病室に入って最初に感じたのは、安堵だった。
眠っている私はしっかりと呼吸をしているようで、こまめに胸が上下していた。
顔や腕の傷もこの一週間でほとんど消えていた。
ぱっと見ではもはや女の子が昼寝をしているだけにしか見えない。
「本当に魂だけになってるんだ」
眠っている私と、今こうして立っている私を交互に見て、亮くんはそんなことを言った。確かにそう言いたくなる気持ちはわかる。
「漫画みたいだよね。あ、いくら寝てるからって胸とか触っちゃだめだよ」
「触らないよ、臭そうだから」
「泣きそう」
こんな時でも容赦ないね。もう慣れたからいいけど。
それよりも、今は亮くんに見せなきゃいけないものがある。
「亮くん、ちょっと私の鞄あけて」
「え、何で。泥棒みたいだから嫌だよ」
「いいから」
私が少しだけ強めに言うと、亮くんは渋々床に置かれた鞄を開いた。そして、私はある物を取り出すように促した。
「進路希望調査書……?」
すっかりしわだらけになったその紙を一瞥し、亮くんはこちらを見つめてきた。これがどうしたと問いたげな表情だ。
「実はこれを見せたかったの」
「ほとんど空白なのに?」
「空白だから、だよ」
それを聞いて亮くんは首をかしげた。
少しだけ、自分語りをしようと思う。
「私さ、今高校三年生なの。本当ならとっくに進路が決まっている時期なのに、今でもずっと迷ってる」
「夢とか、将来就きたい仕事は?」
亮くんの問いかけに対し、私は大きく息を吸って、強く断言する。
「ないよ。夢も目標も、学びたいこともなりたい職業も、何もない」
それから、
「私も昔は漫画家を目指していたって言ったよね。でも、今の私はこんな状態なの。何一つ目標もなくて、ただ毎日逃げるように遊ぶだけ」
いつもヘラヘラしている私がこんなことを言うのだから、ただ事ではないと思ったのだろう。亮くんは何も言わず、真面目な顔つきでじっと私の話を聞いている。
「私は亮くんに私みたいになってほしくないの。諦めずに頑張って、ちゃんと最後までやり遂げてほしい」
いわゆる、反面教師というやつだ。
夢を諦めて、無気力に生きる人間がどうなるかは私が一番わかるから。
「それを言うためにここに連れてきたの?」
「あはは、ばれちゃった」
この子は賢いから、きっと私の言いたいことを全部わかってくれるはず。
こんな自分語りじゃ救いにも何もならないかもしれない。
でもどうか、夢を途中で放り出すことだけはしないでほしい。
亮くんは俯き、じっと何かを考えている。
そして、ようやく口を開くと、
「……帰る」
とだけ言って踵を返した。
私の想いは、通じなかったのだろうか。
そう思って落ち込んでいると、亮くんは静かに言葉を続ける。
「いい気分転換になったから、また描く」
「……うんっ!」
思わず口元が緩んでしまう。
でも今はそれを抑える気もしない。嬉しいのだから喜ぶのは当然の反応だ。
私は跳びはねるような気持ちで亮くんの後に続く。
亮くんが病室の扉に手をかけようとした瞬間、扉がひとりでに開いた。正確には、扉の向こう側にいた女性が、戸を引いた。
「あ、お母さん……」
戸を引いた女性――お母さんの顔を見て、私は目を丸めた。
同時に、嫌な記憶が蘇る。
どれだけ声を発しても気付いてもらえない寂しさ。あの時の恐怖と焦燥は今でもはっきりと覚えている。
私は咄嗟にお母さんの体をすり抜け、逃げるように病室を出た。
もうあんな思いはしたくなかった。
亮くんがいる今となっては、道行く人に気付かれないことを寂しく思ったりはしない。でも、家族は別だ。
ずっと自分を育ててくれた大切な家族が、自分に気付かず誰かと話をする場面をもう見たくなかった。
逃げ出してしまったことは後で亮くんに謝ろう。
私は二人の声が聞こえないくらい遠くまで走り、その場に座りこんだ。病院の廊下、その端っこだ。ここなら誰も通らないし、あの時の気持ちを味わうこともない。
ちょうど私の病室も見える位置だし、亮くんが出てくればすぐに気付ける。
亮くんが私以外の人と話すところはあまり見たことがない。映画館の係員さんにチケットを見せる時くらいだ。
だからお母さんと鉢合わせた亮くんがどんなことを話すかは気になる。でも、やっぱりあそこに戻る気にはなれなかった。
私は膝を抱え込みじっと病室の方を眺める。
ふと、視界の隅に真っ白な毛の塊が映りこむ。同時に涼やかな声も聞こえてくる。
「もう、逃げちゃダメでしょ」
慌てて横に目をやると、私の隣に猫ちゃんがちょこんと座っていた。
「あ、猫ちゃん」
「……うん、もう猫ちゃんでいいよ」
ついに折れてくれた。それよりも、どうしてここにいるんだろう。
「どうしてって、そりゃあ君が気になるからだよ」
「優しいんだね」
「君ほどじゃないよ」
涼しげな声で言って、猫ちゃんは大きなあくびをした。ちょっと眠そうだ。夜更かしでもしたのだろうか。
そもそも神様の使いって睡眠が必要なのかな。
「眠りはしないけど、疲れはするよ。今日はちょっと神様にお願いしてきたから余計にね」
「お願い?」
「うん、お願い。君が頑張っているみたいだからご褒美をあげようと思って」
まさかのご褒美。なんだろう、気になる。
「ご褒美といってもそんなに期待しちゃいけないよ。ほら、今の君って物に触れないでしょ?」
「うん」
「だから、君が好きなタイミングで少しの間だけ人や物に触れるようにしてあげる。時間で言えば十分か二十分くらいかな。ただし一回だけだから使いどころをしっかり考えるんだよ」
なるほど、それは便利かも。
漫画のお手伝いとかもできるし、一回きりで二十分というのが少し物足りないけど、無いよりかは全然ましだ。ありがたい。
「わかった、ありがとう!」
「うんうん。彼、締め切り近いんでしょ? きっと猫の手も借りたい気持ちだろうからね」
そう言うと、猫ちゃんは何故か自慢げに鼻を鳴らした。
自分の姿が猫だからって上手いことを言った気になっているのかな。
「全然上手いこと言えてないよ……」
「あ、やっぱり? まぁいいや。伝えることは伝えたから、後は頑張ってね」
「うん、ありがとう!」
短くお礼を言って手を振ると、猫ちゃんも尻尾を振り返してくれた。
そして私が瞬きをすると、もうそこに猫ちゃんの姿はなかった。
ちょくちょく様子を見に来て励ましてくれるなんて本当にまめな猫ちゃんだ。上司にしたいタイプ。
感謝ついでに感心していると、ちょうど亮くんが病室から出てくるところが見えた。
亮くんはこちらに気付くと早足で近寄ってくる。そして、
「勝手に行かないで」
そう言って睨んできた。さすがにちょっと怒っているみたい。
「ご、ごめんね……。ちょっと怖くて」
「ん、まぁいいけど」
「それより、お母さん何て言ってた?」
「別に変わったことは言ってなかったよ。お見舞いに来てくれてありがとうとか、そんな感じ」
「そっか」
ちょっとほっとした。
お母さんは私に負けず劣らずお調子者だから、変なことを口走るんじゃないかと思って不安だった。
「あ、でも……。君が中学一年生まで一人で眠れなかったとか、小学校高学年になってもおねしょしていたとか、そういうのは言ってた」
「そっかぁ~」
よし、体に戻ったらお説教だね。
人の恥ずかしい体験を勝手に喋るなんて言語道断、名誉毀損だ。
「締め切り間に合わなくなるから早く帰ろう」
「あ、うん。そうだね」
そうだった。
今は私のおねしょよりそっちの方がよっぽど重要だ。
ちゃんとやる気になってくれたみたいで本当によかった。
眠っている私はしっかりと呼吸をしているようで、こまめに胸が上下していた。
顔や腕の傷もこの一週間でほとんど消えていた。
ぱっと見ではもはや女の子が昼寝をしているだけにしか見えない。
「本当に魂だけになってるんだ」
眠っている私と、今こうして立っている私を交互に見て、亮くんはそんなことを言った。確かにそう言いたくなる気持ちはわかる。
「漫画みたいだよね。あ、いくら寝てるからって胸とか触っちゃだめだよ」
「触らないよ、臭そうだから」
「泣きそう」
こんな時でも容赦ないね。もう慣れたからいいけど。
それよりも、今は亮くんに見せなきゃいけないものがある。
「亮くん、ちょっと私の鞄あけて」
「え、何で。泥棒みたいだから嫌だよ」
「いいから」
私が少しだけ強めに言うと、亮くんは渋々床に置かれた鞄を開いた。そして、私はある物を取り出すように促した。
「進路希望調査書……?」
すっかりしわだらけになったその紙を一瞥し、亮くんはこちらを見つめてきた。これがどうしたと問いたげな表情だ。
「実はこれを見せたかったの」
「ほとんど空白なのに?」
「空白だから、だよ」
それを聞いて亮くんは首をかしげた。
少しだけ、自分語りをしようと思う。
「私さ、今高校三年生なの。本当ならとっくに進路が決まっている時期なのに、今でもずっと迷ってる」
「夢とか、将来就きたい仕事は?」
亮くんの問いかけに対し、私は大きく息を吸って、強く断言する。
「ないよ。夢も目標も、学びたいこともなりたい職業も、何もない」
それから、
「私も昔は漫画家を目指していたって言ったよね。でも、今の私はこんな状態なの。何一つ目標もなくて、ただ毎日逃げるように遊ぶだけ」
いつもヘラヘラしている私がこんなことを言うのだから、ただ事ではないと思ったのだろう。亮くんは何も言わず、真面目な顔つきでじっと私の話を聞いている。
「私は亮くんに私みたいになってほしくないの。諦めずに頑張って、ちゃんと最後までやり遂げてほしい」
いわゆる、反面教師というやつだ。
夢を諦めて、無気力に生きる人間がどうなるかは私が一番わかるから。
「それを言うためにここに連れてきたの?」
「あはは、ばれちゃった」
この子は賢いから、きっと私の言いたいことを全部わかってくれるはず。
こんな自分語りじゃ救いにも何もならないかもしれない。
でもどうか、夢を途中で放り出すことだけはしないでほしい。
亮くんは俯き、じっと何かを考えている。
そして、ようやく口を開くと、
「……帰る」
とだけ言って踵を返した。
私の想いは、通じなかったのだろうか。
そう思って落ち込んでいると、亮くんは静かに言葉を続ける。
「いい気分転換になったから、また描く」
「……うんっ!」
思わず口元が緩んでしまう。
でも今はそれを抑える気もしない。嬉しいのだから喜ぶのは当然の反応だ。
私は跳びはねるような気持ちで亮くんの後に続く。
亮くんが病室の扉に手をかけようとした瞬間、扉がひとりでに開いた。正確には、扉の向こう側にいた女性が、戸を引いた。
「あ、お母さん……」
戸を引いた女性――お母さんの顔を見て、私は目を丸めた。
同時に、嫌な記憶が蘇る。
どれだけ声を発しても気付いてもらえない寂しさ。あの時の恐怖と焦燥は今でもはっきりと覚えている。
私は咄嗟にお母さんの体をすり抜け、逃げるように病室を出た。
もうあんな思いはしたくなかった。
亮くんがいる今となっては、道行く人に気付かれないことを寂しく思ったりはしない。でも、家族は別だ。
ずっと自分を育ててくれた大切な家族が、自分に気付かず誰かと話をする場面をもう見たくなかった。
逃げ出してしまったことは後で亮くんに謝ろう。
私は二人の声が聞こえないくらい遠くまで走り、その場に座りこんだ。病院の廊下、その端っこだ。ここなら誰も通らないし、あの時の気持ちを味わうこともない。
ちょうど私の病室も見える位置だし、亮くんが出てくればすぐに気付ける。
亮くんが私以外の人と話すところはあまり見たことがない。映画館の係員さんにチケットを見せる時くらいだ。
だからお母さんと鉢合わせた亮くんがどんなことを話すかは気になる。でも、やっぱりあそこに戻る気にはなれなかった。
私は膝を抱え込みじっと病室の方を眺める。
ふと、視界の隅に真っ白な毛の塊が映りこむ。同時に涼やかな声も聞こえてくる。
「もう、逃げちゃダメでしょ」
慌てて横に目をやると、私の隣に猫ちゃんがちょこんと座っていた。
「あ、猫ちゃん」
「……うん、もう猫ちゃんでいいよ」
ついに折れてくれた。それよりも、どうしてここにいるんだろう。
「どうしてって、そりゃあ君が気になるからだよ」
「優しいんだね」
「君ほどじゃないよ」
涼しげな声で言って、猫ちゃんは大きなあくびをした。ちょっと眠そうだ。夜更かしでもしたのだろうか。
そもそも神様の使いって睡眠が必要なのかな。
「眠りはしないけど、疲れはするよ。今日はちょっと神様にお願いしてきたから余計にね」
「お願い?」
「うん、お願い。君が頑張っているみたいだからご褒美をあげようと思って」
まさかのご褒美。なんだろう、気になる。
「ご褒美といってもそんなに期待しちゃいけないよ。ほら、今の君って物に触れないでしょ?」
「うん」
「だから、君が好きなタイミングで少しの間だけ人や物に触れるようにしてあげる。時間で言えば十分か二十分くらいかな。ただし一回だけだから使いどころをしっかり考えるんだよ」
なるほど、それは便利かも。
漫画のお手伝いとかもできるし、一回きりで二十分というのが少し物足りないけど、無いよりかは全然ましだ。ありがたい。
「わかった、ありがとう!」
「うんうん。彼、締め切り近いんでしょ? きっと猫の手も借りたい気持ちだろうからね」
そう言うと、猫ちゃんは何故か自慢げに鼻を鳴らした。
自分の姿が猫だからって上手いことを言った気になっているのかな。
「全然上手いこと言えてないよ……」
「あ、やっぱり? まぁいいや。伝えることは伝えたから、後は頑張ってね」
「うん、ありがとう!」
短くお礼を言って手を振ると、猫ちゃんも尻尾を振り返してくれた。
そして私が瞬きをすると、もうそこに猫ちゃんの姿はなかった。
ちょくちょく様子を見に来て励ましてくれるなんて本当にまめな猫ちゃんだ。上司にしたいタイプ。
感謝ついでに感心していると、ちょうど亮くんが病室から出てくるところが見えた。
亮くんはこちらに気付くと早足で近寄ってくる。そして、
「勝手に行かないで」
そう言って睨んできた。さすがにちょっと怒っているみたい。
「ご、ごめんね……。ちょっと怖くて」
「ん、まぁいいけど」
「それより、お母さん何て言ってた?」
「別に変わったことは言ってなかったよ。お見舞いに来てくれてありがとうとか、そんな感じ」
「そっか」
ちょっとほっとした。
お母さんは私に負けず劣らずお調子者だから、変なことを口走るんじゃないかと思って不安だった。
「あ、でも……。君が中学一年生まで一人で眠れなかったとか、小学校高学年になってもおねしょしていたとか、そういうのは言ってた」
「そっかぁ~」
よし、体に戻ったらお説教だね。
人の恥ずかしい体験を勝手に喋るなんて言語道断、名誉毀損だ。
「締め切り間に合わなくなるから早く帰ろう」
「あ、うん。そうだね」
そうだった。
今は私のおねしょよりそっちの方がよっぽど重要だ。
ちゃんとやる気になってくれたみたいで本当によかった。