「……ダメです」
ぽつり、と詠斗は俯きながら呟いた。
「アイツは……アイツには、もっと広い世界でいろんな人と出会ってほしい。俺のもとにいたって、苦労をかけるばっかりで……」
『それはあなたが決めることじゃないでしょう?』
え? と詠斗はもう一度顔を上げる。
『何を幸せと思うかなんて、他人には決めようのないことです。紗友ちゃんの人生なのですから、紗友ちゃんの心を尊重してあげないと』
男らしく、と美由紀は胸を張って付け加えた。その姿があまりにもまぶしくて、詠斗は思わず目を逸らした。
『幸せになってください』
美由紀は優しくそう言った。顔を上げれば、今までで最高の笑顔を浮かべる美由紀の姿がそこにあって。
『私も天国で幸せになります。さわやかイケメンを捕まえて』
ふふ、と楽しそうに笑う美由紀。『あ、可愛いネコも飼いたいですね』と、また一段としまりのないことを口にしている。
ごしごし、と詠斗は乱暴に目もとを拭った。最後くらい、ちゃんと笑っていなくちゃいけない。
「……もっと早く」
それなのに、また涙が溢れてきて。
「もっと早く、先輩に出会いたかった」
これでお別れなんて、どうして受け入れることができるだろう。
『私もです』
涙でぐしゃぐしゃの顔をした詠斗に、美由紀はそっと微笑みかけた。
『生きているうちに、あなたと出会いたかった』
その笑顔が何よりも綺麗で、ずっとそばで見ていたいと思った。
それが叶わないことが悔しくて、どうにかして美由紀を繋ぎ止めておきたくて。
――もっと早く。
もっと早く、先輩に背中を押してもらえていたら――。
どこまでも無力な自分に腹が立って、また涙が溢れてくる。
でも、と美由紀はからりとした声で言う。
『そうなると、強力なライバルと戦わなくちゃならなくなっていたんですよね』
「ライバル?」
『そう……残念ながら、私にはまったく勝ち目がなさそうな相手です。だから、これでよかったんですよ』
ふふふ、と屈託のない笑みを浮かべて、『さて』と美由紀は詠斗から離れた。
『そろそろ行きます。あなたも授業がありますしね』
言われるがまま携帯で時刻を確認すると、ちょうど始業五分前のアラームが振動したところだった。
「先輩……」
『大丈夫です』
また美由紀のことを呼び止めようとした詠斗に、美由紀はひとつ頷いた。
『またきっと、ふらりとどこかで会えますよ。いつか誰かが言っていました――別れは出会いの始まりなんだって』
美由紀の姿が、どんどん薄くなっていく。きらめいた残光が、美由紀の笑顔をより一層輝かせる。
『強い人になってください。次に会った時に私ががっかりするようなことのないように』
約束ですよ? と美由紀は右手の小指を立てた。泣きながら、詠斗は力強く頷いた。
『あなたと出会えて良かった』
その言葉を最後に、美由紀の姿は見えなくなった。
すっと通り抜ける春の風が、詠斗の髪を静かに揺らす。
「……俺もです、美由紀先輩」
誰もいない空を見上げてそう言った詠斗の声は、美由紀の耳に届いただろうか。
突き抜ける青が、そっと微笑みかけてくれたような気がした。
翌日の昼休み。
やっぱりいつもどおり、詠斗はひとり屋上にいた。
青い空は今日も高く、どれだけ見上げても美由紀の声は聴こえない。
たった一週間だけ取り戻せた、この耳の声を聴く力。再び失ってしまったけれど、目を閉じれば美由紀の笑顔が蘇って、自然と笑うことができた。それだけで、少し強くなれた気がした。
先輩の分まで生きていく、なんておこがましいかもしれない。
それでも、前を向いて歩いていくことだけは諦めたくないと思う。
先輩が教えてくれたことを、いつも胸に抱いていよう。
弱くても、ありのままの自分でいることの強さを。
しばらく待っていると、屋上の扉が開かれた。
姿を現したのは紗友だった。昨日頼んでおいたとおり、一人の女子生徒を連れてきてくれた。
「お待たせ」
紗友が言うと、詠斗はその後ろについてきた女子生徒に向かって頭を下げた。
「すみません、ご足労いただきまして」
「いいよ。……あ、これくらいの速度ならわかる? あたしの言葉」
「はい、お気遣いありがとうございます」
耳のことは自分から話そうと思っていたのだが、どうやら紗友が先に事情を話してくれていたようだ。こういう細やかな心遣いにもきちんと礼を返していかないと、と詠斗は改めて紗友にも「ありがとう」と言った。
「で、何の用?」
女子生徒――松村知子は改めて詠斗と向き合った。
美由紀の親友であり、美由紀殺害の第一容疑者ともくされていたその人は、ボーイッシュなショートヘアが切れ長の目もとと高い背によく映えていて、いかにも運動部の部長らしいスマートな容姿の女性だった。これは女子にもモテるタイプだな、と詠斗はしみじみ観察してしまっていて、小さく首を振ってから口を開いた。
「はい、美由紀先輩のことで」
あれやこれやと説明したらむしろややこしくなってしまいそうだったので、詠斗は努めて簡潔に話を進めることにした。
「俺は生まれつき耳が不自由で、中学の時に何の音も聴こえなくなりました。でも、つい昨日まで、俺の耳には美由紀先輩の声が聴こえていたんです」
正直に、起こっていた出来事をそのまま話すと、知子の顔が急に険しくなった。
「……何を言ってるの? 君は」
「おかしいですよね。俺も最初は自分のことを疑いましたよ。でも、俺に聴こえていたのは間違いなく亡くなった羽場美由紀先輩の声で、美由紀先輩はあなたの無実を証明してくれと俺に頼んできたんです」
すべての始まりを口にすると、なんだが不思議な気持ちになった。一週間前、ここで初めて美由紀の声が聴こえた時は、まさか事件があんな結末を迎えるとはつゆほどにも思っていなかったのだから。
詠斗がうっすら苦笑いを浮かべると、知子はますます険しい顔になった。
「……本当なの? 紗友」
知子は隣に佇んでいる紗友に目を向けた。俄かには信じられないのも頷ける。初対面の後輩が死者の声を聴いて自分の無実を証明しようとしたなんて、詠斗ですら夢じゃないかと疑ったほどだ。
「嘘みたいな話ですけど、本当なんです。詠斗は嘘をつきませんし、実際に美由紀先輩の手を借りて事件を解決してみせましたから」