Voice -君の声だけが聴こえる-


 しばらく待っていると、屋上の扉が開かれた。

 姿を現したのは紗友だった。昨日頼んでおいたとおり、一人の女子生徒を連れてきてくれた。

「お待たせ」

 紗友が言うと、詠斗はその後ろについてきた女子生徒に向かって頭を下げた。

「すみません、ご足労いただきまして」

「いいよ。……あ、これくらいの速度ならわかる? あたしの言葉」

「はい、お気遣いありがとうございます」

 耳のことは自分から話そうと思っていたのだが、どうやら紗友が先に事情を話してくれていたようだ。こういう細やかな心遣いにもきちんと礼を返していかないと、と詠斗は改めて紗友にも「ありがとう」と言った。

「で、何の用?」

 女子生徒――松村知子は改めて詠斗と向き合った。
 美由紀の親友であり、美由紀殺害の第一容疑者ともくされていたその人は、ボーイッシュなショートヘアが切れ長の目もとと高い背によく映えていて、いかにも運動部の部長らしいスマートな容姿の女性だった。これは女子にもモテるタイプだな、と詠斗はしみじみ観察してしまっていて、小さく首を振ってから口を開いた。

「はい、美由紀先輩のことで」

 あれやこれやと説明したらむしろややこしくなってしまいそうだったので、詠斗は努めて簡潔に話を進めることにした。

「俺は生まれつき耳が不自由で、中学の時に何の音も聴こえなくなりました。でも、つい昨日まで、俺の耳には美由紀先輩の声が聴こえていたんです」

 正直に、起こっていた出来事をそのまま話すと、知子の顔が急に険しくなった。
「……何を言ってるの? 君は」

「おかしいですよね。俺も最初は自分のことを疑いましたよ。でも、俺に聴こえていたのは間違いなく亡くなった羽場美由紀先輩の声で、美由紀先輩はあなたの無実を証明してくれと俺に頼んできたんです」

 すべての始まりを口にすると、なんだが不思議な気持ちになった。一週間前、ここで初めて美由紀の声が聴こえた時は、まさか事件があんな結末を迎えるとはつゆほどにも思っていなかったのだから。

 詠斗がうっすら苦笑いを浮かべると、知子はますます険しい顔になった。

「……本当なの? 紗友」

 知子は隣に佇んでいる紗友に目を向けた。俄かには信じられないのも頷ける。初対面の後輩が死者の声を聴いて自分の無実を証明しようとしたなんて、詠斗ですら夢じゃないかと疑ったほどだ。

「嘘みたいな話ですけど、本当なんです。詠斗は嘘をつきませんし、実際に美由紀先輩の手を借りて事件を解決してみせましたから」

 誰よりも自信を持って答える紗友に、「そう」と知子は紗友から目を逸らした。

「美由紀が……」

 美由紀が亡くなって、まもなく二週間が経とうとしている。無事に犯人も捕まったところで再び美由紀の名を聞くことになり、どんな気持ちでいればいいのかわからないといったところだろうか。

 かすかに瞳を潤ませている知子に、詠斗は静かに口を開いた。

「美由紀先輩から聞きました。大事な試合の前なのに、手首を疲労骨折したって」

 無意識だろう、知子は右の手首をかばうように左手で覆った。白くテーピングされているのがちらりと見える。

「その話をしてくれた時の美由紀先輩、とても悔しそうな声をしていました。あなたの気持ちを思ってなのか、喧嘩したまま二度と会えなくなってしまったからなのか……とにかく、ひどく落ち込んでいるみたいだったんです」

 殺されておきながら、なお親友のことを案ずる美由紀。今はもう、その想いを伝えられるのは詠斗しかいない。だからこそ、詠斗はこうして知子の前に立ったのだ。

「美由紀先輩、本当にあなたのことを大切に思っていたんだと感じました。あなたが部長として作り上げてきた大切なバレー部と、あなたの未来とを天秤にかけて、美由紀先輩なりに考えてあなたの試合出場に待ったをかけたんだと思います。俺が聴いたかぎり、美由紀先輩があなたを想う気持ちに嘘はなかった。俺の言葉じゃ伝わらないかもしれないけど、美由紀先輩はいつも……いえ、今でもあなたのことを一番に想っているはずです」

 言い終える前に、知子の瞳から涙がこぼれ落ちていた。

 知子もまた、美由紀のことを大切な人だと思っているのだろう。絶たれるはずのなかった未来を絶たれたのは美由紀だけではない。知子にとっても、美由紀と歩んでいける未来を失ってしまったのだ。悲しみに暮れるのも無理はない。

「あなたの思うままにするのがいいんだと思います」

 少し間をあけてから、詠斗はそう付け加えた。
「なんだかんだ言っても、美由紀先輩なら最後はあなたの決断を尊重してくれるんじゃないでしょうか」

 美由紀のように綺麗には笑えないけれど、少しでも美由紀の想いが伝わればと、詠斗はささやかな笑みを知子に向けた。

 ややあって、知子は涙を拭ってうんうんと首を縦に振った。

「ありがとう」

 凛々しく笑って、知子は詠斗とまっすぐ目を合わせる。その瞳は、何かを決断したかのような色を湛えていた。

「もしまた美由紀と話すことがあったら伝えてくれる?――あたしもあんたのことが大好きだよって」

 潤んだ瞳を陽の光がきらめかせる。詠斗は肩をすくめた。

「美由紀先輩、昨日天国へ旅立って行きましたよ。さわやかイケメンを捕まえて幸せになるんだそうです」

「何それ、美由紀がそう言ったの?」

「はい。あと、可愛いネコも飼いたいらしいです」

「ははっ、美由紀らしいな。あの子、モフモフした小さい動物が大好きだから」

 モルモットとかね、と知子は笑う。モルモットとなんて一体どこで触れあうのだろう。頻繁に動物園にでも行っていたのだろうか。

「吉澤くん、だっけ?」

 知子に問われ、「はい」と詠斗は返事をする。

「ありがとうね。耳……大変だろうけど、何か困ったらいつでも声かけてよ。美由紀の代わりじゃないけど、あたしで良ければ力になるからさ」

 思いがけない一言に一瞬驚いたが、すぐに「ありがとうございます」と答えた。社交辞令でなく、心からの感謝を込めて。

 知子の隣で紗友が柔らかく笑っている姿が目に入って、詠斗は少し恥ずかしい気持ちになったのだった。




 知子が先に教室へ戻り、屋上には詠斗と紗友の二人きり。
 詠斗の元へ歩みより、紗友は遠く空を見上げた。

「すごいなぁ、美由紀先輩は」

 そう言った紗友の瞳には尊敬の色が宿っている。

「美由紀先輩の一言で、たくさんの人の心が動くんだもん。どうしたらあんな素敵な人になれるのかなー?」

 心からの思いを口にしていることは一目瞭然。詠斗はふっと笑みをこぼした。

「純粋に、素直だからだろうな」

 え? と紗友は詠斗を見やる。改めて、詠斗は紗友とまっすぐ向き合った。
「……紗友」

 美由紀との最後の会話を思い出す。

 何を幸せと思うかは、その人にしか決められない。

 紗友の幸せは、紗友が決めるもの――。

「俺はお前に幸せになってほしいと思ってる。誰よりも幸せな人生を歩んでほしいって。俺のそばにいたら、苦労する未来しか訪れない。……俺には、お前を幸せにしてやることができそうにないんだ」

 ずっと、そう思っていた。

 そう思うことで、紗友の想いから逃げ続けていた。

 でも――もう、逃げない。
 
「それでも俺は、お前に頼ってもいいのか?」