翌週の木曜日は、朝から雨が降っていた。
六月は今日で終わるけど、どうやら梅雨はまだ明けそうにないらしい。
クロと出会ってから十日が経つことに気づいたのは、今朝リビングで目にしたカレンダーが早くも七月になっていたから。
気の早い母が朝から六月のカレンダーをめくってしまったようで、紫陽花の写真だった紙は青空と海の夏らしい景色に変わっていた。


土曜日にほんの僅かに心境の変化を感じたあとも、毎日ずっとクロに会っている。
なぜかあの公園にこだわっている彼のせいで、雨が降っていた月曜日と火曜日もいつものように公園で会うはめになり、せめてできるだけ濡れないような場所を探した末、滑り台の下にある土管の中で過ごしたのだ。
長さは3メートルほどあるけど、所詮は子どもが中を通り抜けるための円柱のような空間。
体を丸めるようにして座っていても、高校生の私と二十歳のクロには狭く感じた。
それなのに、彼はなんだか楽しそうにしていて、ファーストフード店やファミレスに行こうなんて言えなかった。


『今週こそ、ちゃんと会話をすること。内容はどんなことでもいいから』


そんな私を余所に、クロは改めてそんな指示を出してきた。


はぁ、とため息が漏れる。
もうすぐ六限目の授業が終わるというのに、今日も誰ともまともに話せずにいた。
昨日と今日は、登校した時になんとか隣の席の堀田さんに挨拶をすることはできたけど、それ以外はまったく話す機会がなくて会話をするには程遠い。
唯一の救いは、彼女が挨拶を返してくれること。
今までのことがあるから仕方がないとは言え、私と関わろうとする人がいないに等しい状況の中、堀田さんは普通に反応してくれるのだ。
今日はほんの少しだけ笑ってくれて、緊張でいっぱいだった心がそっと解れた。
残念ながら会話には届かないレベルだけど、それでも彼女の態度には少なからず救われている。


私が知る限りでは、堀田さんは挨拶をするようになった私のことを誰かにおもしろおかしく話したりもしていないようで、隣の席が彼女のような人でホッとした。
だって、もし笑い者にでもされてしまったら、私はきっと今度こそ殻から出られなくなってしまう。
まだ完全に踏み出せてはいないけど、固く作り上げた殻にヒビを入れることくらいはできたはず。
だから、ようやくそこから出ようとしている自分自身がまた閉じこもってしまうことだけは、どうしても避けたいと思うようになっていた。


変なの……。どうでもいいって思ってたはず、なんだけどな……。
クロと出会った十日前の夜は、私の中にはまだなんの変化もなかった。
誰とも必要以上に関わるつもりはなかったし、強引な彼に戸惑い、苛立ちを感じていた。
だけど……今の私は、あの日の私とは、たぶんなにかがほんの少しだけ違っている。
それは、自分でもよくわからないくらいの些細な変化で、具体的になにが変わり始めているのかはまだ見えていない。


ただ、月曜日と火曜日にはできなかった挨拶を、昨日と今日はできた。
誰も褒めてくれないようなできて当たり前ことだけど、昨夜クロに報告した時は笑ってくれた。
彼の前では平静を装いながらもそれを嬉しいと思う気持ちがたしかにあって、そんな風に感じていることですら今までとは違うのだ。


「はい、今日はここまで」


チャイムと同時に先生の声が響き、授業が終わったことに気づいた時、クラスメイトの大半が立ち上がっているのが視界に入り、私も慌てて腰を上げて一礼をした。
黒板の文字を全部書き留めることができていなくて、着席したあとで焦りながらノートにシャーペンを走らせたけど、程なくして日直の男子が黒板を消し始めてしまい、最後の一行を写せなかった。


「あっ……」


声がため息に変わり、ひと呼吸置いてシャーペンをノートの上に置いた。
ちゃんと書き取れなかったのは、授業中に余計なことに思考を使っていた自分自身のせい。
ノートを借りる友達すらいない私は、テスト勉強に差し支えがないことを祈りながら諦めるしかなかった。


「ねぇ。……ねぇってば。松浦さん」


再びため息をついたあとに隣から堀田さんの声が聞こえてきたけど、まさか自分が呼ばれているとは思っていなくて反応が遅れ、ようやく名指しされたことで顔を上げた。
瞬きをしながら彼女を見ると、視線がぶつかった。


「え? ……私?」
「うん。ノート、取れなかったんでしょ? よかったら見る?」


頷いた堀田さんは、当たり前のようにノートを差し出してきた。
突然の申し出に驚きのあまりにきょとんとしてしまい、彼女を見ている瞳は瞬きを繰り返す。


「いいの……?」
「いいよ。だって、あと一行でしょ」


親切にされることに慣れていない私は、向けられた優しさを前にして戸惑いを隠せなかったけど、わざわざ開いてくれたノートを受け取った。


「あ、あの……ありがとう」


おずおずとお礼を口にすると、「別にいいよ」と小さな笑みが返された。
一行分を写すのには一分も必要なくて、綺麗な字で書かれた文字と自分のノートを確認してから、帰り支度をしていた堀田さんに声を掛けた。


「あの……」
「終わった?」
「う、うん。あの、本当にありがとう」


頭を下げて両手でノートを差し出すと、ひと呼吸置いてから彼女がぷっと吹き出した。


「たかがノートくらいで、そんなに頭下げなくても」


顔を上げると堀田さんがふふっと笑っていて、予想よりも遥かに優しい反応をもらえたことにホッとして口元が綻んだ。


「あっ」
「えっ?」
「なんだ、笑えるじゃん」


その言葉が私に向けられているのはすぐにわかったけど、どんな反応をすればいいのかわからない。


「松浦さんが笑ってるとこ、初めて見たかも」


そんな私からノートを受け取った彼女は、梅田先生が教室に入ってきたことに気づいて前を向いた。


「ショートホームルーム始めるわよー」


先生の声が聞こえてきても、私の心はなんだか落ち着かなかった。
だって、誰かにノートを借りたのなんて、三年以上振りだったから。
普通なら別に珍しくないことだけど、同級生から物を借りるのは久しぶりだった私にとっては、心がくすぐったいような気持ちになる時間だった。


SHRが終わると、教室内はあっという間に賑やかになった。
いつもならすぐに帰るけど、さっきの出来事を反芻してぼんやりとしていたせいで帰り支度がまだ終わっていなくて、机の中の教材をバッグに詰めていく。
その最中、ふと、会話に繋がるチャンスを逃してしまったのかもしれないと気づいて思わず隣を見ると、堀田さんが立ち上がったところだった。


「ほっちゃん、部室行くよー」
「はーい」


クラスメイトに呼ばれた彼女は、笑顔で陽気な返事をした。
歩き出した堀田さんにできればもう一度お礼を言いたかったな、なんて考えていると、彼女が突然クルッと振り返った。


「松浦さん、ばいばい」
「え?」


笑顔で手を振ってくれたことに言葉を忘れそうになるほど驚いて、瞳を大きく見開いてしまった。
すると、堀田さんが再び手をヒラヒラとさせながら「ばいばい」と笑ってくれて、慌てて右手を上げた。


「ば……っ、ばいばいっ……!」


ぎこちなく振った手はあまり動かせていなかったし、挨拶は吃ってしまったけど、彼女は満足そうににこっと笑って教室から出て行ってしまった。
緊張のせいで息を止めそうになっていた私は、じんわりと汗が滲んでいた右手をキュッと握り締めた──。


学校から帰宅し、いつものようにツキのご飯の用意を済ませてから塾に行くと、一学期の期末テスト対策の抜き打ちテストが待ち構えていた。
来週の水曜日に期末テストを控えているから塾でもテストがあることは予想していて、そのための復習をしっかりしていたおかげで手応えを感じることができた。
ただ、今日の出来事が嬉しくて、ついその一部始終を早くクロに話したいと考えては集中力が切れてしまい、時間ギリギリまでテストと格闘するはめになったことは反省した方がいいのかもしれない。
そんな風に思いながらも塾が終わるとすぐに教室から立ち去った私がいて、結局反省するのは後回しになりそうだった。
公園に着くと、いつもの場所に彼の姿があった。


「千帆、早かったな」
「……今日はちょっと早く終わったから」


実は走って来た、なんてクロには絶対にばれたくなくて、咄嗟に口をついて出た嘘で真実を隠した。
だけど、彼はふっと笑みを零し、そんな私のことを見透かしているかのように「ふーん」と言ったあと、間を置かずに続けた。


「で、今日はどうだった?」


今週に入ってから、クロはあまり余計な話をしないですぐに本題に触れてくるようになって、それはやっぱり今日も変わらなかった。


「挨拶もしたし、ノートも借りたし、帰りにはばいばいって言ったよ」


ふふん、とどこか得意げな顔になっていたのはたぶん気のせいではなかったけど、今思い返してもそれほど嬉しいことだったのだ。


「え? 本当に?」
「本当だってば」


瞬きを繰り返しながら驚くクロにふっと笑ってしまうと、彼は満面に笑みを浮かべた。


「すごいな! 昨日までは朝の挨拶しかできなかったのに、ノートを借りたなんて! 今までの千帆からは考えられないな」


まるで自分のことのように喜ぶクロを見て、胸の奥にムズムズとくすぐったいような感覚が広がっていき、なんだか頰が綻んでしまいそうになる。


「どんな感じで話したんだ?」


こういう感じをなんて表現すればいいのかわからなくてほんの少しだけ戸惑ったけど、そんなことよりも彼の質問に答えたくて口を開いた。


「あのね」


堀田さんの方から声を掛けてくれてノートを借りたことはもちろん、教室を出ようとした彼女がわざわざ足を止めてまで手を振ってくれたことも、詳しく話した。
ただ、口にしたことでまた嬉しくなって弾む気持ちを隠せずにいた私を余所に、満面の笑みだったクロの表情が徐々に微妙なものに変わっていき、ついには苦笑が浮かべられた。


「……なんで、なにも言わないの?」


話が終わってもすぐに口を開かないクロに違和感を覚え、眉を下げてしまった。
正直、もっと喜んでくれるかと思っていたからなんだかがっかりしてしまって、彼がどうして微妙な顔をしているのかわからないけど、なにか気になることがあったのだということだけは察した。


「あぁ、ごめん……」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」
「そうだな」


困ったように微笑むクロは、言い難そうにしながら私を真っ直ぐ見つめた。


「千帆なりに努力してることはよくわかってるし、その子から声を掛けてもらえたのだってその成果だと思ってるよ」


ゆっくりと言葉を紡ぐ彼の口調は優しくて、このあとに聞かされるのは私にとってはあまり良くない内容になるのだとわかる。
だけど、クロの微妙な顔を見てしまったからには、その理由をちゃんと知りたいと思った。
黒目がちの瞳を真っ直ぐ見つめ返すと、彼は私の気持ちを察するように続けた。


「でも……俺は、相手からのきっかけで会話をするんじゃなくて、千帆から話し掛けてほしいんだ」


優しいままの声音にハッとした私は、ようやくクロの表情の意味を理解し、みるみるうちに心が重くなっていった。
挨拶以外の言葉を交わせたことが、とても嬉しかった。
高校に入学してからノートを貸してもらったことなんて一度もなくて、何度かノートを取り損ねた時は重要そうなところだった場合だけは先生に尋ねに行き、それ以外は諦めていた。
もちろん、こんな私にわざわざノートを借りに来る子もいなかったから、三年振りのやり取りに少なからず浮かれていた。
だから、私は初歩的なことを見落としていたのだ。
クロはいつだって“自分から話し掛けること”にこだわり、歩み寄ることの意味と大切さを真剣に話していた。
それをちゃんと心に留めていれば、今日の一件を喜んでいたとしても、ここまで心を弾ませながら話すことはなかったのかもしれない。
彼も喜んでくれているのはわかっていたけど、目の前の苦笑から見えたのは残念な気持ちの方が大きいということで、ひとりで浮かれていた自分が恥ずかしくなって瞳を伏せた。


「そんな顔するなよ」


すると、クロは困ったようにそんなことを言い、私の頭に大きな手を置いて髪をグシャッと撫でた。


「さっきも言ったけど、千帆がちゃんと努力してるのはよくわかってる」


私の心を優しく包むような声音で零された言葉に、胸の奥が苦しくなってしまいそうだった。
もうずっと、誰かにこんな風に接してもらったことはなかった。
友達はいないし、両親とは仲は悪くないけどあまり深い話はしない。
だから、本音を話せるのはツキだけで、外に出ればひとりぼっちだと思っていたけど……。クロは、そんな私のことをちゃんと見て、真っ直ぐに向き合ってくれている。
そのせいで、最初は苛立ってばかりだったのに、今は彼の存在に少しずつ救われ始めていることを否定できなくなっていた。


いじめに遭う前だったとしても、両親以外にここまで向き合ってくれた人はいただろうか。
こんな私に対して優しく接してくれ、時には厳しい言葉を放ち、今みたいにそっと気づかせてくれる。
そんな人は、私の周りにいただろうか。
彩加は優しかったけど、誰に対しても厳しいことを言う子ではなかった。
学校でも家でもあまり叱られた記憶がないから、彼女も特に言うきっかけがなかっただけなのかもしれないけど、どちらにしても他人にここまで向き合ってもらった記憶はない。
その事実に気づいた時、感謝の気持ちを抱くよりも早く、心が戸惑いに包まれた。
そして、面識のなかったはずのクロが私に対してこんな風に接する理由を、出会った頃とは違う意味で知りたくなってしまった。


伏せていた顔を上げると、クロがそっと手を離した。
頭に残った温もりのせいか、彼の手が離れたことに名残惜しいような気持ちを抱きそうになって、慌ててそんな感情を追い払う。
それから、意を決して口を開いた。


「……どうして?」
「ん?」
「どうして、クロはこんな風に私に接するの?」


微笑みを見せたクロの視線を逃がさないように、彼の瞳をじっと見つめる。
いつもとは立場が逆だということに気づいて、これがからかうような話題ならきっと主導権を握れるかもしれないと密かに喜んだのだろうけど、今はそんなことはすぐに思考から抜けた。
クロは私につられるように真剣な表情をすると、少しの間なにかを考えるように沈黙を貫いたあとで息を吐いた。


「知りたい?」


真っ直ぐな瞳から視線を逸らすことなく、ゆっくりと首を縦に振って小さく頷く。
すると、ひと呼吸置いてから、彼がふっと笑みを零した。


「じゃあ、質問事項として覚えておく」
「え?」
「俺のことを話すのは一ヶ月経って千帆が変わったら、って約束だっただろ? だから、今の質問もその時に話すよ」


しれっと言ったクロは、まるでこれ以上の詮索は無意味だと言わんばかりににっこりと笑った。


「なにそれ。やっぱりずるい」
「そうかもしれないね」


眉を寄せて微笑したクロに、共感するならどうして今話してくれないのかと疑問が深まったけど、彼が折れないことはわかっていたから大きなため息を落として口を噤んだ。
クロも小さなため息をつくと、私の頭をポンと撫でた。


「明日もまた頑張れよ?」


そこにどんな意味が込められているのかは読み取れなかったけど、嫌ではないから厄介な気がして、強くない力でその手に触れて退けた。


「ブスッとするなよ。千帆は笑う練習をもっとした方がいいな」


続けて「ほら、笑ってみろ」と言われたけど、眉間に寄った皺が戻らない。
笑う気分ではなくてもこんな顔をするつもりもないのに、言うことを聞いてくれない自分の表情にため息が漏れた。


「こらこら。もう、ため息はやめろよ。雰囲気が悪くなるから」


彼の言葉通りの状況を経験してつらい記憶として残っているからこそ、再び零れそうだったため息を我慢しながら「わかってるよ」と返したものの、残念ながらこのあとも眉間の皺が取れることはなかった。
それでも、向き合ってくれる人がいるというのはどこか安心感と心地好さがあって、心の中では小さな温もりを感じていた──。