「ねえ、紫藤」

昇降口を出たところ、入野に肩を叩かれた。

しかしかわいい顔をしていやがるなと思った。

恋愛感情の自覚だけでこれほど見え方が変わるものかと改めて笑いが込み上げる。

「……どうした」

「ちょっと……話しながら帰らない?」

「親父さんは?」

「いいの。言ったでしょう、いい感じで不穏な空気になりつつあるって。それが本格的になってきたから、わたしの帰宅が遅くても、むしろそれがいい働きをしそうなくらいなのよ」

「……そんなに悪い雰囲気なのか」

まあねと入野は苦笑した。

「でも、自分のわがままのためになっているわけだし、それなのに紫藤なんていう心強い味方がいるわけだから、わたしは一つも怖くない」

「……そうか」

かわいいなと言いたかったが、直前で飲み込んだ。

まだ早いと考えている。

入野には今も、確かに許婚の存在がある。

その中でおれが気持ちを告げ、入野が一瞬でも負の感情を抱く可能性があるのであれば、おれが自分の気持ちを伝えるなどということは決して今せねばならないことではない。

こんな私的な欲望を満たす暇があるならば、入野の幸福を念じることが先だ。

入野はもうだいぶ頑張った。

まだ願望を叶えるには至らないが、自身が会社と父親のために生まれ育ったのだと思い込んでいたときを思えば、もう充分であるようにも思える。

まるで、それまで小さなかごの中にいた小鳥が自力でそのかごを破り、外の世界へ飛んだようなものだ。