青い僕らは奇跡を抱きしめる

 秋が深まるこの時期、夜になると足が冷え、温度が下がっているのが肌で実感できる。

 それでも心の中はどこか温かく満たされ、ふわふわとした感情が、俺を中学生の気分に戻してくれた。


 捻くれていた暗かったあの頃が今となっては、それも大切に懐かしく感じられた。

 二度と戻ってこない日々、振り返ればもう少しこうすればよかったと、後悔してしまう。


 でも、結局あの時はあの時の俺だからそうなってしまった。

 なるべくしてなってしまった日々の生活。


 あれもまた、決して無駄ではなかったのかもしれない。

 辛さや痛みを知って、役に立つことだってあると、大人になるとつくづく思う。


 例えその時は悔しくて、腹立たしくてたまらなかったとしても、それもまた必要な時に起こったことだったと、時間が経てば思えるから不思議だった。


 だから現在はそれを教訓に、もう少しまともになろうと日々努力している。

 こんな風に思って、自分が変われたのも、全て葉羽のお陰だった。

 俺は葉羽のことで頭が一杯になりながら、サボテンを抱えて、アパートの階段を上って二階にあがっていく。


 玄関のドアの前に来たとき、腕に力を入れてサボテンの鉢植えをぎゅっと抱えた。

 どこかしら緊張していた。

 過去に戻ったとはいえ、そうすることが約束されたにしろ、俺は中学生の女の子に本気になってキスをしてしまったことを、この時恥ずかしく思えてならなかった。


 どんな顔をして、妻と向き合えばいいのか。

 なんだか浮気をしたようで、罪悪感に苛まれた。

 何事もないように装えば、なんとかごまかせるかもしれない。


 俺は一呼吸おいてから、ドアノブに手をかけて、覚悟を決めてドアを開けた。

 「だだいま」と普段通りに家の中に入れば、「お帰り」と俺の妻が明るく迎えてくれた。


 俺も一人前に所帯を持っていたわけだ。

 俺の妻はちょっとした変化に過敏に反応するから、この時、俺は少し向き合うのが怖かった。

 俺の目が泳いでいたのだろう。

 視線が定まらないのをすぐさま感知し、案の定、俺を見るなり妻の顔色が変わった。


「ん? なんかいつもと違うね」

「えっ、そう?」


「あー、もしかして浮気した?」

「そ、そんなことない」


「だけど、そのサボテン、何?」

「あっ、こ、これは、その」


「何も隠さなくていいじゃない」


 妻は俺にキスをしてきた。

 そしてサボテンの鉢植えを俺から奪い取ると、懐かしそうにそれを笑顔で眺めていた。


「そっか、今日だったんだ」

「葉羽、そんなにニヤニヤするなよ」


「ねぇ、あの時の私どうだった? まさかあのことは言ってないよね」

「もちろん」


 葉羽は疑るような目をして、俺を見つめていたが、それはわざとからかって虐めて楽しんでいた。

 本当は自分にキスをしたことを、冷かしていた。


 俺はあの時とった行動がなんだか恥ずかしくて、まともに葉羽の顔が見られない。

 だけど、葉羽はあの時からこうなる事をずっと知っていて、俺に隠していた。

 葉羽のファーストキスが、30前の俺、即ちおっさんだったという事もなんか複雑で、俺が葉羽と初めてキスしたときは、葉羽には初めてじゃなかった。

 ん?

 頭の中がこんがらがってきて、俺は困惑していた。


「葉羽はおっさんにキスされて、これって、フェアじゃないよな」

「相手は同じだから、全然気にしてないよ」

「でも」


 俺が時系列にこんがらがると、葉羽は益々茶化すように、くすっと笑った。


「さてと、お腹すいてるよね。ご飯食べようか」


 そしてサボテンもテーブルの上、おかずの横に並べて一緒に食卓を囲んで、あの時の話を懐かしく語り合った。
 葉羽は本当にもう一度奇跡を起こした。

 それがサボテンに頼らず、自分で起こした真の奇跡だった。


 病室で横たわっていた葉羽は、確かに命を刻々と削られていた。

 あのままでは助からないとまでいわれていた。


 葉羽はあの後、大きな病院に移されて、ちょうどその入れ替わりに、俺があの病院に入って来た。

 看護師に葉羽がどうなったのか尋ねれば、それは教えられないと頑なに口を閉ざされ、それ以上のことは何も教えてくれなかった。


 あの時、俺は何も出来ずに、絶望して家に帰った。

 葉羽の家は電気もついてなく真っ暗で、まだ誰も帰ってきていない状態だった。

 これが何を意味するのか、俺は胸が苦しくなっていった。


 家では伯父と伯母が心配していたが、俺の気持ちを察してそっとしてくれた。


 その夜遅く、葉羽を病院に残したまま一家は戻ってきたようだった。

 そして、後に詳しく葉羽の状態を聞くと、葉羽はやはり造血障害を起こす病気で、命に係わるものだと、辛そうに教えてくれた。


 この病気は高齢に多いらしいが、稀に若年者も発症することがあるらしい。

 ただ、病状によっては完治する方法があり、葉羽の場合造血幹細胞移植をすれば助かるということだった。


 しかしその葉羽に適合するドナーを探すのが一苦労とあり、一番適合の確立が高い弟の兜ですら適合しなかった。


 病院のベッドに横たわる葉羽は助からないと諦めていたが、あの時大人になって呼びだされた俺は葉羽が助かる事を知っていた。


 でも大人の葉羽から、過去に戻ったとき未来のことは何一つ絶対に中学生の自分に言うなと釘を刺されていたのだった。


 だから俺はなんだかもどかしく、すごく息苦しくて、あの時助かるんだって喉まで出掛かっていたのを必死で堪えていた。


 葉羽にしてみれば、ドナーが見つかるという奇跡が起こったのは、絶望感の中で必死にもがいたから起こったことだと思っている。

 少しでも何かの要素が加わったら、ぴったりと行くべきところへたどり着けなかったように思う。

 俺が何度も励まそうと葉羽の前で手品をしたり、明るく振舞って葉羽を笑わそうとした努力が、生きる希望に繋がった。


 俺が強く支えて、奇跡が起こると信じていたのが葉羽の気持ちを変えさせたみたいだった。

 俺の言葉を信じて諦めなかったから、生きる希望が強くなって病気の進行にも影響したと思う。

 葉羽は俺のお陰で奇跡が起こったと、今になって語っている。


 だけど俺は全て葉羽の力だと思っている。

 もし、あの時未来から来た俺が簡単に結果を言っていたら、葉羽は努力を怠って本来迎える未来が変わってしまう結果になったのかもしれない。


 あの時の踏ん張りがあるから葉羽は勝ち取った。
 
 移植をしてから葉羽はすっかり元気になり、そして成長して大人になって俺の妻となった。

 混乱がないようにと予め俺には中学生の葉羽が授業を見に行くことや、病院に呼び寄せることを話してくれた。


 俺はまさかと思っていたが、実際授業中に葉羽が現れたときは、びっくりしたもんだった。


 でもタネを前もってあかされていたので、慌てることなく、存分に自分のやってることをみせたという訳だった。
 これがこの物語の手品の種明かし。


 サボテンの花が三回咲いた奇跡はサボテンの力がなかったらできなかったけど、真の奇跡は葉羽自身がやり遂げた。


 まあ少しは俺も関係していたかもしれないけど。


 とにかく諦めないで希望を持つという力が奇跡を起こした。


 葉羽は本当にすごいんだって俺は思ってしまう。

 だけど、時々披露してくれる手品はやっぱりどこか下手くそだけど。

 俺の妻となったかわいい葉羽。


 俺は今、最高に幸せだ。


 
「だけどさ、最近の葉羽はなんかよく食うよな。なんか太ったんじゃないのか。いくら食欲の秋だからといって食いすぎるなよ」


 俺がそういうと、葉羽は突然箸を置いた。


「悠斗君にもう一つの奇跡のこと話しちゃおうかな」

「なんだよ。まだあるのか?」

「うん。ここに」


 葉羽は優しく自分のお腹をさすっていた。


「えっ?」


 俺は椅子から勢いつけて立ち上がって興奮し、思いっきり体に力が入ってテーブルをつい叩いてしまった。


 その勢いで、食卓の上の茶碗や食器、そしてサボテンの鉢植えが一緒になってびっくりして揺れていた。
 
驚きと嬉しさで体全体に走り巡らせた悠斗の感情は、テーブルの上のサボテンの鉢植えを揺らした。
 それは僕の体にも瞬時に伝わり、ドクンと心臓が再び動き出す衝撃を受けていた。


 悠斗のドキドキとする血の巡りが、そのまま僕の鼓動とシンクロしているように思う。


 僕はずっと悠斗と葉羽の物語を見ていた。


 いや、見せられていたのかもしれない、そのサボテンに。
 僕は自分と同じ年頃だった悠斗に、時々嫌気がさしたり、見ていられなかったり、もどかしかったりとなんだか腹が立ちながらも、それがどこかでいつの間にか親しみに変わっていた。


 こういう、悠斗みたいな奴が、僕は嫌いだ。

 そうはっきり言える程、僕は悠斗をじっくり見ていたと思う。


 傍にいたら、きっと面倒くさくて、すぐに喧嘩になってお互い睨み合っていた。

 悠斗も僕が傍にいたら、僕と同じような感情を抱いたはずだ。


 お互いが嫌い。


 でもそう考えた時、なんだか笑えてくるから不思議だった。

 それがおかしく思えたのは、自分たちの性格が似てるせいだと、僕は気が付いた。

 だからこそ、僕は悠斗の不器用な性格がストレートに僕の感情を乱して、自分が映る鏡を見ているようで、ひるんでしまって直視できない部分が沢山あった。


 なんで素直じゃないんだ。

 なんでそこで自分が悪い事を潔く認めないんだ。


 そう思えば思うほど、その言葉が真っ直ぐ僕自身に跳ね返ってくるのが痛くて、苦しい。

 悠斗が直面した困難も、葛藤も、僕の感情とくっついて、同じように引っ張られてしまった。
 でも悠斗のもがいて、必死に出口を見つけようとしていた姿は、一緒になって応援してしまう。


 僕もまたそうであって欲しいから。


 どうしようもなく、うまくできないことだらけで、声を張り上げても、例えそれが正論であったとしても、きっちり届かない挫折に僕は負けないでって思っていた。


 嫌いだなんていっても、その裏返しには放っておけない感情が渦をまく。

 いくら悠斗が僕に似ていても、嫌いだといってしまったら、その似ている僕自身もまた自分自身が嫌いだと卑屈になってしまう。


 自分自身を否定し、自分を好きになれなかったら、僕は何をやってもきっと上手く行かないだろう。

 負の感情はそういうものだ。

 押さえつけられれば、正常な方向へ進まないのと同じで、それに負けてしまえば、やはり健全にことが運ばない。

 負はどこまでも負であって、それを断ち切らなければ、日の目を見ない。


 植物が育つのに太陽が必要であるように、人もまたポジティブな光が必要だ。

 それが心に抱く一条の光──希望の事だと、僕は思う。


 悠斗が気になるのは、僕自身が気になっているのと同じで、僕は僕をどうするか、悠斗を見ていて雲から光が漏れだしたそんな光景と重なった。

 覆っていた灰色の雲から差し込む太陽の光。

 それが僕の求めるもののように、ぐっと体にまで浸透して、スカスカだった無味なものが濃くなって潤っていく、そんな気持ちになっていた。


 悠斗だけじゃない、病気と闘っていた葉羽もそうだ。

 悠斗の事を理解していた葉羽。

 悠斗のことなんか放って置けばいいものを、優しく包み込んで、精一杯助けようとしていた。


 不器用ながらも、自分のやれることをしてもがいていた二人。


 一生懸命な姿は、僕の体にも力を与えてくれた。
 やがて二人は大人になって、過去の自分たちを照れくさく恥ずかしげに笑い、大切に愛おしむ。

 そこには体を押しつぶすような絶望も存在していて、二人で闘ってそれを乗り越えた証として忘れないでいるようだ。


 辛い事もこの二人には必要な事だったと、今では笑って語り合える。


 その結果、絵に描いた幸せが二人の周りを包んでいた。



 僕はそれが微笑ましいと同時に、二人の愛の力強さに心が震えた。



 この後、この二人はどうなるのだろう。

 子供が生まれ、温かい家庭を作って、自分がなりたいと思う親へと変わっていく。

 こんな両親から生まれてきた子供は幸せになってほしい。


 ならなくちゃいけないくらいだ。


 あらん限りの愛情を二人から与えられ、大切に育てられるに違いない。

 せめていい子が生まれる事を願う。


 自分のような我がままで勝手な子供ではありませんように──

 僕がそう思った時、僕の心臓がドクンと波打った。
 一体僕は今どこにいるのだろう。


 僕は誰だっけ。


 そうだ、僕は交通事故にあって、車にはねられ瀕死の状態だった。

 もうそろそろ、天国からお迎えがくるころだろうか。

 それとも地獄か……

 まだそれらしいものが来ないと言う事は、僕はかろうじて死んでないということだ。

 僕ははっきりと全てを思い出せないまま、靄の中を彷徨っている。

 慌てるな、順序立てて考えてみよう。


 僕はなぜ、僕の人生を振り返らずに、悠斗と葉羽の物語をみていたのだろう。

 あんなのを見せられたら、僕は何一つ一生懸命にならないで生きていたことをとても後悔してしまう。

 僕は一体今まで何をしてきたのだろうか。
 僕の事故のニュースはすでに世間に広まったのだろうか。

 自ら車に飛び込んで自殺とされて報道されるのだろうか。


 その理由として虐めがあったと、世間では憶測されるだろうか。


 でもその事実は何一つ出てこないことは、自分が良く知っている。


 確かに僕はクラスから浮いてしまっていた。

 自分でも虐められていたとはっきり言える。


 だけど、死人に口なしで、クラスメートも先生も学校もきっと虐めはなかったという事だろう。

 自分たちの保身のために。


 万が一虐めがあったと認めて、それで僕が死んだら、それはそれであてつけとしてまだ意味があるように思えるが、このままでは僕の死はただ無意味だ。


 だから、僕はこのまま簡単に死にたくない。

 このまま、死ぬわけにはいかない。


 反抗期で素直になれずに、嫌な奴のままで終わらせたら、悪い子とされてしまう。


 僕は悪い子として生まれてきた子供じゃないはずだ。

 両親にたっぷり愛され、何不自由なく恵まれた環境で育てられてきた。

 甘やかされ過ぎて、それに僕自身も甘んじてしまった。


 それが当たり前に思い過ぎた。

 僕は、僕は……


 僕がまた記憶を取り戻した時、当たり前だった今までの生活が、苦労の末の上に築かれたものだと言う事に気が付いた。

 そうだ、悠斗と葉羽は僕の両親だ。