おばあちゃんが亡くなった。




もう、話すことも叶わない。


あと少しで顔を見ることも出来なくなるのだと……お通夜までの間、病院から一日だけ家に戻ってきたおばあちゃんの枕元に正座し、永遠の眠りについた安らかな顔を見つめる。


病気で入院してはいたけれど、就寝中に痛がることも苦しむこともなく迎えた最期だったのが救いだったと、両親や叔父叔母たちは言っていた。私も、そうなのかなと。


ただひとつだけ、どうしようもないことかもしれないけれど、悔やむことはある。この家に早く戻ってきたがっていたおばあちゃんを、違うかたちでそうさせてあげたかった。


私はここよりもう少し暖かい地域に住んでいて、正直このような古い日本家屋には夏休みと冬休みしかいられないなというのがあるけれど、おばあちゃんにとっては、ずいぶん早くに先立ってしまったおじいちゃんと過ごした大切な空間だ。


愛しい場所なのだと、同じく愛しい愛しいと私の頭を撫でてくれながら、おばあちゃんは私にたくさんの思い出話を縁側でしてくれていた。





時刻は丑三つ時といったところだろうか。仏間には時計がなく、体感でしかないけれど。


そんなものもあてにはならないだろうな。泣き続けて、顔の表面だけでなく頭の中まで腫れ上がってしまったであろう私のそんな感覚なんて、本当、あてにはならない。


ふるりと身体が震えた。一月後半の古い日本家屋は、外気がどこかしこから入ってきていて、体感する風はないものの、身体は確実に冷えてくる。石油ストーブは続き間の部屋には置いてあるものの、おばあちゃんが眠る仏間にはない。膝の上に丸まっていたストールを肩に羽織った。


 
大人たちは、方々への連絡やら手配等に追われていて、忙しく動く足音がしたと思ったら、時には一斉に静まりかえる。台所でお茶でも飲んでひと休憩しているのかもしれない。
子どもたちは、とっくに夢の中だ。泣き疲れたりたり、遠方から急遽やって来た疲労に負けてしまった。みんな小学生以下だから、そうでなくとも眠らなければいけないけれど。


このような状況下において、大人と子どものどちらにも分類されにくい私は、とくにすることもない。さっきうたた寝をしたあとは目が冴えてしまい、おばあちゃんと一緒にいたいのもあってこうしてここにいる。誰かがそうしていなければいけないらしく、役を買って出た。
なので今、この仏間にはおばあちゃんと私のふたりきりだ。


厚着をしていても寒い。お通夜はタイツを履いてもいいものか。高校の制服のスカートは膝上丈だから。ああでも、斎場は空調が効いているか。
散々泣いて、うたた寝もしてしまった脳内は今は冷静で、そんなことをなんとなく考える。


ずっと悲しめない私は白状なのだろうか。大好きな大好きなおばあちゃんが亡くなってしまったというのに。


孫の中で唯一の女の子だった私は、おばあちゃんからいっとう可愛がられていたように思う。覚醒遺伝なのか、おばあちゃんに似ている容姿の特長が多くあり、それをとても嬉しがってくれていた。
おばあちゃんは若い頃とても綺麗だったのよ、だからあなたも軽薄な男には気を付けなさい――誇らしげに言うおばあちゃんに笑った幼い夏の日を思い出す。おじいちゃんを早くに亡くしたおばあちゃんにプロポーズしてくれた人のことを教えてくれたこともあった。誰にも秘密よ、と。
一年前、入院中のおばあちゃんを見舞うとそのときのとことを口にし、その秘密に加えてもうひとつ、おばあちゃんは私にその証を上乗せした。
それを、私に託しながら。


 
深く息を溜め、それを緩く丸めた指に向けて吐けば、じわりとそこに温もりが広がる。けれどそれは一瞬のことで。
もう一度、息を吐く。今度は広げた手のひらで口元を覆うようにもっていった。


「……っ」


いけない。
広げた手のひらから、一粒の小さな球体が転がり落ちる。気を付けていたのに。吐いた息の強さではなく、ものが軽すぎるのだ。


その球体は、私がおばあちゃんから秘密裏に譲り受けたものだった。
宝石のようでいて実はそうではないかもしれない球体。真珠のような大きさで見た目もとても似ている。乳白色のそれが時折虹色に光る様は、私にとってはどんな宝石よりも美しいものだった。


いつかあなたがあの人に会うことが出来たら返しておいてね――おばあちゃんから、そう言って託されたもの。


転がる球体を目で追っていくと、徐々にそのスピードは衰えていく。
そのうち部屋の角にぶつかって止まるだろう。でもその前に取りに行こう。万が一壊れてしまってはいけないから。
立ち上がろうとお尻を浮かせてよつん這いに近い体勢になった私の動きは、けれど、球体の転がる先にあったものに驚いて固まってしまう。


なんで? 


この部屋にはおばあちゃんと私しかいなかったはず。誰も来ていない。
それは確かなはずだった。
けれど、球体の転がる先には、誰かの爪先があったのだ。


男の人の、大きな足が、そこにはあった。爪先から視線は移動し、骨の線が綺麗に浮き出た甲が目に映る。 私は体勢はそのまま、顎を上げてその姿の全容を確認する。
そこには、藍色の着物と頭巾を身につけた、大きな男の人が立っていた。


 
「……座敷、わらし?」


「阿呆。……まあ、似て非なるものだ」


男の人は最初、私が自分の姿を認識出来ることに驚いていた。そうして次は、その外見に怯えないことに。
男の人の目の辺りは白い布に呪文のような文字が施されたもので隠されていて、それなりにこの世のものとは一線を画したものだった。頭巾や着物も相まり、異質さはより際立っていて。
驚きは、僅かな口元の開きでしか窺えなかったけれど。


何故私が、この身内でもない突然現れた男の人を怖がらなかったのかは分からない。
なんとなくではあるけれど、懐かしいなと受け入れてしまったのだ。現代にそぐわない召し物や風貌、目の辺りを覆う白い布、あやかしめいている全てが、読んだことのある伝記やなんやかんやと重なり、ノスタルジアを感じたのかもしれない。
座敷わらしなのかと訊ねたときの皮肉を含む声色の返事には、生物としての隔たりはあまり感じなかったけれど。
気さくな、人間ではないもの。


「別れを、しに」


そう呟き、その座敷わらしに似て非なる男の人は、おばあちゃんの枕元、私の隣にに腰を下ろした。
冷たくなったおばあちゃんの頬に大きな手のひらを触れされようとして――やめる。その行動に、自戒の念を感じた。


触れたいと、その気持ちが溢れて私にまで伝わってくる。けれど、触れないと決めているのか。
一度揺らいだ決心に耐え、おばあちゃんが亡くなったことに耐えているような……全身で泣いているようにしか思えない姿に、私はそっと、その背中を撫でた。


 
しばらくの時間をそうして過ごす。不思議なことにその間、家の中からは一切の音が消えた。静謐さに全身が軋む。まるで神様が、この男の人とおばあちゃんの別れをお膳立ててくれているかのよう。


私は――私だけが今この空間にいてはいけないような気持ちになり、そっと場を離れようとした。撫でていた広い背中から手を離す。


「大丈夫だ」


「っ」


「ここにいろ」


「……」


けれど、私はそうして男の人に引き留められてしまい、結局は元の場所から動かなかった。
引き留められる際、腕を掴まれた。私が痛がる素振りをしたのか、男の人はすまないと一言詫び、そうして私の頭をぽんとひと撫でしていく。


私には、触れるのか――。


隣合わせて座る私たちは、私が見上げて男の人が見下ろし、やっとお互いの顔を見ることが出来る。それほど長身で大きな男の人の表情は、結局白い布のせいで見えはしないけれど。
窺える口元は緩く笑み、なんだか切なくなった。


「帰るのはこちらのほうだ。……邪魔したな」


「っ、待って!」


今度は私が引き留めてしまう。立ちあがりかけた男の人の着物を縋るように掴み、膝を再度着かせようとする。
だって、まだ悲しんでいるのは明白だったから。ここに留まって解決するようなことではないかもしれないけれど、この人には、あと少ししかないおばあちゃんとの時間をもっと過ごしてほしいと思ったのだ。
この人は、おばあちゃんをとても大切に想う人。それがこの僅かな間にわかりすぎてしまったから。


縋るように引き留めてしまった際に、男の人の着物を少し乱れさせてしまった。頭巾も引っ張ってしまったようで、それが外れる。銀狼のような髪。目元を覆っていた白い布も一瞬揺れ、中の紅い瞳と目が合った。
素早く己の格好を整えた男の人に謝るも、けれど、それらを視認してしまって良かったと思った。


そうして私は、おばあちゃんとの約束事を、口にする。


 
「おばあちゃんはね、昔、それはそれは美人だったそうよ? もちろん今もそうだと思うけどね」


私の言葉に相槌もせず、男の人は肩で面白がる素振りをする。おばあちゃんを見つめ、同意の雰囲気を醸し出す。


「おじいちゃんがずいぶん早く亡くなって……とても苦労したって。子ども三人とおじいちゃんの両親との生活なんて、私の貧弱な想像でも大変だったと思う」


私に教えてくれたおばあちゃんは、文句の多い思い出話をしながら、幸せそうでもあったけれど。
働いて子育てと家のこともこなしての生活は、あっという間の何十年間だったと、おばあちゃんはこの家の縁側でけらけらと笑って話していた。


そうか、とひと言だけ、男の人は呟く。


「再婚の話も、もちろんあったみたい。昔って、今よりもシングルの存在に寛容でなかったんだよね」


再婚の話がご近所親戚等からもたらされたり、おばあちゃんをどこかで見初めて直接申し込んできた人もいたみたいだ。


聞いてはいるのだろう。けれど反応を示すふうでもなく隣に座るだけの男の人に、私は勝手におばあちゃんの昔を語る。


「でも、どの人とも、おばあちゃんは結婚をしなかった。再婚を否定するわけではないけれど、それに動ける心は、まだまだおじいちゃんで占められてた。断ったあとはもう、それらの人を思い出しもしなかった」


そんな、ひとりの人だけを愛し続けられるおばあちゃんに、私は幼い頃から今でも、ずっと憧れている。


たとえ、その気持ちが少しばかり揺れた瞬間があろうとも――。


「――でもね、ひとりだけ、ずっと、覚えている男の人が、いるんだって」


 
その逞しい肩が僅かに震えたような気がした。


「初めて会ったのは、誰も来ないはずの場所で泣いているのを見られたとき」


心が、どうにもならないときだってもちろんある。そんなときの避難場所、あまり人が足を踏み入れない林の奥。そこには背中を預けるのに心地いい、名前も知らない大きな木があった。


初めてそこを訪れたとき――もう何に泣いていたのかは忘れてしまったと、おばあちゃんは笑っていた――ひとしきりの咽びからすすり泣きへと変わりはじめた頃、蜜柑が上から降ってきた。


明らかに、もたれ掛かっている大木はその実が成るものではない。地面に落下する前に見事にそれを手の中に収めた。


「腹が減っているから辛気臭くもなるものだ」


食え。


ぶっきらぼうな声が蜜柑のあとに降りかかり、次に奇妙な格好をした男の人も降ってきた。


木の上のほうから飛び降りてきたらしい男の人は、まるで天から下りてきたかと見紛う、物語の登場人物のような衣装を纏っていた。旅芸人のお方かと問うてみれば、涙で崩れた顔のおばあちゃんの様子にその男の人は舌打ちしたらしい。
悲しい気持ちなど忘れ、失礼な態度をとってきた男の人に文句のひとつでも言ってやろうとしたおばあちゃんの手の中に男は、すでにあった蜜柑だけだなく数個同じものを落としていく。


「食え。腹が満たされればなんとでもなる」


食欲なんかあるはずもなくおばあちゃんは、怪しい人物から受け取ってしまった蜜柑を捨てることも出来ないまま、俯いた。
ああ、また泣いてしまいそうだと涙腺が緩みはじめたとき、ひとこと。


「そんなに辛いのなら連れていってやろうか――ここではないところへ」


「いっ、嫌ですっ」


勢いよく顔を上げ首を横に振ったおばあちゃんに、自分の誘いを断り満足だとでもいうように、男の人は口角を上げた。