「ん……」
そんな声に反応して、私は咄嗟に時計を見やる。
時刻は三時過ぎ。概ね予想通りの時間だ。
「おはよ」
「ん、おはよう」
短いやり取り。
今はその僅かな会話さえ愛おしい。
さあ、話をしよう。全てを打ち明けて、二人で決断するんだ。
残された時間は長くて三時間程度。
眠気は既に結構強くなっていた。けれど、まだ耐えられるレベル。思考にも不自由はない。
「亮くん、ちょっといい?」
「なに?」
記憶のことを話さなくちゃ。
そのためにはまず嘘を謝らなくてはならない。
「実はね、隠していたことがあったの」
「うん、知ってる」
「えっ!?」
あれ? バレていたの……?
そういえば、ここに来た経緯を話した時に凄く疑われていたような。
ということは嘘だと気付いた上で知らないフリをしてくれていたってこと?
「あからさまに怪しかったから。いつ話してくれるんだろうって思ってた」
「あちゃー……ごめんね」
ちょっと驚いた。
でも都合がいいと言えば都合いい。一分一秒が惜しい今となってはその賢さが凄く頼りになるのだから。
「実は、私がここに来たのは神様の使いを自称する猫ちゃんに言われたからなの」
「……胡散くさい」
「本当だもん」
実際、同じことを言われたら私も同じ反応をする自信がある。
喋る猫とか神様の使いとか、普通の人からしたら怪しいにも程があるもの。
だからこそ、最初に会った時に言わなかったわけだし。
「まぁ信じるよ。続けて」
「それでね、猫ちゃんのおかげで亮くんにだけ私の姿が見えるようになったの。だから迷い込んだっていうのは嘘です……ごめんなさい」
言い訳はしない。
あの時は信じてもらうのに必死だったけど、嘘は嘘だもん。私が悪い。
「別にいいよ。どんな事情があれ、傍にいてくれたんだから」
「うん……ありがと」
なんていい子なんだ。初対面の時にクソガキって思ってごめんなさい。
思い返してみれば、あの時とは随分と態度が違う。
最初は何をしても「帰って」か「邪魔しないで」としか言わなかったのに、今では見守ってほしいとまで言われるようになった。
私がいつでも体に戻れるようになったのは亮くんを救ったからだし、きっと心の底から信じてくれているんだと思う。
そのせいで今は悩んでいるというのは少し皮肉な話ではあるけれど。
「それより、どうしてその神様の使いは僕にだけ見えるようにしたの? 僕たち知り合いでもないのに」
「えっとね、今だからこそ言えるんだけどね、亮くんが悩みを抱えているっていうのは元々知ってたの」
具体的な内容までは知らされてなかったけどね。
「それで、亮くんを救ったら体に戻してあげるって言われたの」
「…………は?」
瞬間、亮くんの拳に力が入る。
「なにそれ。聞いてないんだけど」
「隠しててごめんね。それで、もうすぐ体に戻――」
「そんなのどうでもいい!」
私の言葉を遮り、亮くんはベッドを乱暴に殴る。
普段声を荒げない亮くんが突然大声を出したものだから、思わずびくっとしてしまった。
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
私はたった今自分が言ったことを振り返り、そして気が付いた。
亮くんを救えば体に戻れる。その言い方じゃあまるで、体に戻るために偽善的に手を貸していたみたいじゃないか。
私は本気で亮くんを救いたいと思っていた。体に戻るなんて二の次。だからこそ今の言葉を無警戒に口にしてしまっていた。
時間がないこの状況で、とんでもない誤解を招く物言いをしてしまった。
おそるおそる、顔色を伺うように亮くんを見やる。
そして私は驚愕した。
拳を握りしめ、怒りを露わにしながら、亮くんは泣いていた。
「僕を救ったら体に戻る……? それじゃあ今までずっと、体に戻りたいがために僕を励ましていたってこと?」
思った通り、亮くんは私の言葉をそう捉えていた。
「ちが――」
「信じてたのに! 本気で、心の底から僕を助けようとしてくれていると思っていたのに……なのに……」
「違うの、私は本当に……」
本当に助けたかったんだよ。
そう言おうとしたけれど、涙を流す亮くんを前にすると、喉が詰まってしまう。
きっとこの子は、物凄く勇気を出して私に全てを打ち明けてくれたのだと思う。
信じてもいいのか疑心暗鬼になりながらも、私を信じてくれた。
それなのに、私が体に戻るために亮くんを利用していたと思われたのだから、この子が涙を流すのは必然だ。
体に戻ることなんてどうでもいいのだと、本当に救いたかったのだと、すぐにでも言わなければいけない。
けれど、何と弁明すればいいのかが全くわからない。
きっと何を言っても、言い訳にしか聞こえない。ただでさえ私は亮くんに隠し事をしていたのだから。
「……もういい。体に戻れるのならさっさと戻れば?」
怒りと悲しさが入り混じった声が、震えながら私の心を突き刺す。
亮くんはベッドから起き上がるとすぐに部屋を出ていく。
その姿を茫然と眺めていた私は、乱暴に閉められたドアの音ではっと我に返る。
「待って! 亮くん!」
呼びかけも虚しく、階段を下る足音だけが耳に入る。
私はすぐにドアノブを掴む。けれどドアはびくともしない。
「お願い! 待って! 亮くん……」
私はドアに縋り付き、涙を流した。
やがて玄関の扉が開く音が聞こえ、亮くんが外に出たのだと気付く。
けれど私にはどうすることもできなかった。
たった数センチの厚みしかないドアひとつ開けられず、無力に地に伏した。
どうしてすぐに弁明しなかったのだろう。
言い訳に聞こえるかもしれないなんて考えずに、正直に話すべきだった。
時間がないのだからとにかく話をするべきだった。
言葉を選んでいる余裕などないというのに。
後悔しているうちに、瞼が重くなってくる。
嫌だ。眠りたくない。こんなところで終わりたくない。
何度もドアを叩き、薄い扉を必死に開けようとする。
だけど、今の私にはこの扉をどうすることもできなかった。
……嫌。 こんな最後は絶対に嫌!
「もう、君は本当に困った子だね」
ふいに背後から声がかかる。
この状況で私に声をかける存在なんて猫ちゃんをおいて他にいない。
私は重たい瞼を気合いだけで大きく開く。
「猫ちゃんお願い! このドアを開けられるようにして!」
「言われなくてもそのつもりだよ。やれやれ、こんなの神様にバレたら怒られちゃうよ」
小言を唱えながら、猫ちゃんは私の頭の上に飛び乗ってくる。ついてくるらしい。
直後、私は直感的に扉を開けられるようになったのだと悟った。
私はすぐにドアを開け階段を降りる。
「ありがとう猫ちゃん!」
「乗りかかった船ってやつだよ。それに、君たちがどんな選択をするかボクも興味があるからね」
階段を駆けおりながらそんなことを話す。
神様の使いは私のような幽霊みたいな存在に必要以上に手を貸す行為は禁止されているらしい。あくまで本人の力で人助けをさせるのが目的なんだとか。
だから、今私に手を貸していることがバレたら神様に怒られてしまうそうだ。
もう悠長に構えていられる余裕はない。既に眠気は限界に近づきつつある。
ここで眠ってしまったら亮くんを傷つけたことさえ忘れて私はのうのうと生きることになってしまう。それだけは嫌だ。
玄関の扉を開け、肩で息をしながら全速力で街を駆ける。
眠気でふらつき、夜道で視界が悪いのも相まって何度も転んでしまう。
痛みでいくらか眠気が浅くなるけれど、立ち上がって走っているうちにまた眠くなり、転倒を繰り返す。
「亮くんがどこにいるかわからないの!?」
「わかるけど! そこまで干渉するとさすがにボクもまずいんだって! というかボクが教えなくても冷静に考えたらすぐわかるでしょ!」
「わかんないよ! 猫ちゃんのけち! 乗りかかった船とか言ってたくせに!」
冷静に考えたらわかるなんて言われても、こんな状況で冷静に考えられるわけがないでしょ! 眠いし!
「うるさい! いいから走って!」
「あーんもう! わかったよ!」
猫ちゃんに頭を叩かれながら走る。
手当たり次第に光のある場所――コンビニやファミレスを見て回る。
けれど、そのどこにも亮くんの姿は見当たらなかった。
やがて息もきれ、体力を失った私は立ち止まる。
眠気で怠けつつある意識に活を入れるために両手で自らの頬を叩いた。
「もう……わかんない……」
肩で息をしながら、頭上の猫ちゃんを地面に降ろす。重たい。
「あーもう! じれったいなぁ! わかったよ! ヒントだけあげるよ!」
「本当!?」
「これで神様に怒られたら一生恨むからね!」
「うん!」
さすが猫ちゃん、いざという時に頼りになる!
「彼が時々理由もなく訪れる場所、どーこだ!」
「公園!」
「正解!」
そうだ、公園だ!
確かこのすぐ近くだったはず!
答えを得た途端、私の脚は自然に動いていた。一分でも、一秒でも早くそこに辿りつくために、心よりも先に体が動いていたのだ。
「何で今まで思いつかなかったんだろう!」
「だから冷静に考えたらわかるって言ったじゃん!」
とんでもない正論をぶつけてくる猫ちゃんに心の中で感謝して、私は全力で走る。
もう時間がない。急がなくちゃ。
そんな声に反応して、私は咄嗟に時計を見やる。
時刻は三時過ぎ。概ね予想通りの時間だ。
「おはよ」
「ん、おはよう」
短いやり取り。
今はその僅かな会話さえ愛おしい。
さあ、話をしよう。全てを打ち明けて、二人で決断するんだ。
残された時間は長くて三時間程度。
眠気は既に結構強くなっていた。けれど、まだ耐えられるレベル。思考にも不自由はない。
「亮くん、ちょっといい?」
「なに?」
記憶のことを話さなくちゃ。
そのためにはまず嘘を謝らなくてはならない。
「実はね、隠していたことがあったの」
「うん、知ってる」
「えっ!?」
あれ? バレていたの……?
そういえば、ここに来た経緯を話した時に凄く疑われていたような。
ということは嘘だと気付いた上で知らないフリをしてくれていたってこと?
「あからさまに怪しかったから。いつ話してくれるんだろうって思ってた」
「あちゃー……ごめんね」
ちょっと驚いた。
でも都合がいいと言えば都合いい。一分一秒が惜しい今となってはその賢さが凄く頼りになるのだから。
「実は、私がここに来たのは神様の使いを自称する猫ちゃんに言われたからなの」
「……胡散くさい」
「本当だもん」
実際、同じことを言われたら私も同じ反応をする自信がある。
喋る猫とか神様の使いとか、普通の人からしたら怪しいにも程があるもの。
だからこそ、最初に会った時に言わなかったわけだし。
「まぁ信じるよ。続けて」
「それでね、猫ちゃんのおかげで亮くんにだけ私の姿が見えるようになったの。だから迷い込んだっていうのは嘘です……ごめんなさい」
言い訳はしない。
あの時は信じてもらうのに必死だったけど、嘘は嘘だもん。私が悪い。
「別にいいよ。どんな事情があれ、傍にいてくれたんだから」
「うん……ありがと」
なんていい子なんだ。初対面の時にクソガキって思ってごめんなさい。
思い返してみれば、あの時とは随分と態度が違う。
最初は何をしても「帰って」か「邪魔しないで」としか言わなかったのに、今では見守ってほしいとまで言われるようになった。
私がいつでも体に戻れるようになったのは亮くんを救ったからだし、きっと心の底から信じてくれているんだと思う。
そのせいで今は悩んでいるというのは少し皮肉な話ではあるけれど。
「それより、どうしてその神様の使いは僕にだけ見えるようにしたの? 僕たち知り合いでもないのに」
「えっとね、今だからこそ言えるんだけどね、亮くんが悩みを抱えているっていうのは元々知ってたの」
具体的な内容までは知らされてなかったけどね。
「それで、亮くんを救ったら体に戻してあげるって言われたの」
「…………は?」
瞬間、亮くんの拳に力が入る。
「なにそれ。聞いてないんだけど」
「隠しててごめんね。それで、もうすぐ体に戻――」
「そんなのどうでもいい!」
私の言葉を遮り、亮くんはベッドを乱暴に殴る。
普段声を荒げない亮くんが突然大声を出したものだから、思わずびくっとしてしまった。
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
私はたった今自分が言ったことを振り返り、そして気が付いた。
亮くんを救えば体に戻れる。その言い方じゃあまるで、体に戻るために偽善的に手を貸していたみたいじゃないか。
私は本気で亮くんを救いたいと思っていた。体に戻るなんて二の次。だからこそ今の言葉を無警戒に口にしてしまっていた。
時間がないこの状況で、とんでもない誤解を招く物言いをしてしまった。
おそるおそる、顔色を伺うように亮くんを見やる。
そして私は驚愕した。
拳を握りしめ、怒りを露わにしながら、亮くんは泣いていた。
「僕を救ったら体に戻る……? それじゃあ今までずっと、体に戻りたいがために僕を励ましていたってこと?」
思った通り、亮くんは私の言葉をそう捉えていた。
「ちが――」
「信じてたのに! 本気で、心の底から僕を助けようとしてくれていると思っていたのに……なのに……」
「違うの、私は本当に……」
本当に助けたかったんだよ。
そう言おうとしたけれど、涙を流す亮くんを前にすると、喉が詰まってしまう。
きっとこの子は、物凄く勇気を出して私に全てを打ち明けてくれたのだと思う。
信じてもいいのか疑心暗鬼になりながらも、私を信じてくれた。
それなのに、私が体に戻るために亮くんを利用していたと思われたのだから、この子が涙を流すのは必然だ。
体に戻ることなんてどうでもいいのだと、本当に救いたかったのだと、すぐにでも言わなければいけない。
けれど、何と弁明すればいいのかが全くわからない。
きっと何を言っても、言い訳にしか聞こえない。ただでさえ私は亮くんに隠し事をしていたのだから。
「……もういい。体に戻れるのならさっさと戻れば?」
怒りと悲しさが入り混じった声が、震えながら私の心を突き刺す。
亮くんはベッドから起き上がるとすぐに部屋を出ていく。
その姿を茫然と眺めていた私は、乱暴に閉められたドアの音ではっと我に返る。
「待って! 亮くん!」
呼びかけも虚しく、階段を下る足音だけが耳に入る。
私はすぐにドアノブを掴む。けれどドアはびくともしない。
「お願い! 待って! 亮くん……」
私はドアに縋り付き、涙を流した。
やがて玄関の扉が開く音が聞こえ、亮くんが外に出たのだと気付く。
けれど私にはどうすることもできなかった。
たった数センチの厚みしかないドアひとつ開けられず、無力に地に伏した。
どうしてすぐに弁明しなかったのだろう。
言い訳に聞こえるかもしれないなんて考えずに、正直に話すべきだった。
時間がないのだからとにかく話をするべきだった。
言葉を選んでいる余裕などないというのに。
後悔しているうちに、瞼が重くなってくる。
嫌だ。眠りたくない。こんなところで終わりたくない。
何度もドアを叩き、薄い扉を必死に開けようとする。
だけど、今の私にはこの扉をどうすることもできなかった。
……嫌。 こんな最後は絶対に嫌!
「もう、君は本当に困った子だね」
ふいに背後から声がかかる。
この状況で私に声をかける存在なんて猫ちゃんをおいて他にいない。
私は重たい瞼を気合いだけで大きく開く。
「猫ちゃんお願い! このドアを開けられるようにして!」
「言われなくてもそのつもりだよ。やれやれ、こんなの神様にバレたら怒られちゃうよ」
小言を唱えながら、猫ちゃんは私の頭の上に飛び乗ってくる。ついてくるらしい。
直後、私は直感的に扉を開けられるようになったのだと悟った。
私はすぐにドアを開け階段を降りる。
「ありがとう猫ちゃん!」
「乗りかかった船ってやつだよ。それに、君たちがどんな選択をするかボクも興味があるからね」
階段を駆けおりながらそんなことを話す。
神様の使いは私のような幽霊みたいな存在に必要以上に手を貸す行為は禁止されているらしい。あくまで本人の力で人助けをさせるのが目的なんだとか。
だから、今私に手を貸していることがバレたら神様に怒られてしまうそうだ。
もう悠長に構えていられる余裕はない。既に眠気は限界に近づきつつある。
ここで眠ってしまったら亮くんを傷つけたことさえ忘れて私はのうのうと生きることになってしまう。それだけは嫌だ。
玄関の扉を開け、肩で息をしながら全速力で街を駆ける。
眠気でふらつき、夜道で視界が悪いのも相まって何度も転んでしまう。
痛みでいくらか眠気が浅くなるけれど、立ち上がって走っているうちにまた眠くなり、転倒を繰り返す。
「亮くんがどこにいるかわからないの!?」
「わかるけど! そこまで干渉するとさすがにボクもまずいんだって! というかボクが教えなくても冷静に考えたらすぐわかるでしょ!」
「わかんないよ! 猫ちゃんのけち! 乗りかかった船とか言ってたくせに!」
冷静に考えたらわかるなんて言われても、こんな状況で冷静に考えられるわけがないでしょ! 眠いし!
「うるさい! いいから走って!」
「あーんもう! わかったよ!」
猫ちゃんに頭を叩かれながら走る。
手当たり次第に光のある場所――コンビニやファミレスを見て回る。
けれど、そのどこにも亮くんの姿は見当たらなかった。
やがて息もきれ、体力を失った私は立ち止まる。
眠気で怠けつつある意識に活を入れるために両手で自らの頬を叩いた。
「もう……わかんない……」
肩で息をしながら、頭上の猫ちゃんを地面に降ろす。重たい。
「あーもう! じれったいなぁ! わかったよ! ヒントだけあげるよ!」
「本当!?」
「これで神様に怒られたら一生恨むからね!」
「うん!」
さすが猫ちゃん、いざという時に頼りになる!
「彼が時々理由もなく訪れる場所、どーこだ!」
「公園!」
「正解!」
そうだ、公園だ!
確かこのすぐ近くだったはず!
答えを得た途端、私の脚は自然に動いていた。一分でも、一秒でも早くそこに辿りつくために、心よりも先に体が動いていたのだ。
「何で今まで思いつかなかったんだろう!」
「だから冷静に考えたらわかるって言ったじゃん!」
とんでもない正論をぶつけてくる猫ちゃんに心の中で感謝して、私は全力で走る。
もう時間がない。急がなくちゃ。