「ここか……」

 手紙と地図を手にした菜乃華は、路地の奥にひっそりと佇む建物を見上げて呟いた。

 日光は遮られ、地面は舗装されることもなく土が剥き出しだ。その所為か、真夏の昼間なのにどこかひんやりしている。加えて、遠くから聞こえるセミの鳴き声以外に音はなく、まるで世界に一人だけ取り残されてしまったかのようだ。

 そんな場所に、菜乃華は立っていた。

 地図を封筒にしまい、改めて手紙の方に目を落とす。それは、祖母からのもらった最初で最後の手紙――遺言だ。

 そこに書かれているのは、祖母の直筆で菜乃華に宛てたお願い事である。
 今はもう懐かしい祖母の文字を見つめながら、菜乃華は今日までの出来事を振り返った。


          * * *


 大好きな祖母が亡くなった。菜乃華にとって、それは自分の世界が揺らいでしまうくらい辛い出来事だった。

 高校が夏休みに入って、二日目の朝のことだ。祖母の亡骸を最初に見つけたのは、母だった。いつもは誰よりも早起きな祖母が部屋から出てこないことを心配し、母は様子を見に行った。そして、祖母が息をしていないことに気が付いたのだ。

 実家である九ノ重神社の境内を掃除していた菜乃華は、取り乱した母に呼ばれてすぐに母屋へ戻った。箒を投げ捨て、玄関で靴を脱ぐのももどかしく、転がるように祖母の部屋の前まで走る。途中、柱に肩をぶつけて鈍い痛みが走ったが、菜乃華には痛みに意識を向ける余裕さえもなかった。

 祖母の部屋では、両親が慌ただしく動き回っていた。母は涙声になりながら携帯で救急車を呼び、父は祖母の肩を揺らしながら必死に呼び掛けている。かつて見たこともないほど必死の形相をしている両親の間で、祖母だけが静かに眠り続けていた。

 菜乃華は目を閉じたままの祖母の顔を見つめ、部屋の前で力なく崩れ落ちた。
 ショックが大き過ぎて感情が追いつかず、涙さえも出てこない。現実を受け入れられないまま廊下にへたり込み、壊れたカメラのように、その瞳に動かない祖母の姿を焼き付け続けた。

 祖母の死に顔は、実に安らかなものだった。まるで今すぐにでも起き出してきそうなほど穏やかで、菜乃華には祖母が本当に死んでいるのか疑わしく思えたほどだ。

 けれど、意識の片隅に聞こえてくる両親の悲痛な声が、祖母の死は現実なのだと物語っていた。
 大学で神職に就くための勉強をしている双子の長兄と次兄もすぐさま帰省してきて、祖母の通夜と葬式はしめやかに営まれた。
 葬儀の間中、菜乃華は人形のように黙ったまま、祖母の棺桶を見つめ続けていた。

「菜乃華、大丈夫? 顔、真っ白よ」

「平気だよ、お母さん。大丈夫」

「辛ければ、泣いてもいいんだぞ。感情を胸の内に押し込めておくのは、体に毒だ」

「うん。ありがとう、お父さん」

 両親が声を掛けても、心の宿らない返事をするのみ。その様はまるで、魂を失った抜け殻のようであった。

 実際、祖母が死んだ朝から葬式が終わるまで、菜乃華の記憶はあやふやだ。自分がその間に何をしていたのか、思い出すことができない。

 ただ、菜乃華が抜け殻でいられたのもそこまでだった。自室に戻ってベッドに倒れ込んだ瞬間、胸に堪えようのない悲しみが去来した。葬儀が終わったことで心が祖母の死を受け入れ、それまで押し止められていた感情の箍が外れたのだ。

「お祖母ちゃん……。お祖母ちゃん……っ!」

 感情と共に、涙と嗚咽が溢れ出す。枕に顔を埋めた菜乃華は、体を震わせながら涙を流し続けた。

 菜乃華にとって、祖母はいつも自分を見守ってくれる、かけがえのない存在だった。
 物心ついた頃、両親は神職の仕事で忙しく、兄たちは少し年が離れていることもあって、いつも二人で外に遊びに行ってしまっていた。そんな幼い菜乃華にとって、祖母だけが唯一の遊び相手だったのだ。

 学校に通うようになってからも、菜乃華はいつも祖母にべったりだった。悩んでいる時は励まし、失敗した時は慰め、喜んでいる時は一緒に笑ってくれる。そんな祖母のことが大好きだった。今の高校に合格した時も、一番に喜びを分かち合ったのは祖母だ。

『大丈夫。なっちゃんは九重の土地神様に愛された子だから。何があってもへっちゃらさ』

 祖母がよく掛けてくれた言葉が、菜乃華の胸に蘇る。

 けれど、もうそんな祖母の声も言葉も聞くことはできない。それどころか、もう祖母の笑顔を見ることもできないのだ。
 祖母がいなくなってぽっかり空いた胸の穴から流れ出すように、涙は後から後から止め処なく零れ落ちた。

 次の日、涙が枯れるまで泣き尽した菜乃華は、熱を出した。
 熱が出るなんて、小学校六年の時にインフルエンザに罹って以来だ。熱に浮かされ、布団の中で眠りについては、祖母が歩き去っていく夢を見て目を覚ます。七月の終わりまでの一週間ほど、そんなことの繰り返しだった。

 それでも、熱が下がっていくにしたがって、ようやく感情の波もコントロールできるようになってきた。祖母の死のショックはまだ残っているし、悲しみが消えることはないが、前を向くことができる程度には気持ちの整理もついた。

 第一、これ以上落ち込んでいたら、天国の祖母にまた心配をかけてしまう。そう心に言い聞かせて、菜乃華は祖母の死を乗り越えた。

 両親から「少し話がある」と呼ばれたのは、そんな頃のことだった。