味を持つと納得がいくまで調べ、分厚い文献を読み始めると止まらない父。
英語力はもちろん、日本語力も重要だからと、より高い表現力を身につけるために家では本や新聞をほとんど手離さない母。
ふたりとも職種は全然違うけど、知識を取り入れようとする姿勢はよく似ている。
そして、そんな後ろ姿を見て育った私は、気がつくと両親から影響を受けるように勉強をする習慣が付いていた──。
「千帆は夢とかある?」
いつものように公園でクロと話していると、不意に彼がまるで今朝の出来事を知っているかのような質問を口にした。
「急になに?」
「高三の夏なら進路をはっきりと決めてる時期だし、夢とか目標があるなら知りたいと思って」
「……あったとしても、クロには関係ないでしょ」
そんな風に言ったのは、『なにも決まっていない』なんて答えたくなかったのはもちろん、あと十日もすればなんの繋がりもなくなってしまうクロには関係ない、と思ってしまったから。
彼とこうして過ごすのも、今日を除けばあと十日。
最初はこの関係が終わればせいせいすると思っていたはずだったのに、今はその時のことを考えるとなぜか心がモヤモヤとしてしまう。
「教師とか、意外と向いてると思うけど」
「学校嫌いの私が、どうして大人になってまで学校に通わなきゃいけないのよ」
私の気持ちなんて知らないクロの言葉に眉を寄せて心底嫌だと言わんばかりの顔をすると、彼は「案外悪くないと思ったんだけど」と苦笑した。
どうやら本気で言っていたらしく、相変わらずクロの考えていることがわからなくてため息が漏れたけど、彼が私をからかうつもりがないのは伝わってきて不快さは消えた。
「前から訊いてみたかったんだけど」
今度は控えめな声が聞こえたかと思うと、そのまま沈黙が下りてきた。
言い難そうに私を見ているクロが口にしたいのは、私にとっては嫌なことなのだと察したけど……。
「千帆はさ……」
なんとなく口を挟んではいけないような気がして、少しだけ緊張感を抱きながら待っていた。
「……あ、別に無理に訊き出すつもりはないし、答えたくなかったら言わなくていいから」
本題の前にわざわざこんな台詞を入れるということは、よほどデリケートな問題なのだろう。
そう察した直後にこれから紡がれる質問もなんとなく予想できて、一気に気が重くなる。
「なんで、今までずっと人と関わることを避けてたんだ?」
ただ、予想通りの言葉を耳にしたことで胸の奥が苦しくなっても、核心に触れた彼に対して嫌悪感を抱くことはなかった。
今まで訊かれなかったことの方が不思議だったし、クロの真剣な表情を見ていると私と向き合おうとしてくれているのは伝わってきたから。
「超能力者なのに、わからないの?」
そんな風に尋ねてみたのは、彼が私のことをどこまで知っているのかという疑問をすっきりさせたいと常々思っていたからで、決して反抗心なんかではなかった。
しばらくの間、クロは黙っていた。
探るような視線を向けられて、無意識に身構えてしまう。
私の気持ちを読み取ろうとしているのだろうけど、彼の黒目がちの瞳に真っ直ぐ見つめられた瞬間から胸の奥がざわつき、その感覚に戸惑った。
だけど、自分でも理由のわからないざわめきを悟られたくなくて、小さな深呼吸をしたあとで必死に心を落ち着かせようとした。
「なんとなく、わかってるよ」
程なくして、意を決したような顔をしたクロが静かに答えた。
「でも、千帆の口から聞きたい。それが、千帆自身にも必要なことのような気がするんだ」
彼の口調は穏やかで、決して強引さは感じない。
触れられたくない過去のことを言われて心はとても重いのに、相変わらず不快な感情は生まれてこなかった。
「つらいことを無理に話してほしいとは思わない。でも、千帆自身が向き合わないと、いつまで経っても前には進めないと思うから」
クロの言葉がひとつひとつ胸の奥に落ちていき、彼が本気で私の背中を押そうとしてくれていることが伝わってきた。
本当は誰にも話したくないし、彼に対しては特に強くそう思う。
それなのに、クロの真剣な表情を見ていると、今話なさければいけないような気がした。
進路を訊かれた時は、あと十日で会うこともなくなるクロには関係ないと思ったのに……。今は逆に、彼との別れが迫っているという事実を改めて自覚したことで心の天秤が僅かに傾き、自分の口から話すべきなのではないかと感じ始めていた。
忘れることはできないけど、掘り返したくはない過去。
それをクロに話すのはとても勇気が必要で、無意識のうちに握っていた拳に力が入り、不安と緊張で心臓がバクバクと鳴っていることに気づく。
「千帆」
同時に、嫌な汗がじわりと滲むのを感じて彼から視線を逸らそうとすると、まるで私の気持ちを察するようなタイミングで優しい声が耳に触れた。
「大丈夫。千帆はもう、変わり始めてる。だから、ちゃんと向き合えるよ」
穏やかな面持ちと柔らかい声音で落とされた言葉に、不安と緊張が包み込まれていく。
負の感情を完璧に取り除くことはできなかったけど、心の奥底で眠っていた勇気がゆっくりと動き出した気がした。
「本当にそう思う?」
「思うよ」
迷うことなく紡がれた答えに、まだ揺れていた心の天秤がそっと止まる。
「だから、千帆の口からちゃんと聞きたいと思ったんだ」
そして、小さく頷いた私は、意を決して口を開いた。
「中学までは、私にも親友だと思ってる子がいたんだ」
なにから話せばいいのかわからないまま口にしたのは、彩加のことだった。
親友だと思っていた。
彼女もそう思ってくれている、と信じていた。
「でも……」
だけど、今にして思えば、たぶん私と彩加の気持ちには少しだけ差があったのだと思う。
「中三の時にクラスの派手なグループの子たちから目を付けられて……。それをきっかけに、その子とも疎遠になっちゃった……」
彼女のことを悪く言えないのは、あの絶望を感じた瞬間よりも以前の記憶ではたしかに笑い合っていたから。
だから、味方でいてくれると言った彩加が私から離れて行った理由を知りたいとは思ったことはあっても、彼女を恨み切ることはできなかった。
「それまでは、クラスメイトとも雑談くらいしてたんだけどね」
声が震えそうになっていることに気づいて、瞳を伏せて深呼吸をひとつした。
気持ちが落ち着くことはなかったけど、ここで口を噤んでしまったらもうこの先は話せないような気がして……。
「そのグループに目を付けられてからは、みんなあっという間に目も合わせてくれなくなって……」
ひと思いにそこまで言ったあと、息をゆっくりと吐いた。
話し始めてから、一度もクロの顔をまともに見ることができていない。
彼がバカにして来るような人ではないとわかっているけど、どんな表情を向けられているのかを知るのが怖かった。
「典型的なパターン、だよね……」
自然と自嘲混じりの微笑が漏れ、眉間の皺がさらに深くなる。
あくまで“いじめ”という直接的な表現を避けたのは、とても抵抗があったから。
当時は、いじめられていることを両親や先生を始めとした周りの大人たちに知られるのは恥ずかしくて情けなくて、報復への恐怖心よりもその気持ちの方が大きかったと思う。
過去と上手く向き合えていないせいか、あの時に感じた気持ちは今も心の中にしっかりと残っていて、たとえ自分とは関係のないことだったとしてもいじめという三文字に対する拒絶反応は強い。
「目を付けられたのが中三の一学期の終わり頃のことで、親友だと思ってた子が離れていったのが夏休み中だった。二学期には学校に居場所がなくて、休む日が増えたの……」
暴力をふるわれたり、物を隠されたりすることはなくて、あの四人から悪口が飛び交い、クラスメイトからはひたすら無視をされるだけ。
それくらいで学校を休むなんて、心が弱かった証なのかもしれない。
だけど……勇気を出して声を掛けても避けられ、できる限り目を合わせないようにされ続けるというのは、思っているよりもずっとダメージが大きい。
まるで、存在がないもののように扱われる日々に孤独と不安が鈍い音を立てて積もっていき、誰からも相手にされない場所にいるのは怖くて息苦しくて……。身体的にはなにもされていなくて痛みもないのに、心には無数の傷が鋭利に刻まれていく。
そして、刻み込まれた傷は、三年という月日が経っても消えてくれることはなかった。
「誰も助けてくれなかったのか……?」
思っていた以上に沈黙していたのか、ずっと静かに話を聞いていたクロからそんな疑問が出た。
瞳を伏せたまま、首を小さく横に振って否定を告げる。
「美術部の顧問だった先生と保健の先生は、親身になってくれた。それから、親も……」
あの悪夢のような始業式の日に私を保健室に連れて行ってくれた芝田先生に、始業式から二週間が経った頃にようやく事情を打ち明けることができた。
何度か仮病を使って休み、嘘をつくことが心苦しくなって勇気を出して登校しても、教室にいるのがつらくて保健室に逃げる。
そんな日々を繰り返す中、芝田先生は保健室で過ごす私の様子を必ず見に来てくれていたから。
「部活でお世話になってたっていうのもあるけど、もともと一番好きな先生だったから話せたんだと思う」
芝田先生に話した時、養護教諭は席を外してくれた。
保健室に誰も来ないように鍵を掛けてくれたこともあって、泣きながらも打ち明けることができて……。ひとりで抱え込んでいた私は、あの時ようやくほんの少しだけホッとしたような気がする。
だけど、現実はそんな単純な話ではなかった。
芝田先生は事情を察していたようで、話を聞いたあとも特別驚いたような顔をすることもなく、ひとまず両親や担任にも相談することを提案してきた。
私も、とても心配してくれていた両親にはそうする方がいいとは思ったけど、自分の娘がいじめられているなんて知った両親のことを傷つけたりがっかりさせてしまうのではないかと考えると、不安が先行して気が進まなかった。
担任に話して状況が悪化するのも怖くて、どちらの提案にも頷けずにいると、芝田先生はその場では一旦保留にしてくれた。
ただ、こんな不安定な状態を隠し続けることなんてできるはずがなくて、芝田先生に打ち明けてから一週間もしないうちに養護教諭と担任を交えて話をすることになり、その翌週には担任から両親に電話で事情を説明された。
数日後、芝田先生と担任、そして母と私の四人で話し合いの場を設けることになった。
担任から電話で事情を聞いた両親は、私が心配していたように傷ついたりがっかりしたような素振りはまったく見せず、その夜に『自分たちは味方だから』ということを強く伝えてくれた。
不安と心配で心が押し潰されそうになっていた私は、両親の言葉に涙が止まらなかった。
夜遅くまで色々なことを話し、これからどうしたいのかを訊いてくれた両親にこの時はなにも答えられなかったけど……。学校での話し合いの末、教室で授業を受けられなかったとしても、受験のためにできるだけ登校することに決めた。
そして、状況が悪化することを不安視して拒絶していた私を先生たちが必死に説得し、クラスでいじめについての話し合いの時間が作られることになった。
さすがにそこに参加する勇気はなかったし、結局は卒業まで学校で浮いた存在のままだったけど……。これをきっかけに、クラスメイトたちは好意的ではなかったものの無視はほとんどなくなり、発端となった四人の口からあからさまな悪口が飛び交うこともなくなった。
もっとも、綺麗に解決したわけではなかったから休む日はあったし、登校しても保健室で過ごすことが多かったのだけど──。
クロにすべてを打ち明けたあと、沈黙が訪れた。
なにも言ってくれないことが不安だったし、彼がどんな顔をしているのかが気になった。
顔を上げるのは、怖い。
それでも、クロの表情を知りたい。
葛藤の末に意を決し、小さな深呼吸を二回繰り返してからゆっくりと顔を上げた。
「……え?」
その瞬間、瞳を見開いてしまった私は、まるで引力のように惹き付けられた彼から目が離せなくなった。
だって……。
「なんで……クロが泣くの……?」
クロの漆黒の瞳に、今にも溢れ出してしまいそうなほどの涙が浮かんでいたから。
ベンチの隣に立っている電灯の光に反射した雫は、キラキラと光っているようにも見えた。
「ごめん……」
ぽつりと零された謝罪の意図がわからずにいると、彼は眉を寄せて再び口を開いた。
「千帆がつらい時に助けてあげられなくて、本当にごめん……」
悲しげな声音が、クロの本心だということをどんな言葉よりも雄弁に語っていた。
その予想外のセリフに驚いてなにも言えなくなった私は、瞳を見開いて彼を見つめることしか出来ない。
その最中、鼻の奥にツンと鋭い痛みが走り、胸の奥にはグッと熱が込み上げてきた。
思わず唇を噛み締めたのは、瞳に浮かんだものを零したくなかったから。
ここで泣けば止まらなくなる気がして、涙をこらえるように顔を歪めるクロにつられて表情をしかめてしまう。
「傍にいたら、なんとしてでも助けたのに……」
家族でも友達でもないくせに、なにを言うんだ、と思った。
今だからこそなんとでも言えるのだろうし、そんな“たられば”の話があの時に起こることもなかったのだから、彼の言葉なんて聞き流そうとしたのに……。クロが堪え切れずに瞳から雫を零したせいで、その表情に心が強く引き寄せられてしまった。
家族でも友達でもないくせに私のために涙を流すから、その温もりを目の当たりにしてさっきの言葉を聞き流すことなんてできなくなって、とうとう私の瞳からも雫が零れ落ちる。
同時に、鼓動がトクンと音を立て、たしかに心が動いた気がした。
「……私、変われると思う?」
その感覚に突き動かされるようにして発したのは、彼と出会う前まではずっと目を背けてきたこと。
だけど……。
「言っただろ。もう変わり始めてる、って」
迷うことなく力強く紡がれた答えを聞いた瞬間、心の中で立ち竦んでいた私が大きな一歩を踏み出そうと足を上げた。
きっと、なにかが変わる。
今なら、変わることができる。
今まで無理だと思い続けてきたはずだったのにそんな風に思う私は、もしかしたらクロの言う通り、もう変わり始めていたのかもしれない。
だったら、もう少し踏み出せば、今よりももっと変わることはできるはず。
「クロ……」
「ん?」
勇気を出して震えそうな声で呼ぶと、見つめ合っていた彼の瞳がそっと弧を描いたから目頭が熱くなる。
「本当は、私……」
今度は完全に声が震えていて、次に口を開けば涙を堪えることはできないとわかっていたけど……。
「変わりたい」
胸の奥に秘めていた想いをゆっくりと声にして、真っ直ぐに向き合ってくれているクロに本心を伝えた。
すると、彼はふわりと破顔した。
「知ってるよ、もうずっと前から」
本当なのか嘘なのかわからないセリフを口にしたクロに、いつもなら悪態のひとつでもついたのかもしれないけど、今日の私の唇はそんな言葉を紡がない。
余計なことを言えば素直な気持ちを隠してしまいそうだったから、なにも言わずに彼を見る。
そのまま自然と微かに綻んだ頬に一筋の雫が伝い落ちて、温かい涙を隠すように上弦に近づく三日月が浮かぶ夜空を仰いだ──。
「千帆、できたわよー」
「はーい」
キッチンで朝食の支度をしていた母の声でソファーから立ち上がると、足元にいたツキも付いて来た。
父は疲労が溜まっているのかまだ眠っているから、母とふたりでダイニングテーブルを囲む。
トーストとベーコンを添えたスクランブルエッグ、そしてサラダとオレンジジュースという充実したメニューを味わい、久しぶりに母とゆっくりと会話をした。
「そういえば、進路は決めたの?」
「まだ。色々考えてるんだけど、やりたいことがわからなくて」
「だったら、今は悩むしかないでしょう。とりあえず大学には行きなさいよ」
「わかってる」
「お父さんとも話してたんだけど、やりたいことが決まらなくても大学で見つければいいんだから。志望校が決まらないなら、夏休み中に家から通える範囲の大学を見に行って来なさい」
「うん」
「必要なら早めに言ってくれれば付き合うわよ。それから、理系の大学がいいならお父さんに相談しなさい」
母はアイスコーヒーをひと口飲むと、「理系のことはよくわからないから」と苦笑した。
進路を決めなければいけない時期なのに、私はまだ進学するということしか決断できていない。
三年生の一学期が終わろうとしている今、進学する子たちのほとんどが進路をちゃんと決めて受験対策をしているのに、進路が決まっていない少数派に所属してしまっているのは不安で仕方がない。
人と関わることよりも、まずは将来のことを考えるべきなのはよくわかっているけど……。クロとの時間が当たり前のようになりつつあるうえ、学校やインターネットで調べてみてもやりたいことが見つけられないせいで、彼に会うことが息抜きのように思えることもあるくらいだった。
そんな私に対して、両親はとても理解のある対応をしてくれている。
今日みたいに時間がある時には進路についての質問をされたり、アドバイスをくれたりもするけど、答えを見つけられずにいる私を急かそうとはしない。
ガミガミ叱られることも、放置され過ぎることもなくて、適度な距離で待ってくれているのだ。
「大卒の資格はあった方がいいし、勉強しておいて損することはないんだから、やりたいことが見つからなくても今まで通り勉強はサボっちゃダメよ」
「うん、わかってる」
大きく頷いて見せると、母は安心したように微笑んだ。
両親とは特別仲がいいとは言えないけど、関係は上手くいっていると思う。
ガミガミと叱られた記憶はなく、過保護でも放任でもない環境は居心地が好くて、喧嘩や反抗をしたことはほとんどない。
勉強についても、両親ともに『勉強しなさい』としつこく言ってきたことは一度もなくて、それを聞いたとしてもサラリと告げられる程度だった。
小学生の時に守るように言われた約束事は、“遊びに行く前に宿題を済ませる”というものだけ。
そんな状態でも勉強に取り組む習慣が付いたのは、大人になっても努力を怠らずに勉強し、知識を取り入れようとする姿勢を見せ続けてくれている両親のおかげだろう。
父は薬学の研究職を、母は通訳者をしていて、ふたりとも本や新聞をよく読んでいる。
研究職という職業柄なのか、興味を持つと納得がいくまで調べ、分厚い文献を読み始めると止まらない父。
英語力はもちろん、日本語力も重要だからと、より高い表現力を身につけるために家では本や新聞をほとんど手離さない母。
ふたりとも職種は全然違うけど、知識を取り入れようとする姿勢はよく似ている。
そして、そんな後ろ姿を見て育った私は、気がつくと両親から影響を受けるように勉強をする習慣が付いていた──。
「千帆は夢とかある?」
いつものように公園でクロと話していると、不意に彼がまるで今朝の出来事を知っているかのような質問を口にした。
「急になに?」
「高三の夏なら進路をはっきりと決めてる時期だし、夢とか目標があるなら知りたいと思って」
「……あったとしても、クロには関係ないでしょ」
そんな風に言ったのは、『なにも決まっていない』なんて答えたくなかったのはもちろん、あと十日もすればなんの繋がりもなくなってしまうクロには関係ない、と思ってしまったから。
彼とこうして過ごすのも、今日を除けばあと十日。
最初はこの関係が終わればせいせいすると思っていたはずだったのに、今はその時のことを考えるとなぜか心がモヤモヤとしてしまう。
「教師とか、意外と向いてると思うけど」
「学校嫌いの私が、どうして大人になってまで学校に通わなきゃいけないのよ」
私の気持ちなんて知らないクロの言葉に眉を寄せて心底嫌だと言わんばかりの顔をすると、彼は「案外悪くないと思ったんだけど」と苦笑した。
どうやら本気で言っていたらしく、相変わらずクロの考えていることがわからなくてため息が漏れたけど、彼が私をからかうつもりがないのは伝わってきて不快さは消えた。
「前から訊いてみたかったんだけど」
今度は控えめな声が聞こえたかと思うと、そのまま沈黙が下りてきた。
言い難そうに私を見ているクロが口にしたいのは、私にとっては嫌なことなのだと察したけど……。
「千帆はさ……」
なんとなく口を挟んではいけないような気がして、少しだけ緊張感を抱きながら待っていた。
「……あ、別に無理に訊き出すつもりはないし、答えたくなかったら言わなくていいから」
本題の前にわざわざこんな台詞を入れるということは、よほどデリケートな問題なのだろう。
そう察した直後にこれから紡がれる質問もなんとなく予想できて、一気に気が重くなる。
「なんで、今までずっと人と関わることを避けてたんだ?」
ただ、予想通りの言葉を耳にしたことで胸の奥が苦しくなっても、核心に触れた彼に対して嫌悪感を抱くことはなかった。
今まで訊かれなかったことの方が不思議だったし、クロの真剣な表情を見ていると私と向き合おうとしてくれているのは伝わってきたから。
「超能力者なのに、わからないの?」
そんな風に尋ねてみたのは、彼が私のことをどこまで知っているのかという疑問をすっきりさせたいと常々思っていたからで、決して反抗心なんかではなかった。
しばらくの間、クロは黙っていた。
探るような視線を向けられて、無意識に身構えてしまう。
私の気持ちを読み取ろうとしているのだろうけど、彼の黒目がちの瞳に真っ直ぐ見つめられた瞬間から胸の奥がざわつき、その感覚に戸惑った。
だけど、自分でも理由のわからないざわめきを悟られたくなくて、小さな深呼吸をしたあとで必死に心を落ち着かせようとした。
「なんとなく、わかってるよ」
程なくして、意を決したような顔をしたクロが静かに答えた。
「でも、千帆の口から聞きたい。それが、千帆自身にも必要なことのような気がするんだ」
彼の口調は穏やかで、決して強引さは感じない。
触れられたくない過去のことを言われて心はとても重いのに、相変わらず不快な感情は生まれてこなかった。
「つらいことを無理に話してほしいとは思わない。でも、千帆自身が向き合わないと、いつまで経っても前には進めないと思うから」
クロの言葉がひとつひとつ胸の奥に落ちていき、彼が本気で私の背中を押そうとしてくれていることが伝わってきた。
本当は誰にも話したくないし、彼に対しては特に強くそう思う。
それなのに、クロの真剣な表情を見ていると、今話なさければいけないような気がした。
進路を訊かれた時は、あと十日で会うこともなくなるクロには関係ないと思ったのに……。今は逆に、彼との別れが迫っているという事実を改めて自覚したことで心の天秤が僅かに傾き、自分の口から話すべきなのではないかと感じ始めていた。
忘れることはできないけど、掘り返したくはない過去。
それをクロに話すのはとても勇気が必要で、無意識のうちに握っていた拳に力が入り、不安と緊張で心臓がバクバクと鳴っていることに気づく。
「千帆」
同時に、嫌な汗がじわりと滲むのを感じて彼から視線を逸らそうとすると、まるで私の気持ちを察するようなタイミングで優しい声が耳に触れた。
「大丈夫。千帆はもう、変わり始めてる。だから、ちゃんと向き合えるよ」
穏やかな面持ちと柔らかい声音で落とされた言葉に、不安と緊張が包み込まれていく。
負の感情を完璧に取り除くことはできなかったけど、心の奥底で眠っていた勇気がゆっくりと動き出した気がした。
「本当にそう思う?」
「思うよ」
迷うことなく紡がれた答えに、まだ揺れていた心の天秤がそっと止まる。
「だから、千帆の口からちゃんと聞きたいと思ったんだ」
そして、小さく頷いた私は、意を決して口を開いた。
「中学までは、私にも親友だと思ってる子がいたんだ」
なにから話せばいいのかわからないまま口にしたのは、彩加のことだった。
親友だと思っていた。
彼女もそう思ってくれている、と信じていた。
「でも……」
だけど、今にして思えば、たぶん私と彩加の気持ちには少しだけ差があったのだと思う。
「中三の時にクラスの派手なグループの子たちから目を付けられて……。それをきっかけに、その子とも疎遠になっちゃった……」
彼女のことを悪く言えないのは、あの絶望を感じた瞬間よりも以前の記憶ではたしかに笑い合っていたから。
だから、味方でいてくれると言った彩加が私から離れて行った理由を知りたいとは思ったことはあっても、彼女を恨み切ることはできなかった。
「それまでは、クラスメイトとも雑談くらいしてたんだけどね」
声が震えそうになっていることに気づいて、瞳を伏せて深呼吸をひとつした。
気持ちが落ち着くことはなかったけど、ここで口を噤んでしまったらもうこの先は話せないような気がして……。
「そのグループに目を付けられてからは、みんなあっという間に目も合わせてくれなくなって……」
ひと思いにそこまで言ったあと、息をゆっくりと吐いた。
話し始めてから、一度もクロの顔をまともに見ることができていない。
彼がバカにして来るような人ではないとわかっているけど、どんな表情を向けられているのかを知るのが怖かった。
「典型的なパターン、だよね……」
自然と自嘲混じりの微笑が漏れ、眉間の皺がさらに深くなる。
あくまで“いじめ”という直接的な表現を避けたのは、とても抵抗があったから。
当時は、いじめられていることを両親や先生を始めとした周りの大人たちに知られるのは恥ずかしくて情けなくて、報復への恐怖心よりもその気持ちの方が大きかったと思う。
過去と上手く向き合えていないせいか、あの時に感じた気持ちは今も心の中にしっかりと残っていて、たとえ自分とは関係のないことだったとしてもいじめという三文字に対する拒絶反応は強い。
「目を付けられたのが中三の一学期の終わり頃のことで、親友だと思ってた子が離れていったのが夏休み中だった。二学期には学校に居場所がなくて、休む日が増えたの……」
暴力をふるわれたり、物を隠されたりすることはなくて、あの四人から悪口が飛び交い、クラスメイトからはひたすら無視をされるだけ。
それくらいで学校を休むなんて、心が弱かった証なのかもしれない。
だけど……勇気を出して声を掛けても避けられ、できる限り目を合わせないようにされ続けるというのは、思っているよりもずっとダメージが大きい。
まるで、存在がないもののように扱われる日々に孤独と不安が鈍い音を立てて積もっていき、誰からも相手にされない場所にいるのは怖くて息苦しくて……。身体的にはなにもされていなくて痛みもないのに、心には無数の傷が鋭利に刻まれていく。
そして、刻み込まれた傷は、三年という月日が経っても消えてくれることはなかった。
「誰も助けてくれなかったのか……?」
思っていた以上に沈黙していたのか、ずっと静かに話を聞いていたクロからそんな疑問が出た。
瞳を伏せたまま、首を小さく横に振って否定を告げる。
「美術部の顧問だった先生と保健の先生は、親身になってくれた。それから、親も……」
あの悪夢のような始業式の日に私を保健室に連れて行ってくれた芝田先生に、始業式から二週間が経った頃にようやく事情を打ち明けることができた。
何度か仮病を使って休み、嘘をつくことが心苦しくなって勇気を出して登校しても、教室にいるのがつらくて保健室に逃げる。
そんな日々を繰り返す中、芝田先生は保健室で過ごす私の様子を必ず見に来てくれていたから。
「部活でお世話になってたっていうのもあるけど、もともと一番好きな先生だったから話せたんだと思う」
芝田先生に話した時、養護教諭は席を外してくれた。
保健室に誰も来ないように鍵を掛けてくれたこともあって、泣きながらも打ち明けることができて……。ひとりで抱え込んでいた私は、あの時ようやくほんの少しだけホッとしたような気がする。
だけど、現実はそんな単純な話ではなかった。
芝田先生は事情を察していたようで、話を聞いたあとも特別驚いたような顔をすることもなく、ひとまず両親や担任にも相談することを提案してきた。
私も、とても心配してくれていた両親にはそうする方がいいとは思ったけど、自分の娘がいじめられているなんて知った両親のことを傷つけたりがっかりさせてしまうのではないかと考えると、不安が先行して気が進まなかった。
担任に話して状況が悪化するのも怖くて、どちらの提案にも頷けずにいると、芝田先生はその場では一旦保留にしてくれた。
ただ、こんな不安定な状態を隠し続けることなんてできるはずがなくて、芝田先生に打ち明けてから一週間もしないうちに養護教諭と担任を交えて話をすることになり、その翌週には担任から両親に電話で事情を説明された。
数日後、芝田先生と担任、そして母と私の四人で話し合いの場を設けることになった。
担任から電話で事情を聞いた両親は、私が心配していたように傷ついたりがっかりしたような素振りはまったく見せず、その夜に『自分たちは味方だから』ということを強く伝えてくれた。
不安と心配で心が押し潰されそうになっていた私は、両親の言葉に涙が止まらなかった。
夜遅くまで色々なことを話し、これからどうしたいのかを訊いてくれた両親にこの時はなにも答えられなかったけど……。学校での話し合いの末、教室で授業を受けられなかったとしても、受験のためにできるだけ登校することに決めた。
そして、状況が悪化することを不安視して拒絶していた私を先生たちが必死に説得し、クラスでいじめについての話し合いの時間が作られることになった。
さすがにそこに参加する勇気はなかったし、結局は卒業まで学校で浮いた存在のままだったけど……。これをきっかけに、クラスメイトたちは好意的ではなかったものの無視はほとんどなくなり、発端となった四人の口からあからさまな悪口が飛び交うこともなくなった。
もっとも、綺麗に解決したわけではなかったから休む日はあったし、登校しても保健室で過ごすことが多かったのだけど──。
クロにすべてを打ち明けたあと、沈黙が訪れた。
なにも言ってくれないことが不安だったし、彼がどんな顔をしているのかが気になった。
顔を上げるのは、怖い。
それでも、クロの表情を知りたい。
葛藤の末に意を決し、小さな深呼吸を二回繰り返してからゆっくりと顔を上げた。
「……え?」
その瞬間、瞳を見開いてしまった私は、まるで引力のように惹き付けられた彼から目が離せなくなった。
だって……。
「なんで……クロが泣くの……?」
クロの漆黒の瞳に、今にも溢れ出してしまいそうなほどの涙が浮かんでいたから。
ベンチの隣に立っている電灯の光に反射した雫は、キラキラと光っているようにも見えた。
「ごめん……」
ぽつりと零された謝罪の意図がわからずにいると、彼は眉を寄せて再び口を開いた。
「千帆がつらい時に助けてあげられなくて、本当にごめん……」
悲しげな声音が、クロの本心だということをどんな言葉よりも雄弁に語っていた。
その予想外のセリフに驚いてなにも言えなくなった私は、瞳を見開いて彼を見つめることしか出来ない。
その最中、鼻の奥にツンと鋭い痛みが走り、胸の奥にはグッと熱が込み上げてきた。
思わず唇を噛み締めたのは、瞳に浮かんだものを零したくなかったから。
ここで泣けば止まらなくなる気がして、涙をこらえるように顔を歪めるクロにつられて表情をしかめてしまう。
「傍にいたら、なんとしてでも助けたのに……」
家族でも友達でもないくせに、なにを言うんだ、と思った。
今だからこそなんとでも言えるのだろうし、そんな“たられば”の話があの時に起こることもなかったのだから、彼の言葉なんて聞き流そうとしたのに……。クロが堪え切れずに瞳から雫を零したせいで、その表情に心が強く引き寄せられてしまった。
家族でも友達でもないくせに私のために涙を流すから、その温もりを目の当たりにしてさっきの言葉を聞き流すことなんてできなくなって、とうとう私の瞳からも雫が零れ落ちる。
同時に、鼓動がトクンと音を立て、たしかに心が動いた気がした。
「……私、変われると思う?」
その感覚に突き動かされるようにして発したのは、彼と出会う前まではずっと目を背けてきたこと。
だけど……。
「言っただろ。もう変わり始めてる、って」
迷うことなく力強く紡がれた答えを聞いた瞬間、心の中で立ち竦んでいた私が大きな一歩を踏み出そうと足を上げた。
きっと、なにかが変わる。
今なら、変わることができる。
今まで無理だと思い続けてきたはずだったのにそんな風に思う私は、もしかしたらクロの言う通り、もう変わり始めていたのかもしれない。
だったら、もう少し踏み出せば、今よりももっと変わることはできるはず。
「クロ……」
「ん?」
勇気を出して震えそうな声で呼ぶと、見つめ合っていた彼の瞳がそっと弧を描いたから目頭が熱くなる。
「本当は、私……」
今度は完全に声が震えていて、次に口を開けば涙を堪えることはできないとわかっていたけど……。
「変わりたい」
胸の奥に秘めていた想いをゆっくりと声にして、真っ直ぐに向き合ってくれているクロに本心を伝えた。
すると、彼はふわりと破顔した。
「知ってるよ、もうずっと前から」
本当なのか嘘なのかわからないセリフを口にしたクロに、いつもなら悪態のひとつでもついたのかもしれないけど、今日の私の唇はそんな言葉を紡がない。
余計なことを言えば素直な気持ちを隠してしまいそうだったから、なにも言わずに彼を見る。
そのまま自然と微かに綻んだ頬に一筋の雫が伝い落ちて、温かい涙を隠すように上弦に近づく三日月が浮かぶ夜空を仰いだ──。



