では、あの二人が詠斗を頼ることがあるか。
振り返れば、そんなことは今まで一度たりともなかったように思う。こと紗友に関しては、頼んでもいないうちから詠斗のためにせっせと身を削るような人間だ。それこそ、兄の傑と同じように。
兄はまだいい。血の繋がった兄弟だから。歳が離れている上に社会人だ、いくらか責任があると言ってもあながち間違っちゃいない。
けれど、紗友は違う。
こんな言い方をしたくない相手ではあるが、紗友とは血の繋がらない他人同士だ。
紗友には紗友の人生がある。もっと広い世界を見て、自由に羽ばたいていってほしい。
大切に思うからこそ、自分という足枷を付けて縛りたくない。
たとえそばにいなくても、紗友を想う気持ちが変わることはないのだから。
隣の列、右斜め前方。
前から二列目の席に座って真面目に授業を受けている紗友の背中をそっと見やる。肩にかかる栗色の髪が、開け放たれた窓から流れ込む春風に揺れていた。
今回限りにするよ、お前の手を借りるのは――。
詠斗は小さく息をつき、気持ちを切り替えて授業に集中した。
*
放課後。
バスケ部の練習に向かう紗友と巧を体育館の前で見送ると、詠斗は校門のほうへと一歩踏み出した。しかし、その足をすぐさま止めることになる。
「……兄貴」
目の前に現れたのは傑だった。傑も詠斗の存在に気づいたようで、小さく片手を上げた。
「なんでここに……?」
「安心しろ、お前に用があってきたわけじゃない。仕事だ。ここの生徒が殺された事件で、ここへ来ない理由はないからな」
なるほど、学校関係者への聞き込みに来たわけか。
「兄貴、仲田翼先輩が刺し殺されたってのは本当?」
「……誰に聞いた?」
「紗友」
あの子か、と傑は後頭部を掻いた。
「本当だ。遺体が出たのは昨日の夕方だが、死亡推定時刻は一昨日の午後七時から九時の間。仲田翼の自宅近くに竹林があって、少し奥に入ったところで見つかった。普段からひとけのない場所で、犬の散歩で通り掛かった女性が犬がやたら吠えるのを不審に思い、林の中に踏み込んで発見に至ったという具合だ」
犬の嗅覚は人間よりはるかに優れているから、腐敗の始まった死体の臭いに反応したというところか。――しかし。
「仲田先輩が殺されたのは一昨日の夜なんだよな? 犬の散歩なら朝も行きそうなものだけど……」
「毎日少しずつルートを変えているのだそうだ。昨日の朝は発見現場の前を通らなかった。犬にとっては毎回同じ場所にマーキングしたいのだろうが、人間には飽きがくるからな」
そういうことか、と詠斗は納得したように呟いた。
殺害方法は異なるものの、殺害時刻はおよそ同じ時間帯だ。二つの殺人が同一犯の仕業だとすると、この時間帯にこだわらなければならない理由でもあるのか――。
顎に手をやりながら考えていると、傑に肩を叩かれた。詠斗はそっと顔を上げる。
「ところで、例の件はどうなった?」
「例の件って?」
「頼んでおいただろう? 羽場美由紀の霊からいろいろ聞き出すようにと」
「あぁ、そのことか」
たいした情報は聞き出せなかった気がするが、詠斗は美由紀から聞いた話を傑に伝えた。
不登校気味だった仲田翼とはあまり接点がなかったこと。
美由紀を殴った凶器は両手で掲げて持つような何か岩のようなもので、犯人は右の手首に腕時計をしていたこと。
殴ってきた相手はやはり松村知子ではなく、男だったように思うと言っていたこと。
ついでに、仲田翼が恐喝を繰り返していたらしいことも付け加えておいた。この辺りは警察が調べればすぐにわかることだろう。
「なるほど、羽場美由紀殺しについてはわずかだが手がかりが増えたわけだな?」
「中途半端でごめん。いろいろあって、先輩とまともに話をする時間がなくなっちゃってさ……」
「いろいろ?」
傑の瞳がきらりと輝く。しまった、と詠斗は咄嗟に後悔した。
「いろいろとは何だ? トラブルか? 嫌な思いをしたんじゃないだろうな?!」
「違うって! そういうんじゃないから!」
がしっと両肩を掴まれ、十五センチほど高い位置から鋭い眼差しで見下ろされる。詠斗はすかさず両手を使ってその腕を振り払った。どこからか視線を感じて周りに首を向けると、通りがかりの創花生たちから冷ややかな視線を浴びせられていた。はぁ、と大きく息をつき、詠斗はやや乱暴に頭を掻いた。
「……兄貴が余計なこと言うから」
ぽつりと呟くと、傑の眉がわずかに動いた。
「紗友と巧が先輩の件に首を突っ込んできて……それで、ちょっともめただけだよ」
へたに誤魔化さず、本当にあったことを正直に告げる。隠したって、どうせ紗友から伝わることだ。
ややあってから、傑はどこか悟ったように笑った。
「やはりお前は僕の弟だな、詠斗」
「……は?」
意味がわからないとばかりに、詠斗は眉間にしわを寄せる。すると、ぽん、と傑の大きな手が詠斗の頭に触れた。
「いつかお前にもわかるときが必ず来る――僕が穂乃果と一緒になれたのと同じように」
たくさんのぬくもりを秘めた優しい手。
その手を通じて兄が何を伝えたいのか、今の詠斗には少しも理解できなかった。
ぽんぽん、と詠斗の頭を軽くなで、傑はゆっくりと腕を下ろした。
「なぁ、兄貴……」
「――覚えておけ、詠斗」
やはり満足げに笑ったまま、傑は詠斗をまっすぐに見た。
「世の中、見返りを求める人間ばかりとは限らない」
あまりにも真剣なその眼差しに、詠斗は呆然としたままその場に立ち尽くすことしかできなかった。
兄の言葉に、どう返すのが正解だったのか。
どれだけ考えてみても、適切な答えは出てこなかった。
紗友と巧の協力を得ることになったと傑に伝えると、自宅マンションを会議室代わりに使うよう提供してくれた。
その場で穂乃果に連絡した傑から、「穂乃果が自分も会議に参加させろと言っているぞ」と告げられ、またもや詠斗は頭を抱えることになった。知らない間に何やらすっかり大ごとになっていて、こうなってしまうとどうあがいても逃げられそうにない。
何度もため息をつきながら詠斗は校門をくぐり、最寄り駅へと向かって歩き出した。
創花高校は詠斗の暮らす街の西端にあって、詠斗と同じ市立中学校出身の生徒は詠斗のように電車通学をする者と自転車で通う者とに分かれる。ちなみに紗友と巧は自転車通学派で、たいていの生徒は雨でも降らない限り自転車を利用していた。
自転車で通えれば通学にかかる電車賃を浮かせることができて親孝行なのだが、詠斗は自転車に乗れない。
人間の耳というのは体のバランスを保つ役割も担っていて、詠斗の場合、まっすぐ歩くだけでも実はひと苦労なのだ。
幼い頃から難聴と付き合ってきているおかげで完全に失聴した今でもよろけることなく歩けているが、自転車は危ないからと初めから練習させてもらえなかった。
とはいえ、自転車に乗れなくても日常生活にさわることはなく、身の安全を守ることを優先しても特別後悔はしなかった。
駅に着いた詠斗は、改札の中に入るといつもと反対側のホームへ続く階段を昇った。家に帰る前にどうしても寄りたいところがあったからだ。
五分と待たされることなく電車はやって来て、三つ目の駅で降りる。
創花高校と詠斗の生まれ育った家のある街の一つ隣の街。
商店と住宅がほどよいバランスで立ち並ぶ片側一車線道路の歩道をゆっくりと歩き、事前に調べておいた花屋の前で一度立ち止まる。通学に使っている鞄の中からペンとメモ帳を取り出してから、詠斗は店の中へと入っていった。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開いた瞬間、カウンターに立っていた赤いエプロンを身に付けた女性の店員に微笑みかけられた。花屋で働いている人の年齢などじっくり考えたこともなかったが、思っていたよりもずっと若い人でつい驚いてしまった。
「あ、すみません」
すたすたとカウンターに歩み寄ると、詠斗は手にしていたペンとメモ帳を店員に差し出した。
「僕、耳が聴こえないので、筆談をお願いしたいんですけど」
急ぎの用をこなしたり、初めましての人を相手にしなければならなかったりする場合、詠斗は迷わず筆談という手段に打って出る。「ゆっくりはっきりしゃべってください」とお願いしておきながら結局何度も聞き返すことになっては申し訳ないので、書いてもらったほうが互いに軽度のストレスを感じるだけで済む。長年の経験が選ばせる選択肢だ。
花屋のお姉さんは初めこそ驚いて目を大きくしていたけれど、すぐにペンを走らせてくれた。
御供えの花を見繕ってほしいと伝えると、予算や入れたい花などを尋ねられた。花屋での買い物は初めてで、何円出せばどれくらいの花束になるのかまるで見当がつかなかったが、お姉さんは懇切丁寧に説明文をメモ帳に書き記しながら少ない本数でも整って見えるよう配慮した花束を作ってくれた。
きちんと礼を言って店を後にし、目的の場所へと向かう。
少し前まで午後四時を過ぎれば辺りは暗くなり始めていたのに、今はようやく陽が傾き始めたかといった具合でまだまだ明るい。
携帯で地図を確認しながら、細い路地へと入っていく。車がすれ違うのに苦労しそうな道は南北に長く延び、なるほど抜け道に利用したいのもわかる。大きくて広い道ではどうしても信号が多くなってわずらわしい。