「兄貴」
もう十分だと目で訴えると、傑は一つ頷いて神宮寺と千佳の前に立った。
「僕の弟を愚弄したことは許しがたいが、君達が僕のもとへ自首してきたことにしよう。これもまた、弟の願いなのでな」
ゆっくりと立ち上がった二人を連れ、詠斗達三人の前から離れていった。
まだ涙を流している紗友の背をそっとさすってやると、紗友は詠斗の胸にしがみつき、肩を震わせて泣いた。
詠斗は優しく紗友を抱き寄せ、黙ったまま髪をなでる。少しずつ、少しずつ、紗友は落ち着きを取り戻していった。
こうしてやることが正解だったのか。
今の紗友に、どんな言葉をかけてやればいいのか。
詠斗にはわからなかった。
月曜日。
創花高校はどこもかしこも神宮司隆裕と草間千佳が逮捕された話題で満ち溢れ、授業が始まってもなおただならぬ空気が漂うほどの異様な光景が学校中に広がっていた。
考えてみれば、それも仕方のないことなのかもしれない。同じ高校の生徒が三人も殺され、それを犯したのもまた同じ高校の生徒だというのだから、もはや小説や映画の世界である。こんな経験、したくてもそう簡単にできるものではない。
そんな中、詠斗はただひとりいつもと変わらぬ高校生活を送っていた。
事件についてはほぼ当事者のようなものだったし、犯人が捕まった瞬間にも立ち会った。今更騒ぐことでもなければ、一緒になって騒ぐ相手もいない。詠斗にとってこの事件はすでに過去の出来事だ。土曜日のことを思い出しても気が滅入るばかりで、何の得にもなりはしなかった。
その日の昼休みも、詠斗は屋上でひとり穏やかなランチタイムを過ごしていた。
先週よりも少しだけ暖かさが増し、こんな感じですぐに夏がやってくるんだろうな、などとぼんやり考えながら、遠くの空にゆったりと流れる薄い白雲を眺めていた。
傑に聞いた話によれば、神宮司隆裕と草間千佳はそれぞれ素直に罪を告白したらしい。
神宮司が美由紀と猪狩華絵撲殺に使用した凶器は自宅にあったレンガで、庭に埋めたとの供述通りに発見された。
千佳が仲田翼を刺したのはペティナイフ。こちらもまだ処分される前で、千佳の自室に隠すようにして保管されていた。勢いをつけて心臓をひと突き。なかなか勇気のあることをしたものだと詠斗はうっかり感心してしまった。
今後、二人がどのような道を歩むのかはわからない。この先の人生ではその道を踏み外すことのないようにと祈るばかりだ。
最後の一口を食べ終え、ふぅ、と一つ息をつく。
結局、証拠らしい証拠は二人が罪を認めた後で出てきたのであって、あの時シラを切られていればこうして事件が無事幕を下ろすことにはならなかっただろう。そもそも、殺人の被害者である美由紀の証言を使って自白を引き出すなんてナンセンスなわけで、今回は運が良かったとしか言いようがない。
つまるところ、今回の事件を解決したのは美由紀なのである。自分が殺された事件の犯人を自分で挙げた。前代未聞もいいところだ。
彼女の声が聴こえていなければ、事態は膠着《こうちゃく》したまま時だけが過ぎていき、詠斗がこの事件に関わることもなかっただろう。考えるだけ無駄なのだろうけれど、つい「どうしてこうなったのか」と思ってしまう。
それに、考えることなら他にもある。
こちらのほうが詠斗にとっては大きな問題だった。
『こんにちは』
包みに弁当箱をしまい終えたタイミングで、美由紀の声が聴こえてきた。
「こんにちは、先輩」
『ありがとうございました、事件を解決してくださって』
いきなり事件の話を振られ、詠斗は少々面喰らってしまった。
「俺は何もしてないですよ。先輩のおかげで解決できたんですから」
『そんなことはありません。あなたがいてくださらなければ、私はいつまでも行き場を失ったまま、叶わぬ願いを抱えてこの世をさまよっていたでしょうから』
少し引っかかる言い方をした美由紀に眉をひそめ、詠斗はそっと立ち上がった。
「先輩……」
『さて、詠斗さん』
詠斗が言いかけるのを遮り、美由紀は詠斗の名を口にした。
『先日の問いの答えは見つかりましたか?』
う、と詠斗は言葉を詰まらせる。
これこそが、詠斗にとって一番に考えるべき問題だ。――何故自分は、美由紀のことを強い人だと思うのか。
時間を見つけては何度も考えてみたけれど、美由紀の求めていそうな答えはついに見つけられなかった。考えれば考えるほど美由紀のことを強い人間だと思った自分のことがわからなくなって、すっかり袋小路に入り込んでしまっていた。
『あらあら、困りましたね』
黙ったまま突っ立っていると、美由紀が苦笑を浮かべるような声で言った。
『あなたの答えを聞いてから旅立とうと思っていたのに。これでは気持ちよく天国へ行けないじゃないですか』
え、と言ったつもりが、声にならなかった。
今、美由紀は何と言っただろう。
天国へ、行く――?
『お別れを、言いに来ました』
呆然としている詠斗に向けて、美由紀はそう静かに告げた。
『あなたと会うのは、これが最後です』
確かに耳に届いた声に、詠斗は言葉を失った。
「……っ」
おかしい。
聞きたいことが山ほどあるのに、息が詰まって声が出せない。
いつだったか、美由紀は言っていた。この先のことは天命に従うしかないのだと。
犯人が捕まって事件が解決し、美由紀の願いは叶えられた。
もう今までのように、誰かを求めて叫び続ける必要はない。
この世を漂う理由がなくなった。だから、美由紀は次の行き先へと導かれていくのだ。
――ということは。
「……待って」
自分の声すらよく聴こえないこの耳でも、ようやく絞り出した声が震えていることは理解できた。
「待ってくださいよ、先輩」
あぁ、どうしてこんなことを口にしているのだろう。
こんな日が来ることくらい、とうの昔にわかっていたはずじゃないか。
いつまた音を失ってもいいようにと、覚悟を決め直したばかりだというのに。
「ねぇ、待って」
それなのに、どうしてこの口は美由紀を引き留めようとしているのだろう。
もはやこの世のものでなくなってしまった美由紀の魂は、天国へ行ってしかるべきなのに。