「紗友……」
と一言呟いただけでしばらく何も言えないまま、詠斗は紗友の目を見つめ返していた。紗友もまた、詠斗の言葉を待つようにじっとその視線に自分の視線を重ねている。
「……どうして」
ようやく口を開くと、凪いだ春風が詠斗と紗友の髪を揺らした。
「どうしてここにいるんだよ? 紗友」
「何言ってるの、もうとっくに授業始まってるんだよ?」
はっとして詠斗は胸ポケットに手を突っ込んだ。取り出した携帯で時間を確認すると、午後一時三十三分。五時間目の授業は三分前に始まっていた。
しまった、と思ったがもう遅い。つい美由紀との会話に夢中になって、アラームの振動にまったく気が付かなかった。紗友がここへ来たのは、授業が始まっても教室に戻って来なかった自分を呼びに来たからだ。ここでも詠斗は頭を抱えることになってしまった。
おそらく紗友はこの一瞬で理解しただろう。詠斗の周りで、今何が起きているのかということを。
「……ねぇ、詠斗」
詠斗が予想した通り、紗友は早速切り出してくる。
「本当だったの?……昨日言ってた、誰かの声が聴こえたっていう話」
恐々こわごわといった風で尋ねてくる紗友に、詠斗は何と答えるべきか迷った。何より、今はもう授業中だ。一刻も早く教室へ戻らなければならない。
「……先輩、まだそこにいますか?」
『はい、ここに』
紗友から目を逸らし、詠斗は斜め上を仰ぐ。声が返って来たことに安堵すると、間髪入れずに言葉を紡いだ。
「すみません、一度授業に戻ります。詳しいことはまた改めて伺いたいと思うんですけど、あなたに会うにはここへ来ればいいんですか?」
『そうですね。どうやら私は生きていた頃にゆかりのあった場所にしか現れることができないようなので』
「ゆかり?」
『今のところ、この学校か、自宅か、事件現場……この三か所では問題なく幽霊としていろいろと見聞きできています。……そうだ、いっそ幽霊らしくあなたに憑とりついてみましょうか? そうすればあなたと私はいつでも一緒に行動できますよね!』
「やめてください、縁起でもない」
たとえ高校の先輩だとしても、霊に憑りつかれるなんて御免だ。ただでさえ不自由を背負う身だというのに、これ以上負担になるようなことになっては面倒以外の何物でもない。
『ふふ、大丈夫ですよ。肝心の私が人間に憑りつく方法を知りませんから』
「……そういうのって、自然にわかったりしないんですか」
『しないようですね、どうやら』
そういうものなのか。なんだかややこしくなってきたので、これ以上深く掘り下げるのはやめた。
「……了解です。何はともあれ、事件のことも含めてもう一度状況を整理したいので、明日の同じ時間にまたここへ来ます。僕が来たら、あなたのほうから声をかけてください」
『わかりました。それでは、授業がんばって』
その言葉を最後に、美由紀の声が聴こえることはなかった。自宅へ戻ったのか、はたまた自分が死んでしまった場所へと飛んで行ったのか――。
「……ごめん、詠斗」
ぽん、と肩を叩いてから、紗友はゆっくりと口を開いた。
「何が一体、どうなってるの」
動揺やら驚愕やらで紗友の顔はすっかり青白くなってしまっている。それはそうだろう。詠斗にとってはれっきとした美由紀との会話でも、おそらく紗友には詠斗の声しか聴こえていない。何やら目に見えないものを相手にしている様子の幼馴染に不信感を抱くばかり、といった雰囲気が全身からじわじわと滲み出ていた。
「端的に言えば、勘違いじゃなかったってことだな」
昨日、紗友には「勘違いだった」と言った。どんなに大きな叫び声でさえ、この耳には届くはずがないのだと。
「聴こえるんだ――春休み中に亡くなった先輩の声が」
血の気の引いた顔をしていた紗友の眉がわずかに動いた。
「春休み中に、って……まさか、美由紀先輩のこと?」
「知ってるのか?」
「うん、女バレのマネージャーだった先輩だよ」
「女バレって……どうしてバスケ部のお前がバレー部の先輩のことを?」
「私を誰だと思ってるの? 中部(なかぶ)の人のことならだいたい把握してるよ」
『中部』とは中で活動する運動部――つまり、主に体育館で行われる屋内スポーツの部活動を指す総称としてこの学校で使われる言葉である。
女バレこと女子バレーボール部をはじめ、バスケ部、バドミントン部、卓球部、ハンドボール部などが対象だ。それに対して、屋外スポーツである野球部、テニス部などの運動部は『外部(そとぶ)』と呼ばれている。ちなみに吹奏楽部や茶道部、英語部などの文化系部活動は、その名の通り『文化部』という何の捻りもない総称が使われていたりする。
「さすがは紗友さん、相変わらず人脈の広いことで」
「世渡り上手と言ってちょうだい」
それはちょっと違うだろうと思ったが、スルーしておくことにした。冗談でも言っていないと、今は気持ちがついていかないのかもしれない。幼馴染が突然「死者の声が聴こえる」なんて言い出して冷静でいられるほうがいろいろと疑う。
はぁ、と詠斗はひとつ息をついた。
「信じられないかもしれないけど、先輩の声が聴こえるのは本当のことだ。もっと言えば、先輩の声以外の音は今までどおり何も聴こえない。俺がひとりでしゃべってるように見えるのは、俺がおかしくなったわけじゃないから」
「うん、それはなんとなくわかった」
「なんとなくかよ」
「そりゃそうでしょ! 私には美由紀先輩の声が聴こえないし、何なら姿も見えないんだから!」
「あぁ、先輩の姿なら俺にも見えてないよ。霊感の強い人には見えるんだろうって先輩は言ってた」
むん、と顔をしかめる紗友。無理もない、詠斗が美由紀と会話できているのは事実だが、それを証明する手段がないのだ。きっとこの先もずっと証明できないままだろう。紗友を納得させるには、一体どうすればいいのやら。
「とりあえず、今は教室に戻ろう。詳しい話はまた」
そう言って、詠斗は紗友とともに校舎内へと駆けていく。授業が始まって、すでに十分が経とうとしていた。
当然のごとく、五時間目と六時間目の授業はまるで集中できなかった。
常に先生の口もとを見ていないとすぐに何を話しているのかわからなくなってしまう詠斗にとって、授業中に他ごとを考えることは致命傷を負うのと同義だ。何度もうわの空になってしまうことに気付いた時点で、今日の授業は初めから受けなかったことにすると決めた。それが集中できない時のいつものやり方だった。
授業内容は家に帰ってからゆっくり復習することにして、詠斗はぼんやりと美由紀の話を振り返り始めた。
頭を殴られ、階段の上から放り投げられたという美由紀。警察の捜査でも、そこまで詳しくわかっているのだろうか。
美由紀の友人が警察から疑われているというのだから、殺人事件として捜査しているのは間違いない。さすがはプロといったところか。事故に見せかけようとした犯人の意図は簡単に見破られてしまったわけだ。
美由紀の言葉を信じるとすれば、犯人は男性である可能性が高い。目撃情報など、犯人が男性であるとする何か根拠らしいものを警察がまだ掴んでいないのなら、この美由紀の証言で捜査を前進させることができそうだが、いかんせん死者の証言だ。先ほどの紗友と同様、捜査員を信じさせる手段がない。今の段階ですでに警察が犯人を男性と絞って捜査していることを願うのみだ。
はぁ、と無意識のうちにため息が漏れ出た。
いくら死者の声が聴こえるからといって、すぐさま犯人を見つけられるわけじゃない。美由紀が犯人を目撃していれば話は変わってくるのだが、今手元にある情報だけでは手がかりなど何もないに等しいわけで。
――やっぱり、話してみるしかないよな。
脳裏にある一人の男の顔が浮かぶ。自然と、詠斗の表情が曇った。
できることなら頼りたくない相手だけれど、今回ばかりはその手を借りないわけにはいかないようだ。それに、さっき美由紀に「相談してみます」と言ってしまったし。
もう一度、今度は自分の意思で深くため息をつく。
帰りの電車で一度連絡を入れてみるか、と気の進まない心をどうにか前向きにさせ、詠斗はいつの間にか黒板いっぱいにびっしりと書かれていた数式をノートに写し始めた。
*
放課後。
まっすぐ校門に向かって歩いていると、誰かが駆け寄ってくる気配を感じた。次の瞬間には肩を叩かれていて、振り返るとそこには紗友の姿があった。普段ならバスケ部の練習のために体育館へと向かっているはずなのだが。
「ねぇ、さっきの話の続きだけどさ」
「さっきの話?」
「その……美由紀先輩のこと」
あぁ、と詠斗は短く答える。
「言ったろ? もう少し状況がはっきりしてきたら話すって」
「うそ。詠斗がそう言って逃げるときは、いつまで待っても話してくれないもん」
私を欺けると思ってるの? とさっきも聞いたようなセリフが今度は顔に書かれている。詠斗はため息をついた。
「……先輩を殺した犯人を見つけてほしいって」