「ありがとね、亮くん。なんだか救われた気がする」
「別にお礼なんていらない。思ったことを言っただけだし」
「あはは、そうだね」
相変わらず不愛想だ。
いつも無表情だし、抑揚のよの字もないほど淡々とした口調。
最初はその態度に緊張させられていたはずなのに、今となってはその冷たささえ温かく感じられる。他の誰の言葉よりも、深く安心できる。
「受賞するといいね」
「うん。もしダメでも諦めないから」
亮くんの家のすぐ手前で、そんな話をする。
締め切りは二日後、余裕は全くない。すぐにでも作業に取り掛かるべき時だ。
猫ちゃんのおかげで、少しの間だけ手伝うことができる。
今までは意見を出すくらいしか役に立てなかった私が初めて直接的な手助けを行えるのだ。
私も亮くんもやる気に満ちている。
反面教師になって背中を押すだけのつもりが、本当にいい気分転換になったのはラッキーだ。
「ただいま」
鍵を挿しこみ、亮くんは扉を引く。
それにしても大きな家だと思う。
白を基調とした二階建ての一軒家。白は汚れが目立つ色なのに、驚くほど綺麗だ。まるで新品の白紙のよう。
人工芝が敷かれた庭も大人数人でバーベキューができるくらいには広い。
きっと裕福な家庭なのだろう。
亮くんのお母さんにもお父さんにも会ったことはないから、一体どんな人なのかとても気になる。
そう思ったからなのか、あるいは単に偶然なのか、開かれた扉の先には亮くんの母親と思わしき女性が立っていた。
亮くんの母親というだけあって、綺麗な人だ。どことなく亮くんに似ている。
しかし、心なしかやつれているというか、どこか覇気のない印象を受ける。
「亮、どこに行っていたの」
亮くんのお母さんは、感情のない声でそう言った。喋り方までそっくりだ。
唯一亮くんと違うのは、その声質。
かすれていた。
完全にガサガサというほどではないにしても、とても見た目の麗しさとは似ても似つかない疲れきった声だった。
「ごめん。ちょっと気分転換に散歩してた」
「いいから早く入ってちょうだい」
「……うん」
家に入り、ドアを閉めたのを確認すると、亮くんのお母さんは大きくため息をついた。それから、
「今朝も言ったけど、離婚することになったから。どっちについてくるか早いうちに決めてちょうだい」
そう言って、奥の部屋に入っていった。
瞬間、私の中で全てが繋がった。
元々、確信が持てなかったというだけで予想自体はしていた。
大きな物音、激しい怒鳴り声。
それらが導く答えはそう多くない。
亮くん自身の口から聞くよりも先に、図らずも答えを得てしまった。
「…………そっか、わかった」
既に部屋に戻った母親に対してなのか、それとも自分自身を納得させるためなのか、玄関に立ち尽くしたまま亮くんは静かに頷いた。
私は、何も言うことができなかった。
部屋に戻ると、亮くんはすぐに机についた。
確かに締め切りは近い。だから漫画を描くのはわかる。激励したのも私だ。でも、今は緊急事態ともいえる状況なのではないだろうか。
それなのに、亮くんは随分と落ち着いているように見える。
私の両親はとても仲が良くて、今でも休みの日には一緒に出掛けたりもしている。
もしその二人がいがみあって、離婚するとなればきっと私は立ち直れない。
子供にとって両親の不仲というのは、人生を左右しかねない大きな不幸だ。
それなのに、どうしてそこまで淡々と作業できるのだろうか。
「亮くん、さっきの……。いいの……?」
たかが一週間程度の付き合いである私が口出しする問題ではないことはわかっている。でも、聞かずにはいられなかった。
「うん、いい。前からわかりきっていたことだから。気にしてない」
そう言って亮くんは原稿用紙にトーンを貼りつける。
「貼るところ、間違ってるよ」
普段の亮くんなら絶対にしない凡ミス。
私の指摘を受け、亮くんはすぐに貼ったトーンを剥がす。
私は確信した。
気にしていないなんて、嘘だ。
だって、その手は震えているのだから。
「気にしてないって、嘘だよね」
なるべく優しく言いつつも、そう尋ねる。
亮くんは剥がしたトーンを力いっぱい握り潰した。
そして、
「……嫌だ。別れてほしくない」
力なく言って、俯いた。
原稿用紙の上に、一粒、二粒と水滴が零れ落ちていく。
胸が締め付けられるのを感じた。
同時に、大きな使命感に駆られる。
――この子を、助けたい。
「ねえ、亮くん」
「……なに」
「今まで何があったのか、聞かせてほしいの。もちろん無理強いはしないよ。でも、少しだけでも楽になるかもしれない」
話したくないのなら、私もこれ以上は踏み込めない。
誰にだって話したくないことの一つや二つは必ずある。私だって、亮くんに話すのを躊躇したくらいなのだから。
でも、それでも、私は話した。呆れられるかもしれない、軽蔑されるかもしれない。そんな不安を乗り越え、勇気を出して全てさらけ出した。
そして、救われた。
だから今度は私の番だ。この子が苦しんでいるのを放っておくなんて絶対にできない。
「……迷惑かけたくない」
「迷惑なんかじゃないよ。力になりたいの。だから、苦しい時は頼ってもいいんだよ」
努めて優しく、生まれたばかりの雛を暖かく包み込むように、私は亮くんに声をかける。
「本当に……?」
「うん。本当に」
「……わかった」
亮くんは震える手で涙を拭い、椅子から降りて私と向き合うように座る。
そして腫れぼったく、充血した瞳でまっすぐ私を見つめて、
「全部、話すよ」
覚悟を決めたように、そう言った。
「別にお礼なんていらない。思ったことを言っただけだし」
「あはは、そうだね」
相変わらず不愛想だ。
いつも無表情だし、抑揚のよの字もないほど淡々とした口調。
最初はその態度に緊張させられていたはずなのに、今となってはその冷たささえ温かく感じられる。他の誰の言葉よりも、深く安心できる。
「受賞するといいね」
「うん。もしダメでも諦めないから」
亮くんの家のすぐ手前で、そんな話をする。
締め切りは二日後、余裕は全くない。すぐにでも作業に取り掛かるべき時だ。
猫ちゃんのおかげで、少しの間だけ手伝うことができる。
今までは意見を出すくらいしか役に立てなかった私が初めて直接的な手助けを行えるのだ。
私も亮くんもやる気に満ちている。
反面教師になって背中を押すだけのつもりが、本当にいい気分転換になったのはラッキーだ。
「ただいま」
鍵を挿しこみ、亮くんは扉を引く。
それにしても大きな家だと思う。
白を基調とした二階建ての一軒家。白は汚れが目立つ色なのに、驚くほど綺麗だ。まるで新品の白紙のよう。
人工芝が敷かれた庭も大人数人でバーベキューができるくらいには広い。
きっと裕福な家庭なのだろう。
亮くんのお母さんにもお父さんにも会ったことはないから、一体どんな人なのかとても気になる。
そう思ったからなのか、あるいは単に偶然なのか、開かれた扉の先には亮くんの母親と思わしき女性が立っていた。
亮くんの母親というだけあって、綺麗な人だ。どことなく亮くんに似ている。
しかし、心なしかやつれているというか、どこか覇気のない印象を受ける。
「亮、どこに行っていたの」
亮くんのお母さんは、感情のない声でそう言った。喋り方までそっくりだ。
唯一亮くんと違うのは、その声質。
かすれていた。
完全にガサガサというほどではないにしても、とても見た目の麗しさとは似ても似つかない疲れきった声だった。
「ごめん。ちょっと気分転換に散歩してた」
「いいから早く入ってちょうだい」
「……うん」
家に入り、ドアを閉めたのを確認すると、亮くんのお母さんは大きくため息をついた。それから、
「今朝も言ったけど、離婚することになったから。どっちについてくるか早いうちに決めてちょうだい」
そう言って、奥の部屋に入っていった。
瞬間、私の中で全てが繋がった。
元々、確信が持てなかったというだけで予想自体はしていた。
大きな物音、激しい怒鳴り声。
それらが導く答えはそう多くない。
亮くん自身の口から聞くよりも先に、図らずも答えを得てしまった。
「…………そっか、わかった」
既に部屋に戻った母親に対してなのか、それとも自分自身を納得させるためなのか、玄関に立ち尽くしたまま亮くんは静かに頷いた。
私は、何も言うことができなかった。
部屋に戻ると、亮くんはすぐに机についた。
確かに締め切りは近い。だから漫画を描くのはわかる。激励したのも私だ。でも、今は緊急事態ともいえる状況なのではないだろうか。
それなのに、亮くんは随分と落ち着いているように見える。
私の両親はとても仲が良くて、今でも休みの日には一緒に出掛けたりもしている。
もしその二人がいがみあって、離婚するとなればきっと私は立ち直れない。
子供にとって両親の不仲というのは、人生を左右しかねない大きな不幸だ。
それなのに、どうしてそこまで淡々と作業できるのだろうか。
「亮くん、さっきの……。いいの……?」
たかが一週間程度の付き合いである私が口出しする問題ではないことはわかっている。でも、聞かずにはいられなかった。
「うん、いい。前からわかりきっていたことだから。気にしてない」
そう言って亮くんは原稿用紙にトーンを貼りつける。
「貼るところ、間違ってるよ」
普段の亮くんなら絶対にしない凡ミス。
私の指摘を受け、亮くんはすぐに貼ったトーンを剥がす。
私は確信した。
気にしていないなんて、嘘だ。
だって、その手は震えているのだから。
「気にしてないって、嘘だよね」
なるべく優しく言いつつも、そう尋ねる。
亮くんは剥がしたトーンを力いっぱい握り潰した。
そして、
「……嫌だ。別れてほしくない」
力なく言って、俯いた。
原稿用紙の上に、一粒、二粒と水滴が零れ落ちていく。
胸が締め付けられるのを感じた。
同時に、大きな使命感に駆られる。
――この子を、助けたい。
「ねえ、亮くん」
「……なに」
「今まで何があったのか、聞かせてほしいの。もちろん無理強いはしないよ。でも、少しだけでも楽になるかもしれない」
話したくないのなら、私もこれ以上は踏み込めない。
誰にだって話したくないことの一つや二つは必ずある。私だって、亮くんに話すのを躊躇したくらいなのだから。
でも、それでも、私は話した。呆れられるかもしれない、軽蔑されるかもしれない。そんな不安を乗り越え、勇気を出して全てさらけ出した。
そして、救われた。
だから今度は私の番だ。この子が苦しんでいるのを放っておくなんて絶対にできない。
「……迷惑かけたくない」
「迷惑なんかじゃないよ。力になりたいの。だから、苦しい時は頼ってもいいんだよ」
努めて優しく、生まれたばかりの雛を暖かく包み込むように、私は亮くんに声をかける。
「本当に……?」
「うん。本当に」
「……わかった」
亮くんは震える手で涙を拭い、椅子から降りて私と向き合うように座る。
そして腫れぼったく、充血した瞳でまっすぐ私を見つめて、
「全部、話すよ」
覚悟を決めたように、そう言った。