「何をするの! この人たちは何も悪いことしていない」
ユキは救急隊員の手を振り払ってトイラとキースを守るように立ち向かった。
「すみません。あの、その、念のため、騒がれないようにと思いまして。罪を犯したとかそんなんじゃないんですよ。市民の安全のためにということで。ご理解を頂けたら」
警察は豹と狼だと思うと、何かに繋がずにはいられないようだった。
「別にそれで納得するのなら、俺は構わないぜ」
トイラが喋ると、警察官は少し帯びえを見せた。
「ご協力ありがとうございます」
お礼を言って手錠をはめる。ユキは納得がいかない。
「トイラとキースは何もしない。なぜ連れて行こうとするの。そんなのおかしい。彼らは何も関係ない」
ユキが暴れると、周りのもが必死に押さえつける。
それを見て、トイラは腹を立て、ユキを庇おうと立ち向かう。
「やめろ、トイラ」
キースが押さえ込むが、それは十分周りのものを怖がらせていた。
ユキは状況が不利になると思い大人しくなった。
「トイラ、ごめん」
トイラとキースは警察の車に乗せられてしまった。
この時、ふたりは大人しく、されるがままに従った。
豹や狼の姿になって変に抵抗したら、それこそ銃で撃たれるだろう。
ユキは狂ったようにトイラの名前を何度も叫び、トイラはユキの顔を苦しそうに見つめ返していた。
ユキは無理やり救急車に乗せられてドアを閉められた。
ユキの叫びが途中でと切れる。
そしてサイレンが鳴ると同時に救急車は走り去っていった。
1
運動場では学校中の生徒たちが、トイラとキースを乗せたパトカーを目で追っていた。
特に2年A組の生徒たちの表情は固く、悄然としていてどう受け止めていいのかわからない。
ミカは目に涙をためて、次第に小さくなって消えてくキースを乗せたパトカーをいつまでもいつまでも見ていた。
「キース、私の王子様が」
気分は悲劇のヒロインのように啜り泣くと、物語の全てが悲劇の幕を閉じて終わったと心引き裂かれていた。
ハンカチを手に握り締め、目頭をそっと押さえる。
上品なお姫様を演じるつもりが、我慢できないほどの悲しみが押し寄せ、わんわんと叫んで泣いていた。
仁は自分が犯してしまったことの重大さを、しっかりと受け止めていたつもりだが、身に火を放たれたような衝撃に落ち込みが激すぎて後味が悪くなる。
自分が手錠を掛けられて、警察に連れていかれた方が似つかわしかった。
運動場に集まっていた生徒たちが、先生の指示で教室に戻っていく。
その人の波にのまれて仁もトボトボと歩き出した。
時々、不安で意味もなく後ろを振り返る。
警察や消防車がここには用がないと次々に学校から出て行く。
全てが片付いたように見えても、仁の心の虚しさまでは拭えなかった。
──これでユキが助かるんだ。
仁は強く正当化しようとこの事件のメリットを重視する。
後はジークがちゃんと約束を守ってくれることを信じるのみだ。
しかしどこか不安がよぎる。
もしかして──、もしかしたら――。
突然それは心にひびを走らせた。そこからじわじわ漏れ出す疑心。
──ジークは本当に信用おける奴なのか。
もう一人の自分が問いかける。
なんとか約束を信じようと空を見上げた。
カラスが一羽、山の麓へ飛んでいくのが仁の視界に入った。
パトカーの後部座席でトイラとキースは顔を見合わせていた。
悪いことなど何もしてない。
ただ自分たちが異種なだけで捕らえられてしまった。
あまりにも理不尽すぎて、どうしようかあぐねていた。
トイラはキースに目で訴える。
──俺達どうなるんだ。
キースは手錠をかけられた自分の手を胸元に引き寄せ、わからないと肩をすくめていた。
「僕たちどうなるんですか」
キースが一応、前に居る警察官に聞いてみた。
「とりあえず、事情聴取ということで、あの、その、とにかく署まで来て下さい」
どう対処していいのかわからないのか、警察官もこの状況に混乱していた。
豹と狼に変身する人間を野放しにしていたら、住民の不安を買う。
身柄を拘束して、町の騒ぎが大きくならないようにするしかなかった。
「事情聴取で、どうして俺たちは、犯人扱いにならないといけないんだ。この手錠をはずしてくれ」
トイラは手錠がかけられた手を、警察官の座席越しに突き出した。
助手席に座っていた警察官は怯えてしまう。
運転していた警察官もびくっとして、一瞬車が道を外れた。
「トイラ、やめろ。ここは従うしかない」
手錠が繋がれている両手で、キースはトイラを後ろに引いた。
トイラは落ち着かない気持ちのまま、座席に深く腰掛け窓から景色を眺める。
「ユキは大丈夫だろうか」
トイラはぽつりと呟いた。
あの泣き叫んでいたユキの顔が忘れられない。
このまま引き裂かれて会えなくなるのではと思うと、しゅんと小さく縮こまった。
「ああ大丈夫さ。病院で念のために検査するんだろう。それよりも僕たちがどうなるかだ。正体がばれた今、放ってくれそうにもないな」
「まさか、火あぶりってことにはならないよな」
「ありえるかもな」
キースは前方の警察官二人の怯えぶりを見ていると、嫌な予感がする。
トイラは自分の言葉でこそこそと話し出した。
自分の言葉とは、人間にはわからない黒豹の言葉である。
「逃げるのはいつでもできる。まずはこのまま警察署に行って、様子を見るしかない。そしてユキになんとしてでも会わないと、この騒ぎを聞きつけて、またいつジークが襲ってくるかわからない」
「ユキも病院で検査を受けたあと、事情聴取で警察にやってくるはずだ。そのときチャンスを見計らって、ユキを連れて逃げよう」
「逃げるって、どこに逃げるんだ。家にはもう戻れないぞ」
「一か八かだ。ジークが居るあの森だ。あそこは僕達の森にリンクされて、今繋がっている」
「キース、それは危険だ。太陽の玉を持つジークに近づけば、ユキの胸のアザが大きくなってしまう。もし満月になってしまったら、俺まだユキを助ける方法がわからない」
「しかし、ここにはもう居られない。危険な賭けだが、僕達の森に帰るしか道はない」
ガラスの破片がばら撒かれた道を素足で踏むようなものだとトイラは思った。
そんな危険な道しか残されていないことに、車の後部座席で目を瞑り頭をうなだれた。
ユキの胸の月の玉がそれまでもってくれるか、そしてジークに見つからず自分の森に帰れるか、無謀な賭けだった。
突然思うようにいかない怒りがこみ上げる。
心の底からの震えが手先にまで振動した。
「くそっ!」
このとき、人間の耳には豹の咆哮として届いた。
前方に居た警察官二人は、悲鳴をあげて震え上がっていた。
ユキは病院で検査を受けさせられた。
泣き疲れ声までがらがらになり、ぐったりと骨が砕けきったように体がだらりとしていた。
誰の目にも重度の病人と映っていたことだろう。
実際は、トイラが庇ってくれたお陰で、体には何も異常がなく擦り傷程度で済んだ。
普通なら足の一つや二つ骨折していてもおかしくない状況だった。
または命を落としていたか――。
病院の書類の手続きが完了するまで、廊下の長いすに座り、ユキは待たされた。
警察官二人に付き添われ、この後事情聴取で警察署に行くと聞かされた。
その時トイラとキースに会えると思うと、幾分落ち着いてくる。
しかし、警察がとった行動がどうしても許せない。
煮えたぎる感情がふつふつと胸の中でまたぶり返してきた。
「ねえ、おまわりさん、トイラとキースをどうするつもりなの? 何も悪いことしてないのに、どうして手錠なんかかけちゃったの」
警察官も前代未聞の出来事に何をどう答えていいのかわからず、苦笑いするだけだった。
ユキはプイっと駄々をこねる子供のように首をふった。
力を入れすぎて首の筋が変になったかと思ったが、それは首の痛みじゃないことに気がついた。胸がキリキリと痛み出していた。
──嘘、ジークが近くにいる!? まさか
血の気がすーっと引いていく。
ドクンドクンと胸の鼓動が激しくなると同時に痛みも増してゆく。
ユキは辺りを見回した。
そして見てしまった。黒っぽいワードローブを纏った男が確かにそこに居た。
──あっ、どうしよう!どうしよう!
ハラハラと敵に狙われる恐怖感。
じわりじわりと追い詰められる。
絶体絶命──。
トイラもキースもここには居ない。
このままジークが近づけば、胸の痣は 完全に満月になってしまう。
トイラが命の玉を取る前に自分は死んでしまう──。
──嫌だ!このまま死んでしまうのは嫌だ!逃げなきゃ。なんとしでも逃げなきゃ。
ぶるぶると震えるユキに警察官は気がついた。
「どうしたんですか。気分が悪いんですか?」
「あの、ちょっとトイレに行きたいんですけど」
「ああ、トイレですか、それなら遠慮なくどうぞ行って下さい」
ユキは、震える足でゆっくり立った。
警察官にはこのとき、突然腹を下したとでも思ったことだろう。
そんなことなどどうでもいいと、ユキは逃げることで頭がいっぱいだった。
──来る、近づいて来る。
胸の痛みもどんどん強くなる。
──落ち着け、落ち着け、落ち着くんだ!
ジークがの動きが機敏になり、ユキめがけて駆け寄る。
ユキは無我夢中で走った。
廊下を歩いている患者や、看護師にぶつかりそうになりながら、必死で出口を探した。
「一体出口はどこなのよ」
廊下の角を曲がったが、病室のドアが見えるだけで外に続く出口がない。
──このままでは捕まってしまう。
ユキの焦りは沸点に達して、発狂しそうになっていた。
胸の痛みと、身も毛もよだつ恐怖心が体を容赦なく締め付ける。
咄嗟に近くの部屋に飛び込んだ。
そこは四人部屋だった。
一つだけカーテンが開いて、中のベッドで寝ている人と目が合った。
ユキはそんな視線もお構いなしに窓を見つけると一目散に走りより、窓を開けて飛び出した。
幸い一階だったので、なんとかジャンプできる高さだったが、降りたとき、足がジーンとした。
低木の茂みで、また擦り傷が増えた。
これだけ逃げてもまだ胸の痛みは消えない。
ジークがまだ近くにいる。
苦しい、痛い、怖い、パニックで息もまともに出来ないほどユキは極限に追い詰められていた。
目の前は網のフェンスで囲まれている。
病院の壁とフェンスの狭い空間を走っても病院の敷地内から一歩も出られない。
無我夢中でその フェンスに足をかけ、よじ登って反対側へ移動した。
フェンスを超えると一目散に走って逃げた。
どれだけ走っただろう。
胸の痛みは消えていたが、息があがって苦しい。
ジークから離れてほっとしたが、これからどこへ行けばいいのかがわからない。
途方に暮れていると、見慣れた景色が現れた。
「あっ、ここ、仁の家の近くだ」
ユキの足はそう思うや否や、仁のマンションに向かっていた。
2
仁の家のドアの前で、ドアベルを押す手に迷いが生じる。
ぐっと右手に力を入れては震えるように人差し指を伸ばし、目を瞑った瞬間に勢いつけてドアベルを押した。
中でパタパタとスリッパで小走りする音が聞こえ、そしてドアが開いた。
「あら、ユキちゃんじゃないの」
仁の母親は口に手をあてていた。
「おばさん」
ユキは太陽のような優しい仁の母親の温もりを期待する。
すがるような目で助けを求めていた。
大粒の涙がこぼれ、その場で泣き崩れてしまうと、仁の母親は優しく肩を抱いて家の中へ迎えてくれた。
ユキを居間のソファーに座わらせ、目線をユキの高さまで合わせると、温かい日差しのような笑顔を降り注いだ。
ユキは涙を撒き散らしながら、スカートの端をぎゅっと握りしめる。
「おばさん、突然ごめんなさい。でも行くところがなくて、どうしても怖くてここに来ちゃったの」
「いいのよ、ユキちゃん。それに今日大変なことがあったでしょ。テレビで観たわ」
「おばさん、やっぱり知ってるんだ。私なんかここに来たら迷惑ですね」
ユキはこみ上げてくる悲しみをむせながらひっくひっくと肩を震わしていた。
「ううん、いいのよ。頼ってくれて嬉しいくらいよ。それにユキちゃん怖い思いしたんでしょ。とにかくゆっくりして落ち着きましょう」
突然ユキのお腹が『ぐーっ』となった。
時計ではもう昼をとっくに回っていた。
「ユキちゃん、お昼ご飯まだね。今、なんか作ってあげるからね」
ユキはただ泣いていた。こんなときにでもお腹が空く自分が恥ずかしい。
めまぐるしく命がけの危険な目にあい、自分の心は秩序がないくらい無茶苦茶になっていた。
何をどう考えていいのか完全に混乱していた。
ジークに追われる怖さと、トイラとキースが捕まってしまった憤り、そして今自分は助けを求めて裏切った仁の家に来てしまったやるせない思い、これほど一度にいろんな感情を持ち合わせてしまうと、水の中でおぼれているかのように苦しかった。
キッチンから何かいい匂いがしてくる。
またユキのお腹がグーとなってしまった。
こんなときでもお腹は空き、自分が情けなくなる感情も更に追加してしまった。
ユキが病院で姿を消すと、警察官二人は慌てていた。
すぐに署に連絡を取っていた。
警察官が病院内でユキのことを尋ねると、制服を着た女の子が部屋に入って窓から出て行ったという証言を耳にする。
ユキは被害者なのに、なぜ逃げたのか警察官は首をかしげていた。
側にジークが聞き耳を立てて立っていた。
惜しいところで逃げられたことに悔しさが腹の底から湧き出る。
仁との約束など何一つ守ることなど、はなっからなかったのだ。
警察署の取調室では、トイラとキースが手錠をかけられたまま閉じ込められていた。
殺風景な空間に机と椅子があるだけの部屋。
窓は小さく鉄格子がつけられている。
逃げられそうにもなかった。
「あー、腹減った」
トイラは机を一蹴りした。
「おい、なんか食い物ないのか。腹減ったよ!」
「トイラ、落ち着け、あまり変な行動をするな。益々危険な存在と思われて、不利になるぞ」
「だけど、キース。俺達、豹や狼に変身するだけで、何も悪いことしてねぇよ」
「だからそれが人間には驚異的なんだよ。もうそれだけでこの世界では罪なんだよ」
バタンと突然ドアが開き、トイラとキースは体を前かがみにして咄嗟に構えた。
コツコツと靴の音を立てて、警察官ともう一人眼鏡をかけた学者らしき風貌の男が入ってきた。
警察官は怯えていたが、眼鏡をかけた男は堂々として、トイラとキースを頭からつま先まで食い入るように観察していた。
眼鏡が冷たい光を放している。
「なんだよ、こいつ」
トイラが睨んだ。
その男の目つきはまともな人間の目つきに見えなかった。
「君達が、噂の豹と狼に変身する化け物なんだな」
眼鏡の男が言った。
「化け物とはなんだよ、失礼な」
トイラは腹も減り、頭に血が上りやすくなっていた。
威嚇体制で歯をむき出しにする。
キースは止めろとトイラの前に立った。
「失礼ですが、あなたは誰ですか」
キースが質問した。