チャイムが鳴り、数学の教師が教室から出て行く。今日一日の授業が終わり、教室内は開放的な空気に満たされた。
「あ~、ようやく終わった~。疲れた~」
「なーにが『疲れた~』よ。あんた、授業中ずっと、舟漕いで夢の世界に旅立っていたじゃない」
うーんと伸びをしていたら、丸めたノートで頭をはたかれた。
反射的に頭を押さえて後ろを振り返ると、からかい混じりのにんまりとした笑顔と目が合った。
「痛いよ、唯子」
「ごめん、ごめん! けど、少しは目、覚めたでしょ?」
唇を尖らせて抗議すると、犯人は悪びれた様子もなくケラケラと笑った。
彼女は、長沢唯子。菜乃華の小学校時代からの友人で、今年で十一年連続同じクラスの腐れ縁だ。この学校において、もっとも気を許せる親友である。
「わたし、そんなに舟漕いでた?」
「漕いでた、漕いでた。ボート部に紹介したくなるくらい、見事にね。森田先生、何度もあんたの方見ていたよ」
窺うように尋ねてみると、唯子は面白いものを見たと言いたげな顔で何度も頷いた。後頭部で結ばれた髪が、犬の尻尾のように勢いよく揺れている。
そんな親友を前にして、菜乃華は思わず頭を抱えてしまった。父に「大丈夫」と言ったそばからこれだ。情けなくてため息が出てくる。
「最近のあんた、ずっとそんな感じだよね。慢性的に寝不足っていうかさ。毎晩何やってんのよ」
「まあ、ちょっと色々あってね」
目を逸らしながら、言葉を濁す。
さすがに、「お祖母ちゃんのお店を継いで、その修行中!」とは言い辛い。付喪神やら何やらが関わってくるとあってはなおさらだ。一応、神様が人間に交じって普通に暮らしていることは秘密らしいし。
あと、寝不足の頭で妙なことを口走って、唯子から痛い子扱いされるのは避けたい。
「言い難いことなら別にいいけどさ。寝不足はお肌の敵よ。あんたも一応花の女子高生なんだから、少しは美容に気を遣いなさい」
「はいはい。御心配いただき、どうもありがとう」
頬をつついてくる唯子をあしらいつつ、教科書やノートを手早くカバンに詰めていく。
唯子はまだにまにまと笑っているが、さらに事情を問い質そうとはしてこなかった。ここら辺の不要に深入りし過ぎない距離感は、正直有り難い。さすがは腐れ縁の親友だ。よくわかっている。
「それはそうと、菜乃華、今日の午後って時間ある? 駅前に先週オープンしたクレープ屋、一緒に行かない?」
「ああ、ごめん。今日はこれから行くところがあるんだ。また今度ね」
「ええ~、今日も用事なの!? 菜乃華、最近付き合い悪過ぎ~。私、寂しくて泣いちゃうぞ、こんちくしょう!」
ブーイングを飛ばす親友に、「ホントごめん!」と拝むように手を合わせた。
菜乃華だって、唯子と遊びに行きたい気持ちはやまやまである。けれど、半日授業の土曜日は、瑞葉に本の修復をみっちり教えてもらうチャンスなのだ。半人前店主の菜乃華としては、このチャンスを逃すことはできない。
「寝不足のことといい、もしかしてバイトでも始めた? もしくは彼氏でもできたとか? 毎晩、寝る間も惜しんで愛の語らいですか? だったら許さんぞ、リア充め! 自分だけ幸せになれると思うなよ」
唯子が自分で言った推測に対して、勝手に盛り上がり始めた。
一方的に嫉妬の炎をぶつけられた菜乃華は、微妙なラインをついたその推測に苦笑するしかない。
バイトというのは、当たらずとも遠からず。なかなか良い勘だ。正解は、新米店主として修行中である。
一方、彼氏の方は残念ながら完全にはずれだ。もっとも、気になる……というか絶賛片思い中の相手がいないわけではないけれども。
菜乃華の頭の中に、神職のような和装に身を包んだ、涼やかな面持ちの青年の姿が浮かぶ。このひと月半ほど、毎日顔を合わせてきた相手だ。
仕事の時は、いつでも傍で支えてくれる。隣で助言してくれる。修復の素人である菜乃華を、嫌な顔一つしないで根気よく教え導いてくれる。そして、菜乃華が何かを成功させた時には、「よくやった」と優しく頭を撫でてくれる。そんな彼の隣にいられることが、菜乃華は堪らなくうれしかった。
もちろん菜乃華だって、子供ではないのだからわかっている。彼が菜乃華の隣にいて、優しくしてくれるのは、菜乃華が神田堂の店主だからだ。彼にとって菜乃華の相手をすることは仕事としての義務であり、それ以上でも以下でもない。当然ながら、そこに恋愛的な要素が入り込む余地なんてあるはずがない。そんなことは、百も承知だ。
第一、自分は人間で、彼は神様だ。身分どころか存在そのものが違い過ぎる。
ただ、それでも……自分の中で彼の存在が日に日に大きくなっていくのを止めることはできなかった。
だからこそ、彼の隣にいて恥ずかしくない店主になりたいと心から思う。彼が神田堂店主としての自分を必要としてくれるなら、その願いに応えたい。菜乃華が必死になって一人前の店主を目指す理由の一つは、間違いなくこれだった。
「……その目、恋する乙女の目だ」
「え?」
不意に聞こえてきた唯子の呟きで、我に返る。いつの間にか、どっぷりと自分の世界に入り込んでいたようだ。
気が付けば、物思いに耽っていた菜乃華を、唯子が羨ましそうに、かつ恨めしそうに見つめていた。
「ちくしょう! その顔は、やっぱり彼氏なんだな! そうなんだな!」
「い、いや、これは違う! そういうんじゃないから!」
「一人だけ幸せになりやがって、裏切り者め。貴様を討ち取って私も死んでやる~!!」
乱心した唯子が、本気で涙を流しながら迫ってきた。この激情型でどこか芸人チックな性格を直せば、彼氏の一人二人はすぐにできそうな可愛い子なのだが……。天は二物を与えずとはよく言ったものだ。
ともあれ、菜乃華は我を失って嫉妬の鬼と化した親友から全力で逃げるのだった。
「あ~、ようやく終わった~。疲れた~」
「なーにが『疲れた~』よ。あんた、授業中ずっと、舟漕いで夢の世界に旅立っていたじゃない」
うーんと伸びをしていたら、丸めたノートで頭をはたかれた。
反射的に頭を押さえて後ろを振り返ると、からかい混じりのにんまりとした笑顔と目が合った。
「痛いよ、唯子」
「ごめん、ごめん! けど、少しは目、覚めたでしょ?」
唇を尖らせて抗議すると、犯人は悪びれた様子もなくケラケラと笑った。
彼女は、長沢唯子。菜乃華の小学校時代からの友人で、今年で十一年連続同じクラスの腐れ縁だ。この学校において、もっとも気を許せる親友である。
「わたし、そんなに舟漕いでた?」
「漕いでた、漕いでた。ボート部に紹介したくなるくらい、見事にね。森田先生、何度もあんたの方見ていたよ」
窺うように尋ねてみると、唯子は面白いものを見たと言いたげな顔で何度も頷いた。後頭部で結ばれた髪が、犬の尻尾のように勢いよく揺れている。
そんな親友を前にして、菜乃華は思わず頭を抱えてしまった。父に「大丈夫」と言ったそばからこれだ。情けなくてため息が出てくる。
「最近のあんた、ずっとそんな感じだよね。慢性的に寝不足っていうかさ。毎晩何やってんのよ」
「まあ、ちょっと色々あってね」
目を逸らしながら、言葉を濁す。
さすがに、「お祖母ちゃんのお店を継いで、その修行中!」とは言い辛い。付喪神やら何やらが関わってくるとあってはなおさらだ。一応、神様が人間に交じって普通に暮らしていることは秘密らしいし。
あと、寝不足の頭で妙なことを口走って、唯子から痛い子扱いされるのは避けたい。
「言い難いことなら別にいいけどさ。寝不足はお肌の敵よ。あんたも一応花の女子高生なんだから、少しは美容に気を遣いなさい」
「はいはい。御心配いただき、どうもありがとう」
頬をつついてくる唯子をあしらいつつ、教科書やノートを手早くカバンに詰めていく。
唯子はまだにまにまと笑っているが、さらに事情を問い質そうとはしてこなかった。ここら辺の不要に深入りし過ぎない距離感は、正直有り難い。さすがは腐れ縁の親友だ。よくわかっている。
「それはそうと、菜乃華、今日の午後って時間ある? 駅前に先週オープンしたクレープ屋、一緒に行かない?」
「ああ、ごめん。今日はこれから行くところがあるんだ。また今度ね」
「ええ~、今日も用事なの!? 菜乃華、最近付き合い悪過ぎ~。私、寂しくて泣いちゃうぞ、こんちくしょう!」
ブーイングを飛ばす親友に、「ホントごめん!」と拝むように手を合わせた。
菜乃華だって、唯子と遊びに行きたい気持ちはやまやまである。けれど、半日授業の土曜日は、瑞葉に本の修復をみっちり教えてもらうチャンスなのだ。半人前店主の菜乃華としては、このチャンスを逃すことはできない。
「寝不足のことといい、もしかしてバイトでも始めた? もしくは彼氏でもできたとか? 毎晩、寝る間も惜しんで愛の語らいですか? だったら許さんぞ、リア充め! 自分だけ幸せになれると思うなよ」
唯子が自分で言った推測に対して、勝手に盛り上がり始めた。
一方的に嫉妬の炎をぶつけられた菜乃華は、微妙なラインをついたその推測に苦笑するしかない。
バイトというのは、当たらずとも遠からず。なかなか良い勘だ。正解は、新米店主として修行中である。
一方、彼氏の方は残念ながら完全にはずれだ。もっとも、気になる……というか絶賛片思い中の相手がいないわけではないけれども。
菜乃華の頭の中に、神職のような和装に身を包んだ、涼やかな面持ちの青年の姿が浮かぶ。このひと月半ほど、毎日顔を合わせてきた相手だ。
仕事の時は、いつでも傍で支えてくれる。隣で助言してくれる。修復の素人である菜乃華を、嫌な顔一つしないで根気よく教え導いてくれる。そして、菜乃華が何かを成功させた時には、「よくやった」と優しく頭を撫でてくれる。そんな彼の隣にいられることが、菜乃華は堪らなくうれしかった。
もちろん菜乃華だって、子供ではないのだからわかっている。彼が菜乃華の隣にいて、優しくしてくれるのは、菜乃華が神田堂の店主だからだ。彼にとって菜乃華の相手をすることは仕事としての義務であり、それ以上でも以下でもない。当然ながら、そこに恋愛的な要素が入り込む余地なんてあるはずがない。そんなことは、百も承知だ。
第一、自分は人間で、彼は神様だ。身分どころか存在そのものが違い過ぎる。
ただ、それでも……自分の中で彼の存在が日に日に大きくなっていくのを止めることはできなかった。
だからこそ、彼の隣にいて恥ずかしくない店主になりたいと心から思う。彼が神田堂店主としての自分を必要としてくれるなら、その願いに応えたい。菜乃華が必死になって一人前の店主を目指す理由の一つは、間違いなくこれだった。
「……その目、恋する乙女の目だ」
「え?」
不意に聞こえてきた唯子の呟きで、我に返る。いつの間にか、どっぷりと自分の世界に入り込んでいたようだ。
気が付けば、物思いに耽っていた菜乃華を、唯子が羨ましそうに、かつ恨めしそうに見つめていた。
「ちくしょう! その顔は、やっぱり彼氏なんだな! そうなんだな!」
「い、いや、これは違う! そういうんじゃないから!」
「一人だけ幸せになりやがって、裏切り者め。貴様を討ち取って私も死んでやる~!!」
乱心した唯子が、本気で涙を流しながら迫ってきた。この激情型でどこか芸人チックな性格を直せば、彼氏の一人二人はすぐにできそうな可愛い子なのだが……。天は二物を与えずとはよく言ったものだ。
ともあれ、菜乃華は我を失って嫉妬の鬼と化した親友から全力で逃げるのだった。