瞼越しに差し込んでくる光が、菜乃華の意識を覚醒させる。
目を開くと、そこは見慣れない部屋だった。見慣れないが知らない部屋ではない。この部屋は神田堂の二階にある一室だ。古いがよく掃除が行き届いた客間に布団を敷き、菜乃華はそこに寝かされていた。
カーテンが掛かった窓の隙間からは、朝日が差し込んでいる。これが、菜乃華の意識を覚醒させた光の正体だ。右手で枕もとを漁ると、自分のスマホが置いてあった。日付と時間を確認すると、日曜日の午前八時だった。倒れたのは昨日の午後三時頃だったと思うので、十七時間も寝ていたらしい。随分とよく寝たものだ。
寝起きのぼやけた頭で体を起こす。何やら夢を見ていた気がするが、うまく思い出すことはできない。ふと視線を下ろすと、いつの間にか服装が学校の制服から浴衣になっていた。藍色一色の浴衣で、随分とサイズが大きい。たぶん男物だろう。
誰かが着替えさせてくれたのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、菜乃華は大きく伸びをし、これまた大きなあくびをした。
「目を覚ましたか、菜乃華」
「ふわっ!」
あくびをしているところに声を掛けられ、思わず悲鳴のような声を上げてしまう。見れば、部屋の襖が開いていて、瑞葉が立っていた。
「み、瑞葉……」
瞬間、菜乃華の顔から首筋までが一気に赤く染まる。好きな相手に気の抜けた姿を見られたことが、恥ずかしくて堪らない。というか、寝起き姿を見られたなんて、もう穴を掘って埋まってしまいたいほどの失態だ。
同時に、頭に血が上った所為か意識も急にはっきりし、思考が全力で回り出した。瑞葉が住む神田堂の一室で眠っていた自分、いつの間にか着替えさせられた浴衣、これはつまりもしかして……。
「安心しろ。君を着替えさせたのは、私ではない。医学に長けた付喪神が近くにいるので、往診に来てもらったのだ。着替えも、彼女に頼んだ」
頭から湯気を吹き始めた菜乃華を見て、考えていることを察したのだろう。瑞葉が先手を打って注釈を入れてきた。
瑞葉曰く、ここから徒歩十五分くらいの距離のところに、医療品の付喪神(女性)が住んでいるそうだ。菜乃華が倒れた直後、蔡倫と柊が全力で走って、彼女を呼んできたとのことだった。
「着替えについては、この家に女ものの服がなかったのでな。申し訳ないと思ったが、私の浴衣を使わせてもらった」
「そ、そうなんだ。ええと、ありがとう」
自分が着ているのが瑞葉の浴衣だとわかり、またもや顔が熱くなってくる。だが、恥ずかしい以上にうれしくもあり、頬が自然と緩んでいってしまった。災い転じて福と為すといったところだろうか。思わず浴衣の袖の香りをかいでしまいそうにもなったが、そこはぐっと堪えた。持ち主の前でそんなことをしていたら、ただの変態だ。今後の瑞葉との関係性を思うに、自重は大事である。
「倒れた原因は、寝不足と過労だそうだ。一晩ぐっすり寝れば回復すると言われたが、気分はどうだ?」
「大丈夫。もうすっかり元気だよ」
布団の横に座って心配そうな顔をする瑞葉に、胸の前で両の拳を握って元気さをアピールする。
実際、たっぷりと睡眠をとったからか、最近感じていた軽い頭痛も消えていた。久しぶりにすこぶる快調といった感じである。
ただ、瑞葉は元気に振る舞う菜乃華のことを、さらに不安そうに見つめた。
「昨日の夜、君の実家に電話した際に洋孝から聞いた。菜乃華、君はここ最近、随分と無茶なことをしていたようだな」
深い息を吐きながら、瑞葉が言う。
洋孝とは、父のことだ。どうやら父は、菜乃華が毎日のように夜更かしをしていたことを伝えたようだ。いたずらがばれて怒られているような気分になり、菜乃華がばつの悪そうな顔で俯く。
すると、おもむろに瑞葉が頭を下げた。
「君にそこまでの無理を強いてしまったのは、偏に私の責任だろう。私が君に期待するあまり、君を追い込んでしまった。本当にすまない」
「ち、違うよ、瑞葉! 瑞葉は悪くない。わたしが勝手に焦って自滅しただけ。むしろ、謝らなきゃいけないのは、わたしの方で……」
そう。瑞葉は最初から、「焦らなくていい」と言ってくれていたのだ。
その言葉を聞かず、勝手に暴走したのは、他ならぬ菜乃華自身だ。少しでも早く一人前になりたいと――いや、それ以上に憧れの瑞葉にいいところを見せたいと、必要以上に躍起になっていた。そして、頑張る自分の姿に酔ってもいた。
その結果が、今回の騒ぎとなった。自業自得もいいところだ。だから、瑞葉はこれっぽっちも悪くない。
菜乃華がそう訴えると、瑞葉は困ったように微笑みながら「洋孝にも、同じことを言われたよ」と呟いた。
「これは菜乃華の行動の結果だから、私が責任を感じることではない、とな。今回の件について、どんな謗りでも受けるつもりでいたのに、逆に励まされてしまった」
あそこまで励まされると調子が狂ってしまう、と瑞葉が気安い表情で肩を竦める。祖母同様、父とも長い付き合いなのだろう。その仕草と言葉には、父に対する瑞葉の友愛の情が見て取れた。
「お父さんの言う通りだよ。今回は、わたしが無茶しちゃっただけ。これ以上瑞葉に責任を感じられちゃうと、そっちの方が気まずいよ。だからお願い。もう責任を感じたり、謝ったりしないで」
「……わかった。君がそう言うのであれば、もうこれ以上は謝るまい。君を困らせるのは、私の本意ではないからな」
「ありがとう、瑞葉」
ようやく納得してくれたらしい瑞葉に、菜乃華も安心した様子で顔をほころばせた。
片思いの相手から謝られるのは、それがどんな理由からであれ、ふられているみたいで悲しくなってくる。しかも、今回に限っては謝罪の原因が自分の不始末にあるのだから、悲しさに情けなさの上乗せ状態だ。そんなもの、菜乃華としてはぜひとも避けたいシチュエーションである。無事に収束してくれて、本当に良かった。
目を開くと、そこは見慣れない部屋だった。見慣れないが知らない部屋ではない。この部屋は神田堂の二階にある一室だ。古いがよく掃除が行き届いた客間に布団を敷き、菜乃華はそこに寝かされていた。
カーテンが掛かった窓の隙間からは、朝日が差し込んでいる。これが、菜乃華の意識を覚醒させた光の正体だ。右手で枕もとを漁ると、自分のスマホが置いてあった。日付と時間を確認すると、日曜日の午前八時だった。倒れたのは昨日の午後三時頃だったと思うので、十七時間も寝ていたらしい。随分とよく寝たものだ。
寝起きのぼやけた頭で体を起こす。何やら夢を見ていた気がするが、うまく思い出すことはできない。ふと視線を下ろすと、いつの間にか服装が学校の制服から浴衣になっていた。藍色一色の浴衣で、随分とサイズが大きい。たぶん男物だろう。
誰かが着替えさせてくれたのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、菜乃華は大きく伸びをし、これまた大きなあくびをした。
「目を覚ましたか、菜乃華」
「ふわっ!」
あくびをしているところに声を掛けられ、思わず悲鳴のような声を上げてしまう。見れば、部屋の襖が開いていて、瑞葉が立っていた。
「み、瑞葉……」
瞬間、菜乃華の顔から首筋までが一気に赤く染まる。好きな相手に気の抜けた姿を見られたことが、恥ずかしくて堪らない。というか、寝起き姿を見られたなんて、もう穴を掘って埋まってしまいたいほどの失態だ。
同時に、頭に血が上った所為か意識も急にはっきりし、思考が全力で回り出した。瑞葉が住む神田堂の一室で眠っていた自分、いつの間にか着替えさせられた浴衣、これはつまりもしかして……。
「安心しろ。君を着替えさせたのは、私ではない。医学に長けた付喪神が近くにいるので、往診に来てもらったのだ。着替えも、彼女に頼んだ」
頭から湯気を吹き始めた菜乃華を見て、考えていることを察したのだろう。瑞葉が先手を打って注釈を入れてきた。
瑞葉曰く、ここから徒歩十五分くらいの距離のところに、医療品の付喪神(女性)が住んでいるそうだ。菜乃華が倒れた直後、蔡倫と柊が全力で走って、彼女を呼んできたとのことだった。
「着替えについては、この家に女ものの服がなかったのでな。申し訳ないと思ったが、私の浴衣を使わせてもらった」
「そ、そうなんだ。ええと、ありがとう」
自分が着ているのが瑞葉の浴衣だとわかり、またもや顔が熱くなってくる。だが、恥ずかしい以上にうれしくもあり、頬が自然と緩んでいってしまった。災い転じて福と為すといったところだろうか。思わず浴衣の袖の香りをかいでしまいそうにもなったが、そこはぐっと堪えた。持ち主の前でそんなことをしていたら、ただの変態だ。今後の瑞葉との関係性を思うに、自重は大事である。
「倒れた原因は、寝不足と過労だそうだ。一晩ぐっすり寝れば回復すると言われたが、気分はどうだ?」
「大丈夫。もうすっかり元気だよ」
布団の横に座って心配そうな顔をする瑞葉に、胸の前で両の拳を握って元気さをアピールする。
実際、たっぷりと睡眠をとったからか、最近感じていた軽い頭痛も消えていた。久しぶりにすこぶる快調といった感じである。
ただ、瑞葉は元気に振る舞う菜乃華のことを、さらに不安そうに見つめた。
「昨日の夜、君の実家に電話した際に洋孝から聞いた。菜乃華、君はここ最近、随分と無茶なことをしていたようだな」
深い息を吐きながら、瑞葉が言う。
洋孝とは、父のことだ。どうやら父は、菜乃華が毎日のように夜更かしをしていたことを伝えたようだ。いたずらがばれて怒られているような気分になり、菜乃華がばつの悪そうな顔で俯く。
すると、おもむろに瑞葉が頭を下げた。
「君にそこまでの無理を強いてしまったのは、偏に私の責任だろう。私が君に期待するあまり、君を追い込んでしまった。本当にすまない」
「ち、違うよ、瑞葉! 瑞葉は悪くない。わたしが勝手に焦って自滅しただけ。むしろ、謝らなきゃいけないのは、わたしの方で……」
そう。瑞葉は最初から、「焦らなくていい」と言ってくれていたのだ。
その言葉を聞かず、勝手に暴走したのは、他ならぬ菜乃華自身だ。少しでも早く一人前になりたいと――いや、それ以上に憧れの瑞葉にいいところを見せたいと、必要以上に躍起になっていた。そして、頑張る自分の姿に酔ってもいた。
その結果が、今回の騒ぎとなった。自業自得もいいところだ。だから、瑞葉はこれっぽっちも悪くない。
菜乃華がそう訴えると、瑞葉は困ったように微笑みながら「洋孝にも、同じことを言われたよ」と呟いた。
「これは菜乃華の行動の結果だから、私が責任を感じることではない、とな。今回の件について、どんな謗りでも受けるつもりでいたのに、逆に励まされてしまった」
あそこまで励まされると調子が狂ってしまう、と瑞葉が気安い表情で肩を竦める。祖母同様、父とも長い付き合いなのだろう。その仕草と言葉には、父に対する瑞葉の友愛の情が見て取れた。
「お父さんの言う通りだよ。今回は、わたしが無茶しちゃっただけ。これ以上瑞葉に責任を感じられちゃうと、そっちの方が気まずいよ。だからお願い。もう責任を感じたり、謝ったりしないで」
「……わかった。君がそう言うのであれば、もうこれ以上は謝るまい。君を困らせるのは、私の本意ではないからな」
「ありがとう、瑞葉」
ようやく納得してくれたらしい瑞葉に、菜乃華も安心した様子で顔をほころばせた。
片思いの相手から謝られるのは、それがどんな理由からであれ、ふられているみたいで悲しくなってくる。しかも、今回に限っては謝罪の原因が自分の不始末にあるのだから、悲しさに情けなさの上乗せ状態だ。そんなもの、菜乃華としてはぜひとも避けたいシチュエーションである。無事に収束してくれて、本当に良かった。