公園の入口を抜け、狭い園内を見渡す。
 そして、公園の奥――以前私たちが話をしたベンチに、亮くんは座っていた。
 証明に淡く照らされるその姿はどことなく寂しそうに見える。

「亮くん!」

 すぐに駆け寄り、息を整える。
 猫ちゃんはどこかに隠れたのか、姿が見えない。けれど、どこからか私たちのことを見ているのだろう。

「何で来たの」

 亮くんはぶつけるように不機嫌そうな言葉を吐く。

「そりゃあ来るよ……。まだ、話さなきゃいけないことがあるから」

「何を話すっていうの」

 訝しげに、不信な眼差しを向けてくる。その態度は初めて会った時と同じものだった。
 亮くんは、私が体に戻るために嫌々手助けをしていたと思っているのだろう。勘違いするのも当然だ。普通は魂だけになったら戻りたいと思うのだから。
 実際最初は焦ったしすぐに戻りたいと思った。
 彩月との一件もあって、引け目を感じてもいた。
 でも、亮くんと関わるうちに、私は自分の体など関係なく彼を応援したいと思うようになった。
 だから、私は決して自分のためにこの子に手を差し出したわけではない。

「亮くん聞いて。私は体に戻るために励ましていたわけじゃないの。本当に心の底から亮くんを助けたいって思ってたの」

「今更そんなこと言われても信じられない。だって普通は――」

「亮くん!」

 最後まで聞きもせず、強く、彼の名前を呼ぶ。
 さっきは私が言葉を遮られたのだから、今度は私の番だ。
 今にも落ちそうになる瞼を必死でこじ開けつつ、私は大きく大きく、今までにないほど深く息を吸った。たった一言、何よりも伝えたい気持ちを言うためだけに。

「好き」

 たった二文字の言葉。口に出せば一秒にも満たないほど短い言葉。
 けれど、その言葉が持つ意味は決して一秒では言い表せない。

「私は亮くんが好き。だから、助けたいって言葉は嘘じゃない」

 恐らく、何を言っても言い訳と思われてしまう。
 さっきまでの私はそう考えていた。でも、きっとこの言葉だけは真っすぐに伝わってくれるはずだ。根拠があるわけではないけれど。

「な……急に何を……」

 亮くんは目を丸めて驚いている。その表情にさっきまでの棘はない。

「最初は体に戻りたいとも思っていたんだけどね、でも気が付いたらそんなこと忘れちゃってた。なんでかわかる?」

「……わからない」

「亮くんが私を救ってくれたからだよ」

 その時もちょうど、この公園だった。だからハッキリと思い出せる。
 ずっと自分なんてちっぽけで、どうしようもなく恥ずかしいと思っていた私を、亮くんは悪くないと言って認めてくれた。
 あの時、私がどれだけ嬉しくて、どれほど救われたか。きっと心が読める猫ちゃんでさえわからないと思う。
 気が付いたら、あっという間に好きになっていたのだ。
 それだけじゃない。

「それに、亮くんは私に夢を思い出させてくれた」

 家族のことで悩んで、ずっと苦しんでいたのに、それでも夢に向かって突き進む亮くんの姿は、私に多くの勇気を与えてくれた。
 私は亮くんを救うという立場にありながら、逆に救われていたんだ。

「亮くんのおかげでね、私ももう一度漫画家を目指そうって思えたの。だから私は本当に感謝しているし、心の底から亮くんを救いたいと思ったの」

 我ながら滅茶苦茶だと思う。
 突然好きと言ったかと思えば、救われたとか夢を思い出させてくれたとか、そんなことを口走ってしまった。本当に支離滅裂だ。
 でも嘘は言ってない。眠たくて頭も回っていないけれど、回っていないからこそ思ったことをそのまま口にできる。
 私の言葉を受け、亮くんはしばらく黙り込む。
 その間、耐えがたい睡魔に襲われたけれど、それでも私はじっと待ち続けた。
 そして、

「……わかった。信じるよ。疑ってごめん」

「私の方こそ勘違いさせるような言い方してごめんね」

 ……よかった。誤解は解けたみたいだ。
 でももう時間はない。
 誤解が解けたことにいつまでも浸ってはいられないのだ。
 いよいよもって、限界がすぐそこまで差し迫っている。
 私たちは選ばなくてはいけない。記憶が消えるかどうか、その究極の二択を。
 今にも消えてしまいそうなこの意識を何とか保ち、私はこの子と話さなければならない。
 けれど、その前に、どうしても訊きたいことがある。

「ねぇ亮くん。私、役に立てたかな?」

 この眠気は、私が彼を救ったことの証明でもある。だから今の質問の答えは解りきっているし、時間が惜しい今この瞬間においては愚問でしかない。
 でも、どうしても、この子の口から聞いておきたかった。

「正直、最初は鬱陶しいと思った。しつこいしうるさかったから」

「うぐ……」

 耳に痛い言葉だ。

「でも、いてくれてよかった。君が……いや、こころちゃんがいてくれなかったら、僕は今頃ダメになっていたと思うから」

「…………そっか、よかった」

 ちゃんと役に立てていたんだ、私。
 想いは伝えた。半ば勢い余ってだったけど。でも、ちゃんと言えた。
 聞きたいことも聞けた。それどころか、また名前を呼んでもらえた。
 悔いはない。あとは、最後に二人で選ぶだけだ。

「亮くん、あのね」

「待って、まだ全部言ってない」

「え?」

 全部って、他にもまだあるの?
 すっかり怒りの色が抜けた亮くんを見ると、今度は耳まで真っ赤にして俯いていた。
 そして私の同じように大きく大きく息を吸って、

「僕も、好き」

 大きな声で、はっきりそう言った。
 一瞬、思考が止まる。
 そして、跳ねるような心臓の音とともに一度は引いた波が押し寄せるように意識がクリアになる。眠気など微塵も感じないほどに。
 止まった思考が動き出し、亮くんの言葉を理解した途端全身が熱くなる。

「ま、まさかの両想い……!」

「恥ずかしいからあんまり言わないで」

 照れ臭そうに言いつつ、亮くんは優しく微笑んだ。
 救ってもらって、夢をもらって、その上好きとまで言ってもらえなんて思ってもいなかった。
 嬉しくてつい頬が緩んでしまう。

「それで、さっき言いかけてたことって何?」

 ……そうだった。
 その一言で、鮮明になった私の意識は否が応にも最後の選択を思い出す。
 嬉しさのあまり眠気とともにそれさえ失念しかけていた。

「亮くん、聞いて」

 そう言って、私は猫ちゃんに言われた通りに記憶のことを話す。
 体に戻ればお互いに関する記憶はなくなる。
 記憶を保持する方法もあるけど、二度と会うことはできなくなる。
 それらを全て説明した。

「……それで一晩悩んでたの?」

「うん」

「バカみたい」

「ば、ばかって……」

 ひどい。私は真面目に考えていたというのに。

「じゃあ亮くんはどうすればいいと思う?」

「そんなの記憶が消える方を選ぶに決まってる」

「どうして?」

「だって、また会えるじゃん」

 ……この子、ちゃんと私の説明聞いていたのかな。
 また会えるって簡単に言うけど、互いに関する記憶もなくて何も接点がない私たちがどうやって再会すると言うの。
 仮に出会えたとしても、すれ違う程度の出会いじゃ仲良くなることもないし。

「どうやって出会うの?」

「簡単だよ。だって、僕たち漫画家になるんでしょ?」

「そうだけど……」

「なら、きっと会える。同じ夢を持って同じゴールに行きつけば、必ずそこで再会できるよ」

 ……私以上に支離滅裂だ。
 同じ出版社で本を出すとも限らないし、そもそも二人とも漫画家になれる保証なんてどこにもない。私は諦めないけど。
 亮くんらしくもない穴だらけの理屈。
 けれど……どうしてだろう。不思議と安心できてしまう自分がいる。
 この子となら、もう一度出会えるような気がする。

「不安じゃないの?」

「記憶が無くなるのは嫌だけど、不安はないよ。僕たちは既に一度出会っているんだから、きっとまた会える」

「……そっか、そうだよね」

 それを聞いて私も覚悟が決まった。
 必ず、亮くんと再会してみせる。
 決意した瞬間、頭上に重たい物がのしかかる。さっき街を走っている時にもあった感覚だ。
 頭上に手を伸ばして触ってみると、見事な毛並みを感じる。

「答えは決まったみたいだね」

「あっさりね」

 頭上からの声に苦笑しながら答える。
 一晩中考えても結論が出せなかったというに、亮くんはいとも簡単に決断してしまった。そういうところも、凄く好きだ。

「……なに一人で喋ってるの」

 亮くんは私を見つめ、不思議そうに首を傾げた。

「あ、言い忘れてた。ボクの姿はこの子には見えてないからね」

 このポンコツ猫ちゃんはどうしてこう、大事なことばかり言い忘れるの。亮くんに変人だと思われたらどうしてくれるというんだ。
 頭の中で文句を垂れつつ、私は亮くんに一歩近づく。
 答えを得て安心したせいか、再び睡魔が襲いかかってくる。今度こそ限界みたい。とはいえ、もう抗う気もなかった。

「それじゃあ亮くん、私もういくね。そろそろ眠くて倒れちゃいそう」

「うん、おやすみ」

 遠くの空から昇る朝日が私たちを優しく照らす。
 おやすみなんて言う時間ではないけれど、それがしっくりくる。

「ブランクがある分、私の方が後に漫画家になると思うけど、ちゃんと待っててね」

「わかった、待ってるよ。いつまでも、ずっと」

 そう言って笑う亮くんは、少しだけ泣いていた。
 やっぱりこの子は寂しがり屋さんだ。早く会いに行ってあげなきゃね。
 ああ、朝日が凄く暖かい。まるで旅立つ私を優しく包んでくれているようだ。
 悔いはない。
 亮くんを救い、私も夢を貰った。
 自信を持つこともできた。
 体に戻ったらもう一度彩月ともやり直そう。
 記憶はなくても、きっと私はそうするだろう。
 ……最後に、私は大きく息を吸う。
 そして、

「それじゃあまたね。大好きだよ、亮くん」

 そう言って、静かに目を閉じた。

 ***

 目を開けると、真っ白な天井が見えた。
 ゆっくりと身を起こして状況を確認する。
 腕に繋がれた管、頭に巻かれた包帯。判断材料はそれだけで十分だった。

「そっか、私車に轢かれたんだった」

 ちゃんと声が出るだろうかと思い、一人部屋の病室で呟く。
 何だろう、とても長い夢を見ていたような気がするのに、思い出せない。
 頭の中に靄がかかったような感じだ。
 でも、気分は晴れやかだった。
 私は床に置かれた鞄からスマートフォンを取り出す。よかった、壊れてないみたいだ。多少画面にヒビが入ってはいるけれど。
 電話アプリを起動し、発信ボタンを押す。

「もしもし、お母さん? うん私。こころだよ」

 電話で目を覚ましたことを伝えると、お母さんはすぐに病室まで来てくれた。

「こころ! よかった!」

 そう言って抱きついてくるお母さんを力強く抱き返し、心配をかけてしまったことを深く詫びる。

「それでね、お母さん」

 私は鞄から一枚の用紙とペンを取り出した。
 この晴れやかな胸の内側から湧いてくる想いを、迷いなくその用紙に刻み込む。
 そして書き終えたそれをお母さんに見せつけ、私は高らかに宣言する。

「私、漫画家になる!」