「狭い世界にいると、本当に自分は何が大切だったのか、失って気づくことがある。今を生きるのに一生懸命すぎると、周りが見えなくなってしまう。だから、杏那みたいに一歩引いて物事を見るって言うのは大事かも」

「……私は引いてたんじゃないです。見ないようにしてただけ。気づかないように気づかないふりをしてただけ」

「でもそのことに、気づいたでしょ?」


弘海先輩の声は穏やかで、とても耳障りがいい。
そして私の心を誘導する。雁字搦めに鍵をかけた箱を、猫じゃらしで開けてしまうような甘さがある。


「覚えておけばいいんだよ。苦い思い出全部。忘れないで、覚えておく。でも固執するんじゃない、覚えておくんだ。そしたら次はうまくいくはず。人間は学習する生き物だから」


弘海先輩の言葉はどこか達観していて、三つしか変わらないのに、もういくつも年上みたいな言い方をした。
近くにいるのに、遠くにいる気がして、私は少し焦る。


「先生も、そんな経験したんですか?」

「取り返しの付かなくなるようなことも、ね」


引き止めるつもりで、聞いた。
美しい漆黒の瞳が潤んで見えるのは、気のせいだろうか。
弘海先輩は一瞬見せた憂いを、すぐ笑顔の下に隠してしまった。