私はいつの間にか色々な最後を考えることが癖になってた。
ここに来るのは最後かもしれない。
この洋服を着るのは最後かもしれない。
こんな風に綺麗だと思うのは最後かもしれない。
きみと会うのは、最後かもしれない。
そうやって、いくつもの終わりを数えてた。
でも、この光を見て、それはやめようと。
これからは始まりの朝を数えよう。
私がいなくなった世界でも、大切な人たちを照らしてくれるように。
「私、佐原がいたから、こんなに暖かい気持ちを知ることができた。佐原がいたから、自分のことを大切に思えた。私を受け入れてくれてありがとう。私を諦めないでいてくれてありがとう。私を好きになってくれてありがとう」
何万回言ったって足りないくらい、佐原にはありがとうしかない。
「俺のほうこそ、海月と一緒にいられて、こうして今も隣にいてくれてありがとう。好きだよ。この先も、ずっとずっと」
佐原の瞳から涙が溢れて、次に拭ったのは私のほう。
「私、佐原に出逢えて幸せだよ」
「俺も海月に会えて幸せだったよ」
私たちは優しい朝に迎えられて、暖かなキスを交わした。
そして、三か月しか生きられないと言われた私が一か月も長く息をした二月の中旬。
今まで頑張ってくれていた心臓が、静かに動きを止めようとしていた。
「……海月っ!」
ベッドの周りには晴江さんや忠彦さん。美波に三鶴くん。私の一番近くには佐原が駆け付けてくれていた。
みんなから交互に呼ばれる名前が、遠くに聞こえてくる。
もうすでに全身の感覚がないというのに、手だけは強く握られているのが分かって、この温もりは間違いなく佐原のもの。
「海月」
佐原はやっぱり泣いていたけれど、叫んだり取り乱したりはせずに、ただじっと私のことを見つめてくれていた。
視界が、ぼんやりとしてる。
でも、私はみんなの顔を確かめるように視線を向けたあと、佐原に向かって精いっぱいの笑顔を見せる。
それに応えるように、佐原も泣きながら笑った。
私は私がいなくなったあとの世界を、知ることはできないけれど、佐原ならきっと見せてくれる。
楽しいことも嬉しいことも、満ち溢れた未来を、きみはまっすぐに歩いてくれるだろう。
もう声が出ない。けれど、握っている手から私の気持ちは伝わっているはず。
ねえ、佐原。
ゆっくり、ゆっくりと大人になっていってね。
これからたくさんの人に出逢って、たくさんの人に囲まれて、幸せに過ごしてほしい。
だから、早く会いに来たりしたらダメだよ。
いつかきみの隣で、きみの生きた時間の話をたくさん聞かせてほしい。その日が訪れるまで、長く長く待つから、いっぱい笑って、佐原らしく生きてね。
それが、私の最後の願い。
「海月、ありがとう。またな」
佐原の優しい涙が、私の頬に落ちた瞬間――。
私の16年間の命の炎は、後悔をひとつも残すことなく、静かに消えた。
*
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――桜が舞う春。俺は高校二年生になっていた。
海月が穏やかな顔で天国へと旅立ってから二カ月。春休みが明けて新学年を迎えクラス替えが行われたけれど、あまり顔ぶれに変化はない。
「佐原、おはよう」
沢木とも引き続き同じクラスになった。
「ほらほら、席に着きなさい!」
唯一、変わったことがあるとしたら担任が女の先生になったことぐらい。
あんなに空っ風が吹いていたグラウンドも太陽の日射しを浴びて、中庭には色とりどりの花が咲いている。俺はそんな春の景色を、机に頬杖をつきながら窓際の席で眺めた。
海月はもう、この世界にはいない。
寂しさは時間とともに和らいでいくかもしれない。
でも会いたいと恋しく思う気持ちは、きっとこれからも消えることはないと思う。
「ねえ、悠真。今度の週末に親睦会あるらしいんだけど行く?」
「駅前のカラオケだよ。たまにはみんなで遊びにいこうよ」
付き合いが悪くなった俺と距離を置いていたヤツらがまた机に集まってくる。沢木は誘われてないのに行く気満々だし、こういう騒がしい環境もあまり去年とは変わってない。
海月が病気と戦っていたことを知る人は少ない。
二年生になり海月が学校にいなくても気づかない生徒たちはたくさんいるし、中には『冬休み中に転校したらしい』とありもしない噂を流してる人もいる。
でも、それでいいのだと思う。
『大切な人たちの心にいられれば十分』
海月なら、そう言うと思うから。
「兄ちゃん」
学校終わりの帰り道。俺がとぼとぼと歩いていると真新しい制服を着た弟が後ろにいた。
相変わらずゲームばっかりやってるけど、男として危機感を覚えるぐらい最近の三鶴は成長が凄まじい。身長も一気に三センチぐらい伸びてるし、制服だってこうして様になっている。
「つか、今さらだけど、なんでお前うちの高校にしたわけ?」
実は三鶴は新一年生として俺と同じ高校に入学した。
受験勉強なんてまともにしてる素振りはなかったけれど、焦ってやらなくても偏差値の高い学校をいくらでも選べるぐらいの頭脳は持っていた。
なのに、三鶴は知らない間にうちの高校を第一希望にしていて、推薦入試であっさりと合格した。
「うーん。兄ちゃんと岸さんが一緒に過ごした学校を見てみたかったからかな」
三鶴はあまり感情的になることはないけど、海月の死を俺と同じように悲しんでくれていた。
考えてみれば俺と海月が接点を持つ前からふたりは知り合いだったし、三鶴にとっても海月は大切な人だったのだろうと思う。
「ちょっと、男ふたりが並んで歩いてると邪魔なんだけど」
ぶっきらぼうな声が飛んできたと思えば、そこには岸は岸でも美波が不機嫌そうにこっちを見ていた。
自分のクラスが書かれた一覧表を確認した時、真っ先に目に入った名前が岸美波だった。
どういうイタズラか岸とも同じクラスになったけれど、一緒にいるグループが違うので教室では絡むことはあまりない。でもこうして用があれば普通に話すし、俺が声をかけても無視したりはしなくなった。
「っていうか、沢木くんしつこいんだけど」
岸と同じクラスになれて一番喜んでいたのは沢木かもしれない。どうやら岸のことをまだ諦めていないらしい。
以前の岸は男に媚びばかりを売っていたイメージがあったけど、そういう猫被りは止めにしたようだ。
前のほうが良かったとガッカリしてるヤツもいれば、沢木みたいにぶれずに追いかけてるヤツもいて。岸はしつこい男たちをあしらいながら、刺々しい性格を隠すことなく学校生活を送っている。
「美波さんって、いい匂いしますよね」
三鶴は海月の見舞いに何回か行っているうちに岸とも顔見知りになり、いつの間にか美波さん、なんて呼ぶようになっていた。
もちろん病院に通うにつれて、海月の家庭事情もなんとなく察していたようで、海月と岸の関係も知っている。
「なにこの、純粋な生き物は」
岸は濁りのない三鶴の瞳が苦手のようだ。
「それに岸さんに似て美人です」
「それを言うなら海月が私に似てる、でしょ」
「どっちにしても綺麗な顔してます」
「……っ。ちょっと、佐原くん!この生まれたてみたいなあんたの弟をなんとかしてよ!」
三鶴にペースを乱されてる岸がなんだか新鮮で。変わっていないことが多いように思える日常も、海月のおかげでやっぱり色々なことがいい方向に変わっている。
痛みや悲しみを共に知る者。海月は俺たちに強さも弱さも教えてくれた。
自分の病気と懸命に戦い、家族という今まで逃げてきたことにも向き合い、海月の最後の顔は笑顔だった。
さよならは言いたくなかった。
だから、またなって、次の約束をした。
きっと、海月にその言葉は届いてた。想いを返すように、俺が握りしめていた手に力を込めてくれたのが分かったから。
「お腹すいたからなにか食べにいかない?」
海月を探すように空を見上げていた俺に気づいたのだろう。そう言って歩き出したのは、岸だった。
「あ、じゃあ、俺のバイト先に行きましょう!めちゃくちゃ旨いですよ」
「うん。行く行く」
勝手に話を進めて三鶴も俺を追い抜くように歩く。
「いや、俺、蕎麦食えねーし」
三鶴は今でも海月が働いていた店でバイトをしていた。
年齢を偽らずに堂々とできるようになったからなのか、俺以上にバイト三昧だけど、ゲームをしてる時よりも三鶴は生き生きしてるような気がする。
「蕎麦以外にも天ぷらとかあるから大丈夫だよ。それに店で一番人気のメニュー見てみたいでしょ?」
「なに?」
「満月蕎麦」
その瞬間。柔らかい風が俺の横を通りすぎていった。
――〝私は自分が生きた証を残したいって、今はそう思うんだ〟
いつか海月が言っていたことを思い出す。
大丈夫。ちゃんと残ってるよ。
残っていくよ、俺たちの心にもずっと。
俺は海月と何度も歩いた道を、ゆっくりと歩く。
海月のいない世界はやっぱりすごく寂しいけれど、それ以上にきみからもらった愛しさが溢れるほどある。
すれ違ったこともあった。喧嘩したことも、きみの心が分からない日もあった。
夜が長かった。朝が遠かった。
でも今は新しい今日を迎えるたびに、海月が背中を押してくれる。
海月は俺との思い出をひとつ残らず抱えて持っていった。
だから俺はこれからもたくさんの思い出を作っていこうと思ってる。
いつか俺も抱えきれないくらいの話を持って、海月に会いにいくから。
海月のぶんまで俺は、果てしない未来を生きるから。
海月はのんびりと、光ある場所で待ってて。
《あの頃、きみといくつもの朝を数えた。》
END