Voice -君の声だけが聴こえる-

「美由紀先輩ッ!!」
『――はい、何でしょう?』

 はっ、と詠斗は怖い顔をしたまま斜め上を見上げた。

「……良かった、聴こえた」
『すみません、ちょっと考え事をしていたもので』

 すとん、と力なく詠斗はベンチにへたり込んだ。はぁ、と長く息を吐き出す。

『どうかされたんですか?』

 悪意のかけらもないその一言に、詠斗はそっと俯いた。

「……怖かった」

『え?』

「また何も聴こえなくなったのかと思って……。いつもは先輩から声をかけてくれるのに、今日は全然聴こえてこなかったから」
 自分の声すら聴こえない詠斗だったが、今はその声が震えているのがわかる。おかしいな、と自嘲気味に笑いながら、再び顔を上げて宙を仰いだ。

「今更何を怖がってるんでしょうね、俺は。もう長いこと、音のない世界で生きてきたはずなのに」

 立ち上がり、転落防止柵に両腕を乗せて体重を預ける。

「ここに来れば、先輩の声が聴こえてくるものだと思ってた。聴こえないことのほうが当たり前なのに、それこそ当たり前のように聴こえるものだと思い込んでました」

 凪いだ春風の中で、詠斗は遠い目をして雲ひとつない青空を見上げた。

「ダメですね。一度失ったものを取り戻してしまうと、ついそれに甘えたくなってしまう。いつまた聴こえなくなってもいいように、覚悟だけはしておかないと」

 ふぅ、と息を吐き出して、詠斗は体の向きを変えて今度は柵に背を預けて立った。
「また一人、被害者が出ましたよ」

 美由紀に何か言われる前にと、詠斗は昨夜の事件の話を振った。

『えぇ……私が考えていたのはその件についてです』

 さすがにもう知っていたか、と詠斗は話を先に進めた。

「猪狩華絵さんとは同中だって聞きましたけど、知り合いだったんですか?」

『知り合いも何も、幼馴染みたいなものです。華ちゃんは私の弟と同級生で、通っていた幼稚園も同じでした。家も近所でしたし、小学生の頃は弟も一緒になってよく遊んでいましたよ』

 かわいそうに、と美由紀は今にも泣き出しそうな声で呟いた。もしかしたら、涙を流しているのかもしれない。
「気の強い人だって聞きました。いじめをしていた、とか」

『昔からはっきり物を言う子ではありましたね。そういう性格なのだから仕方がないのでしょうけど、敵を作りやすい子だったことは否定しません。中学に上がってからは疎遠になってしまったので、いじめについてはよく知らないのですけれど……』

 そうですか、と詠斗は腕組みをした。

 第一の被害者・羽場美由紀と第三の被害者・猪狩華絵は幼い頃から付き合いのあった間柄だった。美由紀の弟も含め、当然そこには共通の友人・知人が存在するだろう。その辺りをつついてみれば、どこかで仲田翼ともつながりが見えてくるかもしれない。

「……ねぇ、先輩?」

 はい、と美由紀の声が返ってくる。そこに先ほど滲ませていた悲しい響きはなく、いつも通りといった雰囲気が感じられた。

「もし犯人がわかって事件が解決したら……先輩、どうなっちゃうんですか?」

 ふと頭によぎったことをそのまま口に出してみる。

 もとはと言えば、美由紀に頼まれて始めた犯人捜しだ。その役目を果たし、美由紀の願いが叶った時、美由紀の霊は一体どうなってしまうのか――。

『残念ながら、それは私にもわかりません』
 至極真っ当な答えが返って来て、詠斗は少し目を細めた。

『何せ、幽霊になったのは初めての経験なものですから。道標《みちしるべ》もありませんし、すべてを天命に任せるしかないようです』

 ふふっ、と笑ったその顔は見えないけれど、きっとものすごく前向きで楽しげなのだろうと思った。はぁ、と詠斗は一つ息をつく。

「……先輩、悩みなさそうだねってよく言われたでしょ?」

『なっ?!……し、失礼なこと言わないでくださいよっ』

「やっぱりそうだったんだ」

『あ、今バカにしましたね?! ありましたよ、私にだって悩みの一つくらい!』

「どんな悩み?」

『えーっと……ケーキに合うのは紅茶かコーヒーか、とか?』

「小さい悩みだなぁ」

 ははっ、と詠斗は声に出して笑った。同時に、こんな風に笑ったのはどれくらいぶりのことだろうと、少しせつない気持ちも芽生えたのだった。
 部活動が中止になってしまったため帰宅を余儀なくされた紗友と巧に、詠斗はまんまと捕まってしまった。紗友が連絡を入れたと言い、そのまま穂乃果の待つ兄の家に強制連行されることになった。

 詠斗は電車で、紗友と巧は自転車で、それぞれ傑の自宅マンションへと赴いた。待ってましたと言わんばかりの凛々しい笑顔で穂乃果に迎え入れられた三人は、リビングに足を踏み入れた瞬間、同時に「あっ!」と声を上げた。

「兄貴!……なんで?!」

 ダイニングテーブルに着いて柔らかく微笑んでいたのは、誰あろう傑だった。

「なんで、も何も、ここは僕の家だぞ?」

「そういうことじゃない! どうしてこんな時間にここにいるんだよ?!」

「お前達がまた何やら楽しそうなことを始めようとしていると穂乃果から聞いてな。せっかくだから僕も会議に参加しようかと思って」

「なに悠長なこと言ってんだよ? こんなところで油売ってる場合じゃないだろ?!」

「何を言う、これも立派な捜査の一環だ。それに」

 傑はダイニングテーブルの上に置かれていた大学ノートを取り上げてこれ見よがしに掲げてみせた。

「お前達だって知りたいだろう? 猪狩華絵殺害事件の詳細を」

 それは傑が事件の捜査でメモを取る際に愛用しているノートだった。ニヤリと笑う傑の顔に、詠斗は盛大にため息をつく。何故か楽しそうに四人の様子をキッチンから眺めている穂乃果を横目に、詠斗達は傑に勧められるままテーブルに着くのだった。

「猪狩華絵は駅前のラーメン屋でのアルバイト帰りに被害に遭ったようだ。バイトには普段から徒歩で来ていたというバイト先の人間の証言が得られている。通報時刻は午後十時四十分頃。現場近くの家に住む大学生が第一発見者だ。道の真ん中で血を流して倒れていたためひき逃げに遭ったのではないかと思ったらしい。警察と救急隊員が駆け付けた時にはすでに息を引き取っていたそうだ」

 傑の話と紗友が今朝拾い伝えてくれた情報との間に大きな誤差はないようだ。一度美由紀の殺害現場へ足を運んでいた詠斗は、花屋に寄った際に確かラーメン屋の前を通ったな、と記憶を遡った。おそらく猪狩華絵がアルバイトをしていたというのはそのラーメン屋のことなのだろう。

 傑はノートを片手に話を続ける。

「頭部に大きな損傷が見られ、死因は外傷性ショック死と推定。頭の傷以外には目立った外傷はなかったためひき逃げの可能性は極めて低く、背後から何者かに殴打されたと見て捜査を進めている」

「背後から? 雨が降っていたのに?」

 傑の向かい側から、詠斗はすかさず疑問を投げかける。
「事件当時、すでに雨は上がっていた。被害者の持ち物である傘が現場に残されていたが、閉じられた状態で発見されている。被害者のバイト先の同僚の話によると、被害者がバイト先を出たのは午後十時を少し過ぎた頃で、店を出る前にその同僚と雨が上がっていることを確認し合う会話を交わしたそうだ」

 そういえば、紗友が話を聞いたという友人も「雨が上がっていたので様子を見に外へ出た」と言っていたことを思い出す。

「有力な目撃情報は今のところなし。二人目の仲田翼殺しの重要参考人と思われていた神宮司隆裕は猪狩華絵殺害当時家にいたと言うが、体調不良のため二階の自室で寝ていたというから確実なアリバイがあるわけじゃない」

「学校には昨日から来てないって聞いたぞ?」

 そう詠斗の隣で巧が情報を付け加えた。紗友は傑の隣でA4のコピー用紙にメモを取り、適宜詠斗に見せながら話に耳を傾けていた。
「やっぱりアイツが犯人なんじゃね?」

「けど、神宮司には仲田先輩が殺された時に完璧なアリバイがあるんだぞ?」

 詠斗がすぐさま指摘する。

「それに、神宮司にあるのは仲田先輩殺害に関する動機だけだ。美由紀先輩や猪狩華絵が殺された理由はどう説明する?」

 うーん、と巧は腕組みをして顔をしかめた。

「……実は翼くんが死んだ時間が警察の見立てと違ってた、ってのはどうだ?」

「まったくあり得ない話ではないな」

 そう傑が手を挙げて発言する。