緑の匂いを含んだ爽やかなそよ風が嗅覚をくすぐり、降り注ぐ眩しくも暖かな日の光が視覚を刺激する。いつの間にか、菜乃華は小さな祠の前に立っていた。

 いや、『立っていた』という言い方には少し語弊がある。正確には、いつの間にか意識だけがこの場所に放り出されていた。視線を下に動かしてみてもそこに自分の体はなく、それ故かこの場から移動することができない。首を回す要領で辺りを見回すことくらいはできるが、それが限界だ。意識と五感だけがそこに固定されている。

 段々と、何があったのか思い出されてくる。自分は貧血を起こして倒れ、そのまま意識を失ったのだ。

 つまり、ここは夢の中ということだろう。おそらく、俗に言う明晰夢というやつだ。
 自分の置かれた状況を分析していると、意識の端から土を踏み締める二つの足音が聞こえてきた。誰か来たらしい。振り向くようにして、意識をそちらへ向けてみる。

 瞬間、見開く目もないのに、菜乃華は驚きのまま現れたうちの一人を凝視した。

「瑞葉……」

 意識に直接響いてくる声で、ぽつりと呟く。連れ立って現れた二人の片割れは、まぎれもない瑞葉だった。

 もっとも、菜乃華の知っている瑞葉とは少し違うようだ。容姿は菜乃華の知る瑞葉とまったく変わらないが、纏っている雰囲気にどこか若気のようなもの感じる。
 要するに、瑞葉のあの涼やかで落ち着いた余裕が見られないのだ。彼が持つ生来の生真面目さが、堅苦しく見えるほどに前面に出てしまっている。

 そんな瑞葉が、共に歩いていた相手に対して折り目正しく頭を下げた。

『土地神殿、この度は本当にお世話になりました。このご恩は忘れません』

『そんな畏まらないの。何度も言ったでしょ。困った時はお互い様だって』

 礼を言われた相手は、瑞葉の肩を叩きながら愉快そうに笑っている。

 それは、とてもきれいな女性だった。小さくて色白の面立ちは美人顔の黄金比を体現しており、腰まで真っ直ぐ伸びる艶やかな黒髪は日の光を反射して輝いている。さらにその華奢な体を包むのは、豪華な刺繍が施された巫女服のような着物だ。瑞葉の言によれば土地神とのことだが、なるほど、確かに女神と呼ぶに相応しい容姿だ。

 けれど、瑞葉に気安く触れていることはいただけない。勝手なことだとはわかっているし、自分のことを面倒くさい女だなと呆れてしまうが、どうしてもジェラシーを感じてしまう。

 ただ、彼女が笑っている姿を見ていると、なぜか祖母を思い出してしまい、菜乃華はどうにもうまく腹を立てることができなかった。

『まあいいわ。何かあったら、またいつでもここに来なさい。あたしは、いつでもここにいるからさ』

『お気持ちは有り難いが、もう自分の本を壊すようなへまはしない』

 感謝の念は示しつつも、瑞葉は憮然とした表情で土地神に反論する。

 やはりこの瑞葉は、お堅いというか融通が利かない頑固者っぽい。もしくは、どこか子供っぽい。これまでに見たことのない瑞葉の態度を見られて、少し得した気分になる。

 巫女服の女神も菜乃華と似たようなことを思ったのか、白い歯を見せながらにかっと笑った。『まだまだ若いな~』と、不満げな瑞葉の背中を叩いている。
 その笑い方は、やはり祖母に似ているような気がして、心の奥から懐かしさと共に切ない感情が込み上げてきた。もし今、菜乃華の体がここにあったら、涙の一つでも流してしまっていたかもしれない。

「そういえば、前に瑞葉がうちの神社の神様は本の付喪神を直せる力を持っていたって言っていたような……」

 神田堂の店主になった日の、瑞葉の言葉を思い出す。瑞葉は確かに、自分と祖母が持っている力は九ノ重神社の土地神様の力と同種のものと言っていた。

 ということは、あそこに立っている土地神様とやらが、うちの神社で祀っている神様なのだろうか。そんな考えが、菜乃華の意識の中に顔を出してくる。

 その時、ふと意識が浮き上がるような感覚がした。縛り付けられたように固定されていた菜乃華の意識が、風に飛ばされた風船のように空へと昇っていく。瑞葉と土地神の姿が段々と遠くなっていき、視界が空の青一色に染まった。

『ねえ、菜乃華……』

「え?」

 不意に、頭の中に声が響いた。先程の女神の声だ。これまでと違い、明らかに菜乃華に語り掛けている。

『これを見ても、わかるでしょ。彼は実直で真面目で頑固者。だけど、固いからこそ脆いところもあるの。そして、彼は誰よりも高い能力を持つ付喪神故に、誰かに頼ることができない。己がどれだけ崩れそうになっても、それを素直に表に出せない。サエのおかげでだいぶ柔軟さも得たみたいだけど、良くも悪くも彼の本質は変わらない』

 女神の声は優しく、同時に気に掛けているような色合いを含んでいる。まるで子供を見守る母親のような声音だ。
 彼女は、菜乃華に何かを伝えようとしている。何かを求めている。そう感じた菜乃華は、女神に問い掛けた。

「わたしは、どうしたらいいですか? 瑞葉のために、わたしは何をしてあげたらいいですか?」

『そんなこと、あたしが知るわけないじゃない』

 先程までの慈愛に満ちた口調から一転、女神がお茶目にバッサリと匙を投げた。体はないけれど、思い切りずっこけてしまった。

「なんなんですか、一体! あなた、何のためにわたしに話し掛けたんですか!」

『いやまあ、平たく言えば好きにすればいいってことよ。神様の操り人形になんかならないで、己が歩く道は己で決めなさいって意味』

「かっこいい感じに言ってますけど、それって丸投げってことですよね」

『そうとも言うわね』

 女神があっけらかんと肯定する。何とも大雑把でいい加減な女神だ。これがうちの神社の神様かもしれないと思うと、無性に泣けてくる。
 菜乃華が軽く打ちひしがれていると、女神は能天気に笑いながら、こうつけ加えた。

『あなたは、自分が瑞葉にしてあげたいと思うことをすればいいの。それが一番よ。さあ、そろそろ行きなさい。あっちで、彼が待っているわ』

 体はないけれど、背中を優しく押された気がする。
 すると、菜乃華の意識はさらに加速して、空を上り始めた。

『それじゃあ頑張ってね、あたしの可愛い――』

 女神の言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。彼女が何と言ったのか少し気になるところだが、訊き直すことは無理そうだ。
 そうこうしているうちに、空を駆け登っていく菜乃華の意識は、眩しい日の光の中に吸い込まれていった。