翌日の土曜日も、公園にやって来た。
カレンダー通りに出勤する両親が家にいたから、塾でもない日の夜に出掛ける私のことを怪訝に思っていたみたいだけど、コンビニに行くと言うと送り出してくれた。


「千帆は、とりあえず笑顔を練習しようか」
「笑顔って……。別に楽しくもないのに笑えないよ」
「楽しいから笑えって言ってるんじゃなくて、楽しくするために笑うんだよ。ブスッとしてるような無愛想な奴に話し掛けたいとは思わないだろ?」
「そりゃそうかもしれないけど」
「ほら、笑ってみろ。「こうやって、口角を上げるんだよ」


「ほら」と言葉通りに口角を上げたクロは、あっという間に好意的な笑みを見せた。


それから笑顔を作るように促され、ため息をひとつ零してから私なりに精一杯頑張って唇の両端を上げてみたけど……。

「顔が引き攣ってて、ちょっと怖い」

その様子を見ていた彼が、独り言のようにぼそっと呟いて苦笑した。


「だからっ! 楽しくもないのに、いきなりそんなに簡単に笑えるわけないじゃない!」


ついカッとなって苦笑いしたままのクロに強く言えば、彼は慌てて取り繕うように微笑んで「怒るなよ」と零した。


「家族の猫には、普通に笑い掛けてるだろ? その時の感じで笑えばいいんだよ」
「猫じゃなくてツキって呼んで! って、なんでそんなことまで知ってるのよ!?」


まさかツキに話したことまで筒抜けなのかと焦ったけど、クロはどこか気まずそうに笑った。


「だって、俺、超能──」
「それは聞き飽きた。そもそも、超能力って言うなら、なんか見せてよ」
「えっ……」


すると、彼はバツの悪そうな顔をして、視線を僅かに泳がせ始めた。
てっきり言い包められるかと思っていたのに、なにか触れられたくない理由でもあるのかもしれない。
クロの弱味を見つけられた気がして、自然と口元が緩んでいた。
いつも彼に振り回されてばかりなのだから、少しくらい仕返しをしたってバチは当たらないはず。
そんな風に思った私は、気が大きくなっていた。


「なんでもいいよ。スプーン曲げとか予知とか、なんかできないの?」


挑発するように笑って見せれば、クロが瞳を小さく見開いたあとで、ふっと微笑んだ。


「ちゃんと楽しそうに笑えるじゃん」
「え?」


突然、自分では自覚していなったことを指摘されてきょとんとしてしまい、彼に言われた言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「今の千帆、普通に楽しそうだよ。俺、今みたいな千帆の方がいいと思う」


不意にクロから優しい眼差しを向けられた瞬間、鼓動が大きく跳ねたのがわかった。
胸の奥がキュッと締め付けられたような気がして、心臓がトクントクンと速度を増していく。
少しだけ苦しくて、そのせいで一瞬だけの呼吸の仕方を忘れたような気がしたけど、決して不快ではない。
ただ、こんな風に感じた記憶はなくて、その知らない感覚に戸惑ってしまった。


「千帆? どうかした?」
「なっ、なんでもないっ!」


彼に顔を覗き込まれてドキッとした私は、咄嗟に体を引いて強く返したけど……。

「顔、赤くないか?」

その言葉で頬に熱が集まっていたことに気づいて、ますます顔が熱くなった。


「あっ……暑いだけ! 暑くない⁉︎」
「そりゃ夏だし。でも、さっきまでは──」
「とにかく暑いの!」


怪訝そうなクロに強く言うと、彼は一瞬だけ黙ったあとでふっと笑った。


「そんなに必死にならなくても、ちゃんと聞こえてるから」
「別に必死じゃない!」
「わかったわかった」


小さな子どもを宥めるように話すクロに調子を狂わされて、微笑む彼のペースにまた流されていく予感がした。


墓穴を掘らないように無言で様子を見ていると、クロが口を開いたけど……。

「千帆の猫……ツキってさ」

またツキを猫呼ばわりされたことにムッとすると、彼はすぐに私の様子を察したように言い直した。


「ツキがなに?」


クロがツキのことを名前で呼んでくれたことに納得して、眉間の皺を緩める。
すると、彼は安堵の色を浮かべた顔で笑って、私を真っ直ぐ見つめた。


「どんな奴?」
「え?」


ツキのことをそんな風に訊かれるとは思っていなくて、少しだけ驚いてしまった。
そんな私のことを笑顔のまま見つめているクロが、続けてゆっくりと口を開いた。


「可愛い?」


思わず瞬きをしてしまったのは、彼から“可愛い”なんて単語が出てくるとは思っていなかったから。
クロは、私がツキに対して友達や家族のように接していることに否定的なのだと感じていたから、可愛いかと尋ねてきたのは予想外だったのだ。


「可愛いに決まってるでしょ」
「どういうところが?」


きっぱりと答えると、矢継ぎ早に質問が飛んできた。
彼が突然ツキのことに触れたのは不思議だったけど、大好きなツキのことを話すのは嫌な気はしない。
だから、私は素直に口を開いていた。


「すごく健気で、甘えん坊なところ。猫って気まぐれだって言うでしょ? でも、ツキは全然そんなことなくて、いつも私の傍にいるの」


ツキのことを考えるだけで嬉しくなって、ごく自然と口元が綻んでいく。


「私が出掛ける時には見送ってくれて、帰ると出迎えてくれるんだ。あと、落ち込んでる時には片時も離れようとしなくて、お風呂にまで付いて来たり……」


今もきっと、ツキは私の帰宅を待っているに違いない。


「それから、ご飯の時も先に準備してあげてるのに、私が食べ始める時まで待ってるんだよ」


そう思うと早く帰りたくなったけど、ツキのことを話す私の口は止まらなかった。


「特に躾をしたわけじゃなくて、全部ツキが自然とするようになったことばかりなの」


クロは、私の話に黙って耳を傾けていて、その顔にはとても優しい笑みが浮かんでいた。
てっきりツキのことを否定的な目で見ているのだとばかり思っていたのに、彼の表情からはそんな雰囲気は一切感じられない。
ツキのことを話す機会に恵まれて嬉しかった私は、クロが決めた時間までにツキの魅力を語るのが無理だとわかっていて、彼と過ごしたいわけではないのにニ十一時になるまでの残り十分しか話せないのは残念だと思った。


「千帆にとって、ツキはいい奴なんだな」
「そうだよ。でもね、最初からそうだったわけじゃないんだ」


ようやく口を開いたクロに眉を寄せて微笑むと、彼はまた黙ってしまった。
その態度をツキのことをまだ話してもいいのだと受け取り、ツキと出会った時のことを語ることにした。


「ツキは、三年前にこの公園に捨てられてたのを見つけて拾ったんだ。怪我しててすごく弱ってるのに、警戒心を剥き出して必死に威嚇してきて……病院で診てもらってから一生懸命看病したんだけど、最初は何度も引っ掻かれたんだよ」


苦笑した私につられたのか、クロまでどこか悲しそうな笑みを零したから調子が狂いそうになったけど、時間が惜しくてすぐに続けた。


「もともとは飼い猫だったのに捨てられたみたいで、そのせいで人をすごく警戒してたんだ」


あの頃のツキはまるで私みたいだと思っていることは、口に出さなかった。
そんなことを言いたくなかったのはもちろん、ツキと自分自身を一緒にするのはなんだか申し訳なかったのだ。


「名前を付けたけど、きっとツキにはそれまで呼んでもらってた名前があったんだろうし、どんなに一生懸命看病したって懐いてくれないかもしれないって思ってた。でもね……」


だって……ツキはもう私にも両親にも懐いていて、人との関わりを避けている私とは違うから。


その自覚があるからこそ、もしかしたらツキは私に拾われるよりも他の人と出会えた方が良かったのかもしれないと思う時もあるけど……。

「少しずつ……本当に少しずつ歩み寄ってくれるようになって、今の関係ができたんだ」

それでも、私はツキのことがとても大切だから、いつも私の傍にいてくれるツキも同じように想ってくれていたら嬉しい、なんて思う。


「名前……なんでツキって付けたんだ?」


静かに紡がれた疑問に、自然と小さな笑みが零れる。


「満月の夜に出会ったから。すごく綺麗な満月だったの」


あの日の夜空に存在していた満月は、それまでに見た中で一番綺麗だと感じた。
さすがにそれは恥ずかしくて言えずにいると、程なくしてクロが満面に笑みを浮かべた。


「ツキは幸せだな。千帆みたいな優しい子に拾ってもらえて」


優しい声音で落とされたのは、なによりも嬉しい言葉。


「きっと、ツキもそう思ってるよ。人間の言葉が話せたら、千帆にたくさん感謝の気持ちを伝えたいと思う」
「それも、超能力?」


素直に漏れた微笑みを隠すように淡々と訊くと、彼が眉を小さく寄せてふっと笑った。


「俺を拾ってくれたのも、千帆みたいに優しい人だから」


それはきっと、悲しい過去をほのかに匂わせた話。
それなのに、クロは幸せそうに微笑んでいて、私の方が泣きそうになってしまった。


「なんで千帆がそんな顔するんだよ」


彼が自分自身のことを少しだけ話したあの時と、まったく同じ言葉が紡がれる。
無意識のうちに出ていた表情は、たぶん悲しみを孕んだものだったのだろう。


自分自身が今どんな顔をしているのかも、その表情になった理由もわからないけど……。

「あなたのことも話してよ」

不意にクロのことが知りたくなって、自然とそんなことを口にしていた。


途端に瞳を見開いた彼は、心底驚いたように言葉を失っていた。
私自身も自分の台詞に驚いていたけど、もともと私のことばかり知られているのは不公平だという気持ちがあったから、それが改めて強くなったのだと思うことにした。
だけど、程なくして苦笑したクロは、「残念だけど」とため息混じりに零した。


「もう時間だから。俺も帰らなきゃいけないけど、千帆の親だって心配してるんじゃないか?」
「でも……」


今聞かなければ話してもらえないような気がして渋っていると、すぐに彼がふっと微笑した。


「いずれ、ちゃんと話すよ」
「いずれっていつ?」


間髪入れずに問い掛けると、クロは少しだけ困ったように笑って「そうだな……」と独り言のように呟いた。


「じゃあ、一ヶ月経って千帆が変わったら、俺のことを話す。それでどう?」
「なにそれ。なんかずるくない?」
「そう? でも、千帆が知りたいことはなんでも答えるよ」


彼は言い終わる前に立ち上がると、私にも立つように目配せをした。


「ほら、帰るぞ」


腑に落ちないけど、このまま粘らせてもらえないこともなんとなくわかっていて、仕方なく腰を上げる。


「じゃあな」


ふわりと微笑んだクロは、公園の正面入口とは反対側に向かって歩き出した。
彼が私よりも先に立ち去るのは初めてで、別にどうでもいいようなことだと思うのに、そんな些細な態度がなんだか気になってしまう。
それでも、口を開くことはできなくていつもよりも少しだけ重く感じる足を動かそうとした時、クロが立ち止まって振り返った。


「おやすみ、千帆」


向けられたのはいつもの笑顔だったのに、その表情は夜の闇に消えてしまいそうなほど儚く見えて……。


「クロ……っ!」


気がつけば、再び歩き始めていた彼の背中を呼び止めていた。
ピタリと止まった、後ろ姿。
数秒の間を置いてもう一度振り返ったクロは、無言のまま瞬きを繰り返している。
その顔は驚きを表していて、私を言い包めてばかりの彼には似合わない表情だった。


「まっ……また、明日!」


なんの台詞も用意していなかった私が口にしたのはほんの少しだけ先の約束で、自分からそんなことを言うなんて信じられなかったけど……。クロが夜に吸い込まれるんじゃないか、なんてバカげたことが脳裏を過ったせいで、明日の約束を取りつけたくなってしまったのだ。
別にどうでもいいと思っているはずなのに、立ち去る彼の手を掴みたくなったのはどうしてなのだろう。
自分自身の感情に戸惑った私は、いつものようになにも言えなくなってしまう。


だけど……。

「千帆」

次の瞬間に視界に飛び込んできたのは、とても嬉しそうな笑顔。
自然と零されたような笑みに、たしかに胸の奥が高鳴って、直後に鼓動がトクントクンと鳴り始めた。


「また明日」


優しく緩められたままの瞳に心を奪われそうになってハッとすると、クロはもう背中を向けて歩き出していた。
そんな彼の後ろ姿を見つめながら、自分の中のなにかが変わっていく気がしていた──。