「ハルはどうして、そんなに私を信じてくれるの……」
震えた声でそう問いかけると、ハルは私から離れて、真っ直ぐに目を合わせて答えた。
「心臓をくれたから」
衝撃的な言葉に、私は一瞬どう反応したないいのか分からず、表情を強張らせた。
真剣に答えて、と言おうとしたけれど、ハルは真顔のままだったので、私はその言葉を飲み込んだ。
「……俺さ、冬香に言ってないことがあるんだ。俺、冬香の心臓と……」
そこまで言いかけた時、ちょうど良く昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってしまった。
ハルは、チャイムで言葉を遮られたことに、心なしか安堵しているように見えた。
「ごめん、今度家で話すわ」
「う、うん、分かった……」
ハルは優しく私の頭をぽんと撫でて、行こうと行って教室の扉を開けた。
薄暗かった視聴覚室に、太陽の光が差し込んで、私は一瞬目を閉じた。
ここが学校であるということを、一瞬忘れていた。それくらい、ハルの言葉ひとつひとつに神経を研ぎ澄ませていた。
前を歩くハルの後ろ姿は、年相応の男子中学生の後ろ姿なのに、クラスメイトと大きく変わらないはずなのに、その骨ばった背中には一体何が背負わされているの。
私じゃその荷物を、分け合えないのかな。
「ハル」
聞き取れないくらい小さい声で、ハルの名前を呼んだのに、ハルはどうした? と言ってすぐに後ろを振り返り立ち止まった。
そんなハルを見て、胸の奥が軋んだ。 何があっても私を取るという言葉が、今更胸の中に染み渡っていったから。
私も同じようにハルのことを大切に思っている。それなのに、ハルはいつも自分の気持ちだけを一方的に伝えて去ってしまう。
そんなハルだからこそ、守ってあげたくなるのはなぜ。
ハルは、何が正しくて悪いのかではなく、何が大切で何が大切じゃないかという観点で、世界を見ていた。
その覚悟を、彼は十五歳にして決めていた。
そんなハルだからこそ、私はどうしようもなく、彼のそばにいたいと思ってしまったんだ。
◯
あの日から、不思議とハルがそばに来るとドキドキするようになってしまった。
ドキドキする、というよりも、愛おしくて胸が苦しくなる、という感情に近かった。
何があっても私を取ると言ったハルの真剣な声が、鼓膜の奥にまで張り付いて離れない。
ハルのことをいまさら意識してから、部屋に二人きりだったり、抱きしめあったりしたことが、急激に恥ずかしくなってきた。
ハルは、一体私のことをどう思っているんだろう。どんな意味で大切に思ってくれているんだろう。
「ハル君、いらっしゃい」
今日は珍しく母親の帰りが早く、ハルが私の家に来る頃には夕飯の支度をしていた。ハルはいつも言わないお邪魔します、を口にしてから、いつもより少しかしこまって部屋に上がった。
「冬香、今日はリビングにワックスかけたばっかりだから、自分の部屋で遊んでてくれる?」
こんな日に限って、母親はとんでもないリクエストをしてくる。私はうんと頷きはしたが、内心は緊張していた。
自分の部屋にハルを入れたことはなかったし、ハルを変に意識してしまっているこのタイミングで二人きりになるとは思っていなかった。
ちらりとハルを見ると、いつもと変わらない表情で「部屋で映画観れんの?」と聞かれた。観れるけど、と私は真顔で静かに返した。
階段を上がって一番奥の自分の部屋のドアを開けると、すぐに沈黙が気まずくならないようにテレビをつけた。
ハルはきょろきょろと辺りを見回しながら部屋に入り、私のお気に入りの大きな丸いクッションの上に座った。
「何これ、超いいじゃん」
「でしょ! それに座って映画観ると最高なの」
「そんな贅沢なことしてたのかお前は」
ハルがクッションの弾力を確かめるように何度か跳ねる度に、ハルの柔らかい髪の毛がふわっと宙に浮いた。
「あ、待ってハル、危ない」
ふと、ハルのクッションの近くに、シャーペンが落ちていることに気づいた私は、かがんで彼の近くへ寄った。
すると、クッションに座っていたハルが、下にかがんでいる私の髪の毛に、突然するっと指を通した。
「うわっ、何すんの」
驚きハルを見上げると、ハルは真顔で私の髪を掴んだまま呟いた。
「髪の毛伸びたなーと思って。お前小さい時ずっとヘルメットみたいなおかっぱだったじゃん」
「うるさいなあ、髪離してよ」
「いいだろ。触るくらい」
「よ、よくないよ」
「なんで? 俺なのに?」
俺なのにって……。一体どこからその自信が来るのか私には分からない。ハルは本気で言ってるからつっこむこともできない。
ハルと私の距離は、肩甲骨まで伸びた私の髪の毛の長さほどしかなくて、ハルの鋭い目とバチっと目が合ってしまった。
ハルの目の色は、少し茶色くて、肌はこんなに近くで見ても白くて綺麗だ。真っ黒の髪の毛は猫の毛のようにふわふわで、思わず撫でてしまいたくなる。
女の子みたいに綺麗な顔をしているのに、捲ったパーカーから見える腕は私よりずっと太くて、喉仏はハッキリと分かるほど突起している。
私は思わず、自分にはないその喉仏に触れてしまった。
「何してんの、お前」
「うわ、めちゃめちゃ震えた」
「当たり前だろ。バカなのか」
「はは、ハルって男子なんだなー。小学生までは声の高さも腕の太さも一緒だったのに」
笑ってそう言うと、ハルは喉に触れていた私の手を掴んだ。それから、その手をハルの心臓の真上に持っていった。
どくん、どくん、という鼓動がかすかに手のひらに伝わって、私達は見つめ合った。
「冬香は、俺の心臓と、自分の心臓を分け合えれば良いのに、って言ったこと覚えてる?」
「え、ああ、そんなことも言ったっけ……。ハルが、泣いていても理由を話してくれないから。心がもし心臓にあるなら、分け合えたら分かるのにって思ったな」
そうだった。あれは、まだ私たちが七歳の頃だったかな。一時期ハルが、唐突に泣き出すことがあって、理由を聞いても教えてくれないから、だから私は“ハグの魔法”と言って彼を抱きしめたんだ。
「……心は、心臓にあると思う?」
真剣な顔で、ハルが私の手を自分の心臓の上に押し当てる。
そんな難しい質問をされても、分からないよ。ハルは、どうしてこんなことを聞いてくるんだろう。
「……分からない。でも幼い頃突然泣き出すハルを抱き締めたのは、今にも壊れそうで怖かったからだよ。ねぇ、ハルはあの時どうして泣いていたの」
そう問いかけると、ハルは形の整った唇をゆっくりと開いて、信じられない言葉を放った。
「生きてること自体に、罪悪感を抱いていたのかもな」
「え……」
エアコンの無機質な音だけが部屋に響いている。少し伏せたその瞳は暗く、文化祭で福崎さんにペンキ撒いた時の表情と同じだった。
まただ。また、この冷たいハルを見てしまった。
血が通っているはずなのに、人形のように冷たく感じる。心臓は動いているのに、なぜか体温が感じられない。もっと彼に踏み込んでいいのか、ここまでしか立ち入ってはいけないのか、分からない。
「ハル、どこかに行っちゃうの……?」
まったく会話が成立していないのは分かっているのに、自然とその言葉が口から出てしまった。
それほどに、ハルを遠くに感じてしまった。
「行かないよ。冬香が泣くから」
ハルは笑ってそう答えたけれど、私の中の胸騒ぎは止まらなかった。私は彼の心臓の上に重ねた手をゆっくり降ろして、そのまま手を繋いだ。
「ハル、何かあったら言ってね。私は、いつでもハルの味方だよ」
その言葉が、その時の私に言える精一杯の言葉だった。どうしてそんなことを言うのとか、罪悪感を抱いてしまうのはなぜとか、一体何がハルを悲しませているのとか、そんなこと聞けなかった。
だってハルが、笑うから。
泣きたくなるほど優しい笑顔で、笑うから。
その日私達は、久々に『海の上のピアニスト』を観た。
十五歳のハルは、この映画が一番好きだと言っていた。
そして、私たちがこんな風にゆっくり映画を観ることができるのも、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。
◯
得体の知れない何かに押し流されるように、私達は本当のゴールではない仮のゴールを見つめて、ひたすらに勉強していた。
あの文化祭の事件もまるで無かったかのように、実力テストが実施されるようになってから塾に通う生徒が急増した。
私自身、自分の偏差値よりも上の高校を目指していたため、映画を観る時間を減らして机に向かっていた。
ハルは元々地頭が良く、いつも少し勉強するだけでできてしまうタイプの人間だったが、私と映画を観られないせいか、彼も仕方なく図書館などで勉強をしていた。
「受験合格」という、皆と同じひとつの方角を向いていると、ふと私達は一体何になろうとしてテキストと向き合っているんだろうという気持ちになってくる。
自分が何者になりたいのか、皆は言葉にできるのかな。
余計なことばかりが頭の中を駆け巡る中、たったひとつだけ良いことが起きた。
それは、詩織からメールの返信があったことだ。
『私も冬香と同じ塾に通うことになった。高校受かって、知らないところで、一からやり直してみる』。
文化祭が終わってから、毎週一方的に送っていたメールに対しての返信は、その一文だった。どうやら、うちの学校の生徒が私以外にいない個人経営の塾を選んだようだ。
詩織が前を向こうとしていることが、信じられないくらい自分を安堵させ、また、背中を押してくれた。
塾で気さくに話すほどには関係値は戻っていないが、一緒に頑張っている、という意識が私達を繋いでいる気がした。
……詩織が前を向いて、罪が軽くなったように感じたのは確かだ。でも、それ以上に、詩織の人生がまた動き出すことを心から願っている。
詩織、一緒に、頑張ろう。
最初からゴールは見えなくても、歩き続けることで見えてくるゴールもあると、私はそう思っている。
私たちの関係も、いつか歩き続けたら、戻れる日が来るだろうか。そんなことを願いながら、今はひたすらペンを握るよ。
「ねぇ、そこ、あたしの席なんだけど」
放課後、図書館で勉強していると、頭上から不機嫌な声が降ってきた。
顔を上げなくても分かった。そこには、キャラクターもののぬいぐるみが沢山ついたスクールバッグを持った、福崎さんが立っていた。
「あたし、この席じゃないと集中できないの。どいて」
福崎さんがこんな風に私に絡んでくることは、実は文化祭以降多々あった。
福崎さんの鞄には、付箋が沢山貼られた分厚いテキストが入っており、彼女も真剣に受験勉強をしていることが十分に分かる。福崎さんの母親は教育熱心で、中学受験に落ちた時、相当彼女を詰めたらしい、という話を噂で聞いた。
それは本当なのかは分からないが、彼女の表情はストレスのせいか、不安のせいか、ロボットのように固い。
「……分かった」
辺りには、真剣に勉強している生徒が数人いる。邪魔にならないように、私は静かに勉強道具を片付けた。
「ねぇあんた、個人経営のあのボロい塾通ってんだって? あんな学歴低い講師の塾なんて、通う意味あんの? あそこしか通わせてもらえなかったんだ?」
「わ、私が……選んだの。映像より自分に合ってそうだったから」
彼女の刺々しい発言に恐る恐るそう答えると、彼女はいつのまにか床に落ちていた私の単語帳を足で踏んだ。忘れやすい部分につけていたピンクの付箋が、びりっと音を立てて破れた。
「そういう、自分の考え信じ切ってるところまじでウザいんだよ」
彼女の言葉に心臓を凍りつかされた私は、バラバラになっていく付箋をただ見つめていた。
やめて、という声も出ない。ただ、この世には自分を理不尽に嫌う人も存在するんだという事実だけが、胸に重くのしかかる。
耐えろ。耐えろ、耐えろ、耐えろ。
自分の心臓に何度もその三文字を叩きつける。まるで釘で止めるかのように打ち込む。
今だけ、後数ヶ月、耐えれば終わる。
額にうっすら浮かぶ冷や汗を拭って、私は一言も言い返さずにその席から離れた。
私の一挙手一投足が、彼女の理不尽な怒りに火をつけているのかもしれない。そんなことを予感するほど、日に日に福崎さんに八つ当たりをされる日々が増えていった。
◯
『明日の実テ終わったら、映画観ない?』
ハルからそんなメールを受信したのは塾を終えた夜の二十時だった。
住宅街を抜けた田んぼ道は暗く、かなり遠い感覚である街灯だけが頼りだった。
薄暗い道を歩きながら、ハルのメールに『いいよ』と一言だけ返信すると、私は夜空を見上げた。
吐く息は白く、もわもわと形を変えて紺色に溶け込んでいく。チャコールグレーのダッフルコートを着ているけれど、やっぱりそれでも少し冷える。
穴ぼこだらけのアスファルトの上で立ち止まり、私は少しだけ目を閉じ、最近の出来事を瞼の裏で再生した。
今日の授業を終えた後は、詩織と少しだけ話すことができた。明日のテスト頑張ろうという一言だけだったが、とても嬉しかった。嬉しくて、声が裏返ってしまった。
福崎さんは、相変わらず私に言葉の暴力をしてくるが、完全にただの八つ当たりだと思うとあまり気にならなくなってきた。
ハルは数学の成績ばかり伸びて、英語は伸びないと嘆いていた。それでも十分いい点数なので嫌味かと思った。明日そう思ったことを伝えてやろう。
そんなことを思っていると、スマホがポケットの中で震えた。慌てて画面を見ると、ハルの二文字が表示されていた。
「もしもし? ハル?」
『よ、今何してんの?』
「塾終わって帰ってるところだよ」
『実テ前だしな。冬香見ると焦ってくるわ』
「嘘つき。全然焦ってなんかいないくせに」
拗ねたようにそうぼやくと、ハルは電話越しに小さく笑った。そういえば、ハルはどこの高校を受けるんだろう。なんとなく、聞くタイミングを逃し続けている。
そんなことを思っていると、ハルが唐突に進路を語り出した。
『俺、大学はW大受けて、そこの映画サークル入りてぇな』
「もう大学のこと考えてるの!?」
『従兄弟が映画サークル入ってて楽しそうだから、W大の推薦あるとこ受けようかな」
「あーあ、選択肢が広い人はいいね」
なんだ。まだ志望校は完全には決めてないのか。そのことになぜかほっとしている自分がいる。ハルは、自分の知らないところでどんどん先に進んでしまうことがあるから。
「受験まで、あと少しだねー……」
受験を控えて、初めて人生を逆算している。あと何日で実力テスト、あと何日で受験本番、あと何日で解放される、って。
ああ、そういえば、そのことを話した時、ハルが呟くように言っていたな。
皆、まるで明日が来ることが、当たり前のように毎日をカウントしているって。
それって、少し笑えるってーー……
「持田冬香ちゃん?」
「え、なにーー」
男性の声に振り向いた瞬間、酸素の行く手を塞がれた。冷たい革の手袋の感触が唇に触れて、気づいたら後ろから何者かに抱き締められていた。
スマホが手からすり抜けて、ハルが私を呼ぶ声が地面から聞こえる。
ハルに抱き締められる時とはまるで感覚が違う。
全身の血が凍るような感覚が走り抜け、心臓が激しく動き始めた。
「福崎愛理に頼まれただけだから、恨まないでよ? 受験できないくらい精神追い込んでやってって」
革の手袋から自分の熱い吐息がフゥフゥと漏れる。何が起こっているのが、全く分かっていないが、バクンバクンと今にも破裂しそうな心臓が、警報を鳴らしている。危険だと。
二人男性がいることを理解したのは、口を塞がれてから何秒後だっただろうか。
ガムテープで口を塞がれたあとパニックで暴れた私は、薄暗い道に倒れこんだ。
多くの草が割れ目から顔を出しているぼこぼこのアスファルトは、簡単に私の柔らかい肌を傷つけ、血を流させた。
「文化祭の時、君の幼馴染が愛理にペンキかけて、今すぐ俺のこと呼べって挑発してたらしいね? やるじゃん、完璧その時君の人生終わったね?」
「愛理のこと、もしかしてただのギャルだとか思ってる? 残念だけど、そんなレベルじゃないからね、俺たちが生きてる世界って」
ダッフルコートを乱雑に脱がされた時、私の頭の中にハルの言葉がリフレインした。
私達は、まるで明日が来るのは当たり前のように生きているって。
私もそう思っていた。私は明日も同じ時間に起きて、同じように授業を受けて、家に帰り、支度をして、また今日と同じように塾に向かうって。
明日が来ることを当たり前に思っていないハルは、もしかして、これほどに近い恐怖を味わったことがあったのだろうか。
「やめて! 離れて! 警察呼びましたよ!」
世界がどぶ色に染まっていったその時、女性の声が鼓膜を震わせた。
スマホのライトが男性二人の顔を明るく照らし、その光の元にはがくがくと足を震わせる詩織が立っていた。
鼻から息をすることを忘れていた。それほど私はショック状態に陥っていたが、詩織の声を聞いてようやく呼吸を思い出した。
助けて、とガムテープの下から叫んだ。熱い涙がじわっと溢れ出て、首や耳に流れ込んだ。
「はは、警察とか嘘だろ。おいお前、あの女も捕まえてこいよ」
やめて、やめて、やめて。顔を強く強く横に振った。
逃げて、詩織。助けて、詩織。
矛盾した感情が胸の中で暴れまくっている。
しかし、詩織が襲われそうになっている様子を見て、体のどこかにあったスイッチがようやくオンになった。
私は隙をついて男を全力で突き飛ばし、田んぼの用水路に落とした。それから、詩織を捕まえようとしているもう一人の男も後ろからタックルし、重たいテキストが入った鞄を顔面に叩きつけ、詩織の手を引いて全力で住宅街へ向かって逃げた。
自分の体のどこにそんな力があったのか、自分でも信じられない。
けれど、もう二度と詩織を傷つけたくないという思いと、こんなところで人生終わりたくないという思いだけが、自分の体を突き動かしていた。
怒声が後ろから聞こえたが、たまたま車が通りかかり、住民に見られることに怯えたのか彼らはそれ以上追ってこなかった。
けれど、私達は恐怖心に煽られながら、塾まで死にものぐるいで走り逃げた。
「どうしたの!? 二人とも」
顔面蒼白の私達を見て、塾長は血相を変えて私達を中に入れてくれた。
バク、バク、バク、と心臓がまだ激しく動いている。強く握り締めた詩織の手は、私と同じようにぶるぶると震えていた。
「詩織、大丈夫……?」
「ふ、冬香こそ……」
「う、うん……うん」
掴まれて赤くなった手首と、血だらけの膝を見て、私は何の涙か分からない涙をぼろっと零した。
「とにかく、すぐに親御さんと警察を呼ぶから。坂上さん、ドアに鍵かけて、温かい飲み物用意してあげて」
私達は固く手を握り締めあったまま、しばらく椅子に座ることもできずに、床にへたり込んで震えていた。
お母さんは、電話をかけてすぐに私を迎えに来てくれたけれど、私は詩織の親が迎えに来るまで手を離さなかった。
まるで悪夢のような、まだ現実味のない出来事のように思える。
「びっくりした……。帰ろうと思ったら、目の前で冬香が押し倒されてたから……」
「助けてくれて、ありがとう、詩織……」
これが夢だったらいいのにと、何度もそう思いながら、私は車の中でも震えていた。
誰かの怒りがこんな形で自分に降りかかることがあるなんて、思っていなかった。
福崎さんの怒りがここまで膨れ上がっていたなんて、知らなかった。
恐怖で震えが止まらない。震えた右手で震えた左手を押さえても、何も変わらない。
「ごめんね、お母さんが迎えに来てれば……っ」
ミラー越しに号泣している母の顔が見える。私は、どこか現実味のない世界を漂っているような、そんな感覚だった。
夢であってほしい。
さっき襲われかけたことも、詩織に恐怖を味わわせてしまったことも、今母親が自分を責めて泣いていることも、全部全部夢であって欲しい。
光のない暗い景色を眺めながら、私はぐちゃぐちゃになった英単語のテキストを抱き締めていた。
家に着くと、ドアの前でハルが体育座りをして待っていた。頬にはいくつもの涙の跡があり、私に何が起きたのか母親から聞いていることは明確だった。
「冬香! 冬香、おかえり……」
私の名前を勢いよく呼んだものの、ハルは涙目のまま、なんて言ったらいいのか分からないようだった。こんな風に言葉に詰まるハルを見るのは初めてだった。
私は、正直今、ハルと会いたくなかった。
「ハル君、心配してくれてありがとうね。今日は冬香も色々あったから……」
母親が何も喋らない私の代わりにそう言ってくれた。私は母の背中に隠れて、ハルと一切目を合わせなかった。それは、今の自分の気持ちを見透かされたくなかったからだ。
ハルは少し間を開けてから、家のドアの前から一歩離れた。
「はい、分かりました。今日は帰ります。……冬香、また」
ハルは何か言いたげな顔をしていたけれど、深々と頭を下げてその場から離れた。すれ違った時も、私はハルの顔を見ることができなかった。
でもきっと、怒りと悲しみに狂った顔をしていたんだと思う。
家の前に落ちていた彼の涙の跡を見て、そのことを知った。
◯
私は、あれから二週間学校を休んでいる。心が化石みたいに固まってしまって、外に出ることの恐怖心が振り払えないのだ。
このまま、ベッドの上でミイラになってしまうんじゃないかと本気で思うほど、私の心は止まっていた。
学校を休んだ理由は、担任が洗いざらい話してしまったと、美術部の小木さんからわざわざメッセージで知らされた。そしてそのことにキレたハルが教室で大暴れして大変だったということも聞いた。私はますます学校に居場所をなくしていた。
もし、福崎さんが仕掛けたことだと知ったら、ハルは今度こそ彼女のことを殴り倒してしまうんじゃないかと思う。
そのことも怖くて、私はハルに会いたくないと思っている。でも、一番の理由はそんなんじゃない。もっともっと汚い理由で、彼に会いたくないと思っている。
あの時私を襲おうとした男性二人は、現在警察が取り調べ中だ。詩織がライトを照らした時に写真もひっそり撮っていたお陰で、すぐに犯人は見つかった。
彼らが自白したら、福崎さんも何か問われることになるのだろうか。
正直もう、彼女に対しては、生涯関わりたくないという気持ちしかない。
「うっ……ふ……っ」
何をしていてもあの日のことがフラッシュバックして、震えが止まらなくなる。常に背後がぞくぞくして、何者かがいるような感覚にとらわれる。
再び震えだした手を押さえたその時、コンコンと部屋をノックする音が聞こえた。
「冬香、今日もハル君お見舞いに来てくれてるけど、どうする……?」
ハルはあれから毎日、私の家に来ては様子を伺ってくれている。だけど私はずっとそれを断り続けていた。
母も私の気持ちを尊重してハルを断ってくれていたけれど、二週間も断り続けていると、流石にバツが悪くなってきたようだ。
「メッセージだけでも、返せる時に返してあげられたら、ハル君安心できるかもね……」
「うん……そうだよね」
ハルから送られてくるメッセージすら返すこともできずに、人形のように時が経つのを待っている。
そんな私を毎日思って心配してくれているハルを想像すると、ほんの少しだけ胸が痛くなった。
「私、少しだけ、ハルと話そうかな……」
「……大丈夫? 分かった。呼んでくるね」
いつまでも逃げていてはいけない。分かっているけれど、体と心が追いつかないの。
母が階段を降りていく音を聞きながら、私は心臓の真上を何度もさすっていた。大丈夫。いつも通りに話せる。大丈夫。
深呼吸をしていると、コンコンとノック音が響き、それからゆっくりとドアが開いた。
ハルはドアの隙間から私を心配そうに覗いて、すぐに入ってかなかった。
「……冬香、大丈夫か」
「うん、中に入っていいよ」
そう答えると、ハルはこくんと頷いてから私の部屋に入ってきた。父親以外の男性と話すのはあの事件以来で、体が硬直していくのが分かる。ハルなのに、体は恐怖を思い出してしまう。
ハルは学ラン姿のままで、着替えもせずに私の帰りを待っていたんだろう。私はベッドに座り、彼は私と少し離れたミニテーブルの前に座った。
「……犯人、ちゃんと捕まるといいな」
ハルは福崎さんが仕向けたことだとは知らない。今も知らないということは、福崎さんのことはあの男二人も隠し通したんだろう。
ハルは俯きながら、一度自分の膝を強く叩いた。
「なんで冬香が……」
なんで私が。そんな途方も無い問いかけを、朝から夜まで何千回としてきた。
私と同じように悲しんでくれるハルを見て、胸がぎゅっと苦しくなった。その苦しみは、ハルが私を大切に思ってくれているからではなく、私の中のハルへの罪悪感がそうさせていた。
……ハル、ごめん。私ハルに謝らなきゃいけないことがあるよ。
この二週間、私はハルのことを恨んでいた。だから会いたくなかった。
ハルが福崎さんにあんなことをしなければ、こんな目に遭うことはなかったと、本気でそう思ってしまったんだよ。
「ハル……、私、大丈夫だから」
事件があった日も、すぐに駆けつけてくれたのに、私はハルの目を見ることすらできなかった。
私は弱い人間だから、福崎さんに対してあんなことしなければとか、ハルがあの場所にいなければとか、私一人で静かに学校生活を送っていればとか、そんなたらればでハルを憎んでしまった。
こんな汚い私、ハルに知られたくないよ。
詩織も、こんな気持ちで苦しんでいたのだろうか。まさかこんな形で自分にふりかかってくるなんて思わなかった。これは何かの罰だったんだろうか。
「大丈夫だから、もう心配しないで……」
見抜かないで。これ以上こんな私に近づかないで。ハルを傷つけたくない。自分も傷つけたくない。これ以上、苦しい思いをしたくないよ。
ハルのことが好きなのに、ハルのことが憎いなんて。
今の私は、矛盾の塊だ。
「だ、だからハルは、受験頑張っ……」
そこまで言いかけた時、ハルが私の腕をぐいっと引っ張って、私のこと強く強く抱きしめた。それは、今までで一番強い抱擁だった。
ハルは、私のことを安心させる為に抱きしめているようではなかった。私の震えた声を聞いた瞬間、怒りに近いような感情に煽られて、突発的に私を抱きしめたように感じた。それほどに、ハルに余裕がなかった。
「ハ、ハル……、離して」
細い声でそうお願いしたけれど、ハルは肩を震わせながら私のことを抱き締めている。
それから、私の耳元で、信じられない言葉を言ってのけた。
「福崎が、主犯だったんだな……」
まるで、私の心の中を読み解いたかのように、確信しきった声音でハルはそう呟いた。その声は低く、怒りに震えていた。
福崎さんのことは親にも話していないのに、どうしてハルに伝わってしまったのか。私はパニック状態のまま、バクンバクン動くハルと私の心臓の音をただただ感じていた。
「許さない……、絶対に」
「ハル、どうしたの……」
「許せない……、俺自身も……」
「どうして、福崎さんのこと……」
困惑しながら恐る恐る問い掛けると、ハルは私の耳元で深く呼吸をした。それから、何かを決心したように私の肩を両手で掴み、私の瞳の奥をじっと見つめた。
「……ずっと、言おうか迷ってた。ずっとずっと、頭の中の神経が切れるんじゃないかってくらい、この二週間考え続けてた」
ハルの声は凛としていて、頭の中に直に響いてくる。
よれよれの部屋着を着た私を真っ直ぐに見つめて、ハルは今までの人生全てが崩れてもいいと覚悟したかのような表情で、信じられない事実を私に告げた。
「……俺、冬香の鼓動と自分の鼓動を重ねると、冬香の気持ちと共鳴できるんだ」
「え……」
そんなこと言われたって、すぐに信じられるはずがない。何を言っているのか理解できずに固まっていると、ハルが信憑性を高める為にか、滔々と語り始めた。
「福崎が、あの男二人に、仕向けたんだな……。冬香は田んぼの用水路に男を突き落として、なんとか逃げた」
「な、なんでそこまで細かいこと……」
「男は、福崎に目をつけられるようなことをしたからだって言った。冬香は、その言葉を受けて俺のことを憎んでた。だからずっと会いたくないと思っていた」
「や、やめて……」
「今冬香は、自己嫌悪で苦しくて仕方ない」
こんな風に自分の気持ちを的確に解説されることなんて、経験したことがない。当たりすぎていて、怖いとさえ思ってしまった。
ハルは、本当に私の感情を読み取ってしまったの?
だとしたら、今までハグをしてきた回数だけ、私の気持ちは彼に駄々漏れてしまったのだろうか。
「嘘だ……、本当に……?」
衝撃で語彙も崩壊した。私は、頭の中を真っ白にした状態で、ハルに問いかけた。
ハルは、真剣な顔のまま、静かに頷いた。
「……本当は、何度も言おうと思ってた。この力がついた理由は、俺も分からない。ただ、幼い頃冬香が泣いている俺を抱き締めてくれる度に、この気持ちを簡単に分かってもらえればいいのにと懇願してから、段々鼓動が重なり合っていく感覚が鮮明になって……」
「そんな、ハグの魔法なんて、あんなのただの子供だまし……」
「信じたくないなら、信じなくていい」
ハルは、今にも壊れそうな顔でそう断言した。そんな彼の表情を見て、彼は真実しか言っていないということを、じわじわと理解していった。
それから、さっきの感情を読まれてしまったことを、急激に恥ずかしく思った。
一番知られたくなかった汚い自分を、私は今、全て彼に知られてしまった。見られてしまった。
恥ずかしい。嫌だ。消えてしまいたい。
「冬香が俺を憎むのは当然だ。それ以上自分を責めるな」
「や、やだ……、触らないで」
こんな自分を悟られるのが嫌で、肩に触れていたハルの腕を、私は静かに振り払ってしまった。ハルは一瞬傷ついた顔をしたけれど、こんな私の反応はとうに覚悟していたように、すぐに表情を元に戻した。
だけどその時の私は、自分のことでいっぱいいっぱいで、ハルの気持ちを汲み取る余裕なんて一ミリもなかった。
「ずっと、読まれていたの……? 心を覗こうと思って、私を抱きしめていたの……」
怯えきった私の瞳を見つめて、ハルは静かに首を縦に振った。その瞬間、私の目から涙がぽろっと零れ落ちた。
こんな大嫌いな自分の、一番嫌いなところが、ハルには筒抜けだったなんて。
もう怖くて、一緒にいられないよ。こんな自分をこれ以上知られたくないよ。ハルにだけは、知られたくなかったよ。
私は弱くて小さい人間だから、自分の心の裏まで知られることは、震えるほど怖いよ。
それが、大切な人であればあるほど、怖いよ。
「ハルが、怖い……」
その言葉を言ったときのハルの顔は、指先で触れたら粉々に崩れてしまいそうなほどだった。
でも、私は弱くて、色んな事件が重なりすぎて、全部抱えきれなくて、ハルがどんな思いで告白をしたのか、ちゃんと考えられていなかった。
どこにも行かないでと言ったのは私なのに。
ハルはどこにも行かないと言ってくれたのに。
私はハルの味方だよと言い続けていたのに。
「ごめん、ハル……っ」
それなのに、なんで私は、彼を突き放してしまったんだろう。
どうして手離してしまったんだろう。