菜乃華の持ってきた重箱を空っぽにし、柊特製のレアチーズケーキも平らげた一行は、のんびりと紅葉と滝のコントラストを眺めていた。
山腹の水辺故に空気が少しひんやりとしているが、柔らかな日差しが体を温めてくれる。
穏やかに過ぎゆく時間。日々の忙しさを忘れ、各々まったりと森林浴を楽しむ。
だが、その静寂は柊の「ああ!」という叫び声で破られた。
「どうしたんですか、柊さん?」
驚いて菜乃華が振り返ると、柊はクシャミを顔の高さまで持ち上げ、絶望に打ちひしがれていた。
「あ、すみません。クシャミの毛皮にデザートがこべりついちゃっていたので、つい……」
「毛皮に?」
言われてクシャミを見れば、確かに顎のところにケーキがべったりと付いていた。どうやら食べている時に汚してしまったようだ。
「これ、水で洗った方が良さそうですね。あっちで流してきましょう」
「そうですね。ほらクシャミ、行くぞ!」
「な~お」
うざったそうにするクシャミを連れて、菜乃華と柊は足早に川の方へと歩いていった。
「若い連中は、賑やかだね~」
彼女らを見送って、蔡倫が笑う。
すると、彼の隣に座っていた瑞葉が、唐突に口を開いた。
「……なあ、蔡倫。私は最近思うのだ。なぜ、九重の土地神がいなくなり、彼女の力をサエたちが持っていたのか。その答えは、とても簡単なものだったのではないかとな」
菜乃華の背中を見守りつつ、瑞葉は自身の言葉の意味を噛み締めるように言う。自身の考えに確信を得つつも、まだその確信の源に戸惑っている様子だ。
そんな瑞葉の姿にようやくかと苦笑しつつ、蔡倫は彼の言葉を継いだ。
「九重の土地神は人の子と恋に落ち、人としての限りある命を得て天寿を全うした。そして、サエや菜乃華――自身の血族にその力を託した、ってか?」
「……気付いていたのか」
「まあ、それなりに昔からな。そんで確信したのは、嬢ちゃんに力が宿っていると知った時だ。こいつはあれだろ。土地神と同じ女の血族にだけ力が宿るってこった」
けけけ、と蔡倫が笑う。その笑い声を聞きながら、瑞葉は一つため息をついた。
「神と人の子が結ばれる話など、過去にはごまんとあった。なのに、私は今までそれに思い至れなかった。情けない話だ」
「まあ、知識として知ってはいても、それを実感として受け止められるかは別問題だ。お前さんは、模範的な神様過ぎた。人の世を乱さずにひっそりと在り続ける。神として、人の間に一線を引く。それを守り続けたお前さんだから、逆に気付けなかったってことさ」
そこまで言い切った蔡倫が、お茶で喉を潤しながら一呼吸置く。
「で、お前さんがそれに思い至ることができたのは、九重の土地神と同じ気持ちを知ったからかい?」
蔡倫の問いに、瑞葉は答えない。ただ、その沈黙は蔡倫の問い掛けを肯定しているも同然だった。
「まあ、神が人の子に惚れるっていうのは、姿かたちではなくその者の魂に惚れたってことだ。外見や年齢は関係ない。それこそ、相手が百歳超えた老人だろうが、赤ん坊だろうがな」
このサルの坊主は、どこまで見透かしているのだろうか、と瑞葉は素直に思う。
ここまで勘付かれているのなら、もう隠しても仕方がないだろう。瑞葉は観念するように言う。
「兆しは、お前の想像通り、おそらく十二年前からあったのだろうな。菜乃華が初めて神田堂を訪れた、あの時から……。ただ、はっきりと自覚したのは、九月に菜乃華が倒れた時だ。自分の無力さを悔いながら、同時に、約束を果たしてくれた彼女を失いたくないと強く思った」
故に、菜乃華が目覚めた際は、感情のコントロールが効かずに思わず抱きしめてしまった。そして、その瞬間から、もう引き返すことができなくなった。
「付喪神として本が朽ちるまで何百年もの時間を生きるより、菜乃華と過ごす今この時を大事にしたい。菜乃華と共に生き、菜乃華と共に天寿を全うしたい。そう思ってしまうのだ」
肩を竦めた瑞葉が、「私は、神格を与えられた者として失格だな」と嘯く。
「もっとも、最近ではそんな風に考える自分も悪くないと感じている」
「ならば結構。神格なんて、別に気にすることはないさ。神の立場よりも大事だと思えるものに出会えたなら、そいつはお前さんにとって掛け替えのないものってことだ。胸を張って誇ればいい」
蔡倫が、瑞葉を祝福するように快活に笑った。
このサルの坊主は、昔からそうだ。普段はどれだけおちゃらけていても、大事なところでは必ず相手の心に寄り添い、そっとその背中を押す。瑞葉にしてみれば、自分よりもよっぽど神らしい存在だ。
「ただ、これはあくまで私の一方的な気持ちだ。菜乃華には、菜乃華の生き方がある。私は、これからも彼女を見守るだけだ」
「いや、『見守るだけ』って……。別に、一方通行の気持ちってわけでもないじゃないか。お前さんだって、嬢ちゃんの気持ちには気付いているんだろ?」
「ん? 菜乃華の気持ち? どういうことだ?」
真顔の瑞葉が、蔡倫に問い返す。その表情に、照れや冗談などは一切ない。つまり、本気で言っているのだ。
瑞葉が見せたあまりの天然ぶりに、蔡倫は呆れた様子で頭を抱えた。
「あれ見て気付かないって、お前さん、どんだけ朴念仁なんだ……」
「なんだ、蔡倫。さっきから、何を言っている」
「はあ……。駄目だ、こりゃ。重症だな」
疑問符だらけになっている瑞葉を前に、蔡倫はため息をつく。手の掛かる友人を持つと苦労する。そんな言葉が聞こえてきそうだ。
だが、すぐに仕方ないという風に笑い、彼は瑞葉の肩を叩いた。
「まあ、お前さんの堅物ぶりは、今に始まったものでもないからな。それもお前さんらしさってことだろう。だから今回は、オイラが知恵を貸してやる」
「知恵だと?」
訝しげな目をする瑞葉に、蔡倫が「そうだ」と頷く。
「この後、オイラは柊とクシャミを連れて、先に朧車に戻る。だからお前さんは、嬢ちゃんに自分の気持ちをぶつけてみろ。きっと悪いことにはならないはずだぜ」
「悪いことにはならないとは……どういうことだ?」
「お前さんのささやかかもしれんが大切な願いは、きっと成就するってことだ」
蔡倫は発破をかけるように、瑞葉の背中を叩いた。
「あんまり深く考えんなよ、瑞葉。お前さんは、いつも思慮深過ぎるんだ。たまには感情のまま、自分の願いに素直に行動してみな」
そう言って、蔡倫はいまだ眉をひそめる瑞葉の前で気楽に笑うのだった。
山腹の水辺故に空気が少しひんやりとしているが、柔らかな日差しが体を温めてくれる。
穏やかに過ぎゆく時間。日々の忙しさを忘れ、各々まったりと森林浴を楽しむ。
だが、その静寂は柊の「ああ!」という叫び声で破られた。
「どうしたんですか、柊さん?」
驚いて菜乃華が振り返ると、柊はクシャミを顔の高さまで持ち上げ、絶望に打ちひしがれていた。
「あ、すみません。クシャミの毛皮にデザートがこべりついちゃっていたので、つい……」
「毛皮に?」
言われてクシャミを見れば、確かに顎のところにケーキがべったりと付いていた。どうやら食べている時に汚してしまったようだ。
「これ、水で洗った方が良さそうですね。あっちで流してきましょう」
「そうですね。ほらクシャミ、行くぞ!」
「な~お」
うざったそうにするクシャミを連れて、菜乃華と柊は足早に川の方へと歩いていった。
「若い連中は、賑やかだね~」
彼女らを見送って、蔡倫が笑う。
すると、彼の隣に座っていた瑞葉が、唐突に口を開いた。
「……なあ、蔡倫。私は最近思うのだ。なぜ、九重の土地神がいなくなり、彼女の力をサエたちが持っていたのか。その答えは、とても簡単なものだったのではないかとな」
菜乃華の背中を見守りつつ、瑞葉は自身の言葉の意味を噛み締めるように言う。自身の考えに確信を得つつも、まだその確信の源に戸惑っている様子だ。
そんな瑞葉の姿にようやくかと苦笑しつつ、蔡倫は彼の言葉を継いだ。
「九重の土地神は人の子と恋に落ち、人としての限りある命を得て天寿を全うした。そして、サエや菜乃華――自身の血族にその力を託した、ってか?」
「……気付いていたのか」
「まあ、それなりに昔からな。そんで確信したのは、嬢ちゃんに力が宿っていると知った時だ。こいつはあれだろ。土地神と同じ女の血族にだけ力が宿るってこった」
けけけ、と蔡倫が笑う。その笑い声を聞きながら、瑞葉は一つため息をついた。
「神と人の子が結ばれる話など、過去にはごまんとあった。なのに、私は今までそれに思い至れなかった。情けない話だ」
「まあ、知識として知ってはいても、それを実感として受け止められるかは別問題だ。お前さんは、模範的な神様過ぎた。人の世を乱さずにひっそりと在り続ける。神として、人の間に一線を引く。それを守り続けたお前さんだから、逆に気付けなかったってことさ」
そこまで言い切った蔡倫が、お茶で喉を潤しながら一呼吸置く。
「で、お前さんがそれに思い至ることができたのは、九重の土地神と同じ気持ちを知ったからかい?」
蔡倫の問いに、瑞葉は答えない。ただ、その沈黙は蔡倫の問い掛けを肯定しているも同然だった。
「まあ、神が人の子に惚れるっていうのは、姿かたちではなくその者の魂に惚れたってことだ。外見や年齢は関係ない。それこそ、相手が百歳超えた老人だろうが、赤ん坊だろうがな」
このサルの坊主は、どこまで見透かしているのだろうか、と瑞葉は素直に思う。
ここまで勘付かれているのなら、もう隠しても仕方がないだろう。瑞葉は観念するように言う。
「兆しは、お前の想像通り、おそらく十二年前からあったのだろうな。菜乃華が初めて神田堂を訪れた、あの時から……。ただ、はっきりと自覚したのは、九月に菜乃華が倒れた時だ。自分の無力さを悔いながら、同時に、約束を果たしてくれた彼女を失いたくないと強く思った」
故に、菜乃華が目覚めた際は、感情のコントロールが効かずに思わず抱きしめてしまった。そして、その瞬間から、もう引き返すことができなくなった。
「付喪神として本が朽ちるまで何百年もの時間を生きるより、菜乃華と過ごす今この時を大事にしたい。菜乃華と共に生き、菜乃華と共に天寿を全うしたい。そう思ってしまうのだ」
肩を竦めた瑞葉が、「私は、神格を与えられた者として失格だな」と嘯く。
「もっとも、最近ではそんな風に考える自分も悪くないと感じている」
「ならば結構。神格なんて、別に気にすることはないさ。神の立場よりも大事だと思えるものに出会えたなら、そいつはお前さんにとって掛け替えのないものってことだ。胸を張って誇ればいい」
蔡倫が、瑞葉を祝福するように快活に笑った。
このサルの坊主は、昔からそうだ。普段はどれだけおちゃらけていても、大事なところでは必ず相手の心に寄り添い、そっとその背中を押す。瑞葉にしてみれば、自分よりもよっぽど神らしい存在だ。
「ただ、これはあくまで私の一方的な気持ちだ。菜乃華には、菜乃華の生き方がある。私は、これからも彼女を見守るだけだ」
「いや、『見守るだけ』って……。別に、一方通行の気持ちってわけでもないじゃないか。お前さんだって、嬢ちゃんの気持ちには気付いているんだろ?」
「ん? 菜乃華の気持ち? どういうことだ?」
真顔の瑞葉が、蔡倫に問い返す。その表情に、照れや冗談などは一切ない。つまり、本気で言っているのだ。
瑞葉が見せたあまりの天然ぶりに、蔡倫は呆れた様子で頭を抱えた。
「あれ見て気付かないって、お前さん、どんだけ朴念仁なんだ……」
「なんだ、蔡倫。さっきから、何を言っている」
「はあ……。駄目だ、こりゃ。重症だな」
疑問符だらけになっている瑞葉を前に、蔡倫はため息をつく。手の掛かる友人を持つと苦労する。そんな言葉が聞こえてきそうだ。
だが、すぐに仕方ないという風に笑い、彼は瑞葉の肩を叩いた。
「まあ、お前さんの堅物ぶりは、今に始まったものでもないからな。それもお前さんらしさってことだろう。だから今回は、オイラが知恵を貸してやる」
「知恵だと?」
訝しげな目をする瑞葉に、蔡倫が「そうだ」と頷く。
「この後、オイラは柊とクシャミを連れて、先に朧車に戻る。だからお前さんは、嬢ちゃんに自分の気持ちをぶつけてみろ。きっと悪いことにはならないはずだぜ」
「悪いことにはならないとは……どういうことだ?」
「お前さんのささやかかもしれんが大切な願いは、きっと成就するってことだ」
蔡倫は発破をかけるように、瑞葉の背中を叩いた。
「あんまり深く考えんなよ、瑞葉。お前さんは、いつも思慮深過ぎるんだ。たまには感情のまま、自分の願いに素直に行動してみな」
そう言って、蔡倫はいまだ眉をひそめる瑞葉の前で気楽に笑うのだった。