「おかえり」

 かすれた女性の声が、私たちを迎え入れる。涼子さんだ。

「ただいま」

 靴を脱ぐと、二階へ続く階段に一瞥すらくれず、亮くんは真っすぐリビングへと向かう。一息つく気は欠片もなく、今すぐ話を始めるつもりらしい。
 リビングの戸を開けると、既に亮くんのお父さんも帰宅していた。
 話には聞いていたけれど、この目で見るのは初めてだ。
 清潔に整えられた短髪に、人のよさそうな垂れ下がった目じりが特徴的な男性。こうして見てみると、とても酒乱だった人とは思えない。
 けれど、続いて部屋に入ってきた女性の強張った表情を見ると、それは私の勝手な印象に過ぎないのだと理解する。
 昔は夕飯時に家族そろって囲んでいただろう大きな食卓に着き、亮くんは入口付近にいる二人を見やる。
 その視線を受け、二人も席につく。涼平さんは亮くんの隣に、涼子さんは二人と向かい合うように。
 広々とした長方形の木机はあっという間に窮屈そうな印象に変わる。
 私は亮くんの隣に立ち、緊迫した雰囲気を肌で感じ取っていた。
 まるで全員が警察に取り調べでも受けているかのような、誰一人歯を見せない重い空気。

「最初に言っておくけど、私はもう別れる気だから」

 その空気を切り裂き、より重々しく言葉を紡いだのは、涼子さんだった。
 開口一番の拒絶。実の息子、そして夫に対して言うにはあまりにも無慈悲な一言。しかし、これまでの彼女の苦悩が見て取れる発言でもあった。不愛想な語り口はやはり亮くんに通じるものがある。
 紛れもなく血のつながった家族。それが今、断ち切られようとしている。
 もちろん、それを許す亮くんではない。

「どうして?」

 亮くんは極めて冷静に母の胸中を探る。

「もう疲れたの。亮だってわかるでしょ? その人はずっと私たちを放って、家をめちゃくちゃにしたんだよ」

 見た目の麗しさとは似ても似つかないしわがれた声で、はっきりとそう告げる。
 その言葉を受け、涼平さんはぎゅっと拳を握った。
 けれど口を開くことはなく、じっと自分の言葉を飲みこんでいるようだった。きっともう、何を話しても無駄だと思っているのだろう。既に離婚が成立しかけている現状から考えて、諦めたと見るのが妥当だ。
 それでもなお拳を握り、歯を食いしばるのは、諦めていながらももう一度やり直したいという後悔があるからに違いない。
 その様子を見ているといたたまれない気持ちになる。

「でも、お父さんだってもうお酒はやめてる。暴れることもなくなった」

 そんな涼平さんの意志をくみ取り、代わりに言葉として置き換えたのは亮くんだ。
 亮くんはなおも言葉を続ける。

「お父さんだって、病気と仕事のストレスがあったんだよ。だからといって僕たちを傷つけたことを水に流すつもりはないけど、それでも、お父さんが後悔しているというのなら耳を傾けてあげてもいいと思う」

 とても中学二年生の男の子とは思えないような冷静な口調で淡々と想いを告げる。
 ここまで理路整然と意見を主張できる中学生などそうはいない。それは亮くんが賢いからと言うよりも、すらすらと話せてしまうほどに頭の中で話す内容を考えていたからだろう。

「確かにもうお酒は飲んでないし暴れてもいない。でも、この人がやったことが消えたわけじゃないの。亮はもう一度耳を傾けてもいいと言っているけど、私は嫌」

「お母さんは、お父さんのこと嫌いなの?」

「嫌いになっていたらもうとっくに出て行ってるわ。でも、それとこれとは別の話。嫌いじゃないけど、もう信じられない。だから別れるの」

 なんだか、少しだけわかる気がする。
 嫌いじゃない、でも信じられない。そんな想いを抱いたことはないのだけど、信じられないというのはつまり、不安を感じているということだ。それだけは、他の誰よりも共感できる。私はずっと自分を信じられず、不安を感じていたのだから。
 私は思い出す。漫画家を諦めて、自分の無力さに絶望して、私には何もできないのだと全てを投げ出していた頃を。
 自分を信じることができず、将来に漠然とした不安を感じていた。形は違うけれど、何かを信じられないことがどれだけ不安なのかは痛いほどわかる。
 私でさえ理解できる感情を、ずっと同じ家で暮らしていた亮くんが理解できないはずはない。
 けれど、ふと垣間見えた亮くんの表情は、笑顔だった。

「嫌いじゃない……か。よかった、ちょっと安心した」

 重力が何倍にもなったような重苦しい空気の中で、亮くんだけはどこかほっとしたような、柔らかな表情だった。
 そして言葉を続ける。

「嫌いじゃないのなら、きっとやり直せるよ。信用できないのはわかる。また同じことが繰り返されたら……そう考えると僕だって不安になるよ。それが間違いとは思わない。でも、僕たち家族に限ってはそれじゃあダメだと思う」

「……じゃあどうしろっていうの」

 亮くんの言葉に思うところがあるのか、あるいは痛いところを突かれてムキになったのか、しわがれた声に力が入る。
 その問いかけに対する亮くんの答えは、とてもシンプルで、今まで亮くんが発したどんな言葉よりも明るく力強いものだった。

「勇気を出して踏み出すんだよ」

 不安だからこそ頑張る。怖いからこそ前に進む。亮くんが言いたいのはきっと、そんな単純なこと。
 怖がって立ち尽くしていても状況は改善しない。そんな誰にでもわかる簡単なことを、誰にでもわかるからこそハッキリと言う。

「それができないから悩むんでしょ……」

 誰にでもわかるし、誰にでも言える言葉。涼子さんだって自分が逃げているというのは自覚していたんだろう、すっかり疲れきった声色にはそんな苦悩が込められていた。
 怖くても勇気を出さなければ状況は進まない。一方、勇気を出したくても怖くて踏み出せない。二人の意見はそこで食い違っていた。
 私にはそのどちらの気持ちもわかるし、どちらの意見も正しいと思う。
 過去の私なら、涼子さんの肩を持っていたに違いない。
 自分の無力さ、そして夢や目標を持つことに対する恐怖。そんな黒い塊を胸に抱えて生きてきたのだから。
 けれど、亮くんはそんな私を受け止めてくれた。悪くないと言ってくれた。それどころか、感謝さえしてくれた。
 亮くんは怖くて動けなかった私を認めてくれたんだ。
 だから私は、怖くて踏み出せない人間が間違っているとは思わない。もし間違っていると思ってしまえば、それは亮くんが認めてくれた私自身を否定することになるから。
 涼子さんが言った「できないからこそ悩む」。それは決して間違いではない。
 しかし、私は知ってしまった。勇気を出した先にある温かさを。自分なんてダメだと思う心を亮くんが救ってくれたあの時の気持ちを。
 だから、涼子さんにもその温かさを知ってほしい。

「亮くん、頑張って」

 私が小さく呟いたのを聞いて、亮くんは意を決したように言う。

「僕、今日学校に行ったよ」

 そう言ってぎゅっと制服の胸を掴んだ。

「すっごく不安だった。道で同じ制服の人を見かけるたびに心臓が張り裂けそうになったよ。怖くて怖くて、教室に入るのさえ苦痛だった」

「亮……」

「でも、頑張ったよ。このままじゃダメだって思ったから……。僕なりに勇気を出して、頑張って……そしたら」

 亮くんは大きく息を吸う。
 そして、

「すっごく、楽しかった」

 そう言って、亮くんは華やかにほほ笑んでみせた。
 心の底から満ち足りたような楽しげな言葉を受け、涼子さんの顔に戸惑いがあらわれる。