握りしめたペンをそっと机に置き、佐々木こころは結んだ両手を高く天に突き上げて背筋を伸ばした。

「やっと終わったー。今回は締め切りギリギリだった!」

 亮と再会の約束を交わしてから五年、二十三歳となったこころは新人漫画家として活躍していた。もっとも、本人は約束のことなど覚えてもいないが。
 こころはすぐにポケットからスマートフォンを取り出し、ある人物に電話をかける。

「もしもし、彩月? こころだよ。今原稿終わったの。後でそっちに行ってもいい? うん、うん、わかった! じゃあ二時間後ね!」

 約束を取り付け、こころは静かにスマートフォンを置いた。
 電話の相手は九条彩月。かつてこころと仲違いした不登校の女性だ。
 亮と別れ、意識を取り戻したこころは退院後、彼女の家に強引に押しかけて玄関先で強烈な土下座をかましたのだ。
 酷いことを言ってごめん、ずっと謝りたかった。何度もそう繰り返すこころ。
 それを受け、彩月もまた、こころに対し深く詫びた。
 彼女も、悔いていたのだ。
 紛れもない親友に手を差し伸べられていたのにもかかわらず、その手を握らなかったことを。
 彩月は自身に起きた悲劇――両親の死というトラウマを打ち明け、仲直りを受け入れた。
 以来、二人は何よりも強い絆で結ばれた親友以上の友人になっていた。

「約束まで時間あるなー、ちょっとお散歩してこよっと!」

 ひと仕事終えた解放感からか、こころは年甲斐もなく軽やかなスキップで家を出る。そのはしゃぎぶりは、近所の住民に見られでもしたら羞恥心で倒れてしまうほど盛大なものだった。
 家を出て少し歩けば、そこは大きなビルが立ち並ぶ都会だった。出版社が近いからというだけの理由で、こころはこの街に居を移したのだ。
 あまりの人の多さに初めは戸惑いもしたこころだったが、住めば都という言葉があるように、慣れてみれば不自由はなかった。
 約束まで時間を持て余したこころの視界に、ふと真っ白い塊が飛び込んでくる。

「猫だ!」

 街の中心に位置する大きな交差点。そのさらにど真ん中で、白線に擬態でもしているかのような白猫を見つけ、こころのテンションは急激に上昇する。
 道行く人々は大声を発したこころを訝しげな瞳で見つめ、白猫もまた、じっとこころを直視していた。

「ついて行ってみよう」

 向かい側から押し寄せる人の波を慣れた様子でかわしながら、白猫の後を追う。
 先導する白猫は迷う様子もなく街を歩き、時折こころが付いてきているか確認するかのように振り返る。
 歩くこと五分。白猫は一件の店の前で脚を止めた。

「お、アニメショップだ」

 そこはかつて、こころと亮が訪れた店。

「暇だし覗いてみよっかな」

 店内に入り、自身の漫画が置かれていることにちょっとした優越感を覚えながら、こころは上機嫌で店中を徘徊する。
 漫画コーナーを抜け、フィギアやCDをひとしきり見た後、こころはとあるコーナーで立ち止まった。

「へー……トーンとかも売ってるんだ」

 それは、トーンやベタ塗りなどの作業はすべてパソコンで行うこころにとっては非常に新鮮なものだった。
 ゆっくりと棚に近づき、スクリーントーンを一枚手に取る。
 色々な柄があるものだと思い、興味深く眺めるこころ。
 その時だった。

「あの、買いたいんですけど、どいてくれませんか」

 こころの背後から、不愛想な声がかかる。

「あ、ごめんなさい」

 慌ててトーンを棚に戻し、場所を譲る。
 声をかけた青年はこころを一瞥し、小さくお辞儀をするとおもむろにトーンを漁り始めた。
 こころは、その青年に見惚れていた。
 端正な顔立ちに、長く伸びた脚はモデルを思わせる。
 しかし、そんな容姿の美しさ以上に不思議と心惹かれる何かがあった。

「あの、漫画描くの好きなんですか?」

 何を思ったのか、気が付いた時、こころはそんなことを尋ねていた。
 青年は棚を漁る手を止め、こころに向き直る。

「えぇ。一応漫画家ですから」

 青年は淡々と抑揚のない声で喋る。

「本当ですか!? 実は私もそうなんです! よかったらペンネームを教えていただけませんか?」

 こころの問いかけに対し、青年は若干面倒くさそうに頭を掻いたあと、小さく、そして短く呟く。

「石丸亮」

 ***

 二人のやり取りを、白猫は遠くから眺めていた。
 踵を返し、店を出てから、白猫は呆れたように鼻を鳴らす。

「やれやれ。本当は再会できない運命なのにね。あんな約束をされたら会わせたくなっちゃうじゃん」

 漫画家になって再会する。
 そんな約束が叶うほど世界が甘くないことを白猫は知っている。
 記憶のない彼らは、再会できないことを嘆くことさえ許されない。
 勇気を与えてくれた存在がこの世界にいるとも知らずに、夢を与えてくれた存在がいるとも知らずに、彼らはこの世界を生きるのだ。
 白猫には、それがどうにも納得いかなかった。こころの前に姿を現し、彼女を導いたのはそんな理由からだった。

「あーあ、また神様に怒られちゃうんだろうなぁ。いつになったら出世できることやら」

 ため息交じりに愚痴をこぼし、しかしどこか満ち足りたような表情で、白猫は都会の雑踏に溶け込んでいった。