あの日は確かクラスの男子も頭びしょ濡れだったな、と思い出す。
弘海先輩と同じように水遊びでもしてたのだろう。美紀が男子更衣室の方がうるさかったと愚痴っていた。
そういえば、我を忘れて水遊びしていた私を呼びにきてくれたのは、美紀だった。
その美紀は、今年の秋に結婚した。
残してあった連絡先から何年ぶりかに電話がきて、結婚式に招待された。
純白のドレスに身を包んだ美紀の姿が思い出されて、目頭がじわりと熱を帯びる。


「まあ、それで、接点持てて。僕なりにアピールして、もっと仲良くなれるかなとも思ったけど、これ絶対叶わないなって思った」

「……どうして、ですか?」

「杏那はみんなと仲が良くて、いつも友達といて、その中心にいて、男の子とも女の子ともみんな平等に接してる印象だったから、きっと僕のことも大勢の仲良しの中の1人で、特別には見てくれないんだろう、って思った。それにちっとも僕のこと異性として意識してる感じなかったし。だから何も言えずに卒業しちゃった」


そんなことを一ミリも知らない、あるいは気づかないふりをしていた当時の私は知る由もなく、弘海先輩はただ仲良くしてくれる優しくて、変で、面白い先輩だと思っていた。
弘海先輩の言う通り、仮にもしあの時告白されても私は付き合わなかった。もちろん断ったと思う。
だって弘海先輩は卒業して大学に行ってしまう人で、物理的に離れれば、精神的に離れてしまうことも知っていたから。

「高校時代の淡い思い出です」と静かに弘海先輩は呟いた。
私は返す言葉もなくて、マグカップを包むその若干カサついている、白い手を見やる。


「それで大学入って、教育実習で母校が受け入れてくれることが決まって、正直胸が高鳴った。また会えるかな。今でも花壇に水やったりしてるのかな。どんな女の子になってるかな。蓋したはずの気持ちがまた芽を出して、あの朝に駅で杏那を見つけたときは、柄にもなく運命とすら思ったよ。高校時代も同じ路線だったの全く気づかなかったし、教育実習生の立場も忘れて声かけようかなとも思った。でも次の瞬間、列の先頭に並んでいた初恋の相手は、ホームに消えていった」


弘海先輩はマグカップの中を見つめていた。
伏せた睫毛に疑問が湧く。

教育実習生受け入れの初日。私はあの駅にいた。
死ぬつもりで、先頭に並んで、一歩を踏み出すところだった。

でも弘海先輩に肩を引かれて、結局死ねなかった。

私は、死ななかった。