菜乃華が神田堂の店主を継いでから、早くも三日が過ぎた。
この間、神田堂を訪れた客はゼロ。神田堂が付喪神の町医者であることを考えれば、これは本来喜ばしいことだ。なぜなら、怪我をした付喪神がいないということだから。
しかし、菜乃華としては自分の初仕事がいつになるのか気になって、何も手につかないといった心境だった。
「そう焦りなさんな。嬢ちゃんは神田堂の店主なんだ。どっしり構えて、待ってりゃいいのさ。それに、最初の仕事の前に本の修復の勉強をする時間が取れて良かったじゃないか」
「それは確かにそうなんですけど……。でも、時間があるからこそ、余計に色々考えちゃうんです。お客様に失礼ないように振る舞えるかなとか、緊張でうまくしゃべれなかったらどうしようとか……。とにかく、色々気になっちゃうんですよ!」
「嬢ちゃんは、店主の鏡だね~。その心持ちは尊敬するぜ。可愛い上に真面目とくれば、看板娘一直線だな」
などという会話を、まんじゅう片手の蔡倫と交わしていたのが昨日のこと。
ちなみにこの後、蔡倫は「だったら尊敬ついでに、お前も菜乃華を見習って真面目に働いてこい」と瑞葉に頭をチョップされていた。まったくもって平常運転、この三日で早くも見慣れた、いつも通りのやり取りである。
蔡倫の言う通り、菜乃華はこの三日間、瑞葉から本の修理の手解きを受けていた。幸い夏休み期間中とあって、時間に融通は利く。朝から夕方まで瑞葉から教えを受けたおかげで、ページの破れや抜け落ちの修復など、基本的な修復方法はそれなりに覚えることができた。
「美術をやっているからか手先も器用だし、筋も良い。これなら、いつ客が来ても大丈夫そうだな」
と、これら初歩の修復については、瑞葉からも合格点をもらっている。
これについては、菜乃華も胸を撫で下ろした。とりあえず、技量による店主失格は免れたようだ。あとは、実際の本番で緊張することなく、実力を発揮できるかどうか……。
そして、その答えは意外とすぐにわかることとなった。
* * *
また本日も太陽が昇り、店主になって四日目の朝。
「あー、今日も暑いなー」
ここのえ商店街のメインストリートを歩きながら、菜乃華は空を見上げる。
青空の天辺では、今日も元気に太陽が輝いていた。まだ午前九時を回ったところだというのに、気温はすでに三十度近い。視線を前に戻してみれば、熱せられたアスファルトから、陽炎が立ち上っていた。
「早くお店に行こう。このままじゃあ、干からびちゃう」
歩く速度を上げ、写真屋と和菓子屋の間の路地へ飛び込む。路地の中は太陽の光が遮られる分、幾分か涼しい。狭くて薄暗い路地も、悪いことばかりではないようだ。
もはやすっかり覚えてしまった道順を頭に思い浮かべ、路地の中を歩く。人避けの迷路となった路地を右へ左へと曲がり、神田堂へと辿り着いた。
「おはようございまーす!」
ガラス戸を開けながら、元気よく挨拶をする。菜乃華の声は作業場である土間を通り抜け、店の奥へと吸い込まれていった。
その時だ。図書館のごとく静かな店内に、騒々しい物音と、次いで慌ただしい足音が響いた。
昨日までとは打って変わり、奥の方が妙に賑やかだ。何事かと思い、居間を目指す。
そうしたら障子が勢いよく開き、何か大きなものが当の居間から飛び出してきた。
「お待ちしていました!」
「うわっ!」
菜乃華の挨拶の三倍くらい大きな声を上げながら、見慣れぬ人影が突進してくる。
恐れをなした菜乃華が後退りすると、飛び出してきた人物が彼女の手を掴んだ。まるで、逃がさないとでもいうように……。
「えっ! あっ! ちょっと!」
そのまま力強く手を引き寄せられ、菜乃華が目を白黒される。野獣とダンスでも踊っているような気分だ。思い切り振り回されて、少し酔いそうである。
ただ、引き寄せられたことで、ようやく相手の顔をしっかりと見ることができた。
相手は、大学生くらいの青年だ。銀縁の眼鏡に、白のシャツと灰色のスラックス。髪は黒くてしっかり整えられている。何とも真面目そうで、落ち着いた出で立ちの青年だ。顔も整っているので、図書館で本でも読んでいれば、さぞかし絵になることだろう。
しかし、落ち着いた風貌とは裏腹に、今は居ても立ってもいられないといった雰囲気で、菜乃華を見つめている。取り乱した様子のあまりにも必死な形相が、少し怖い。
「あのぉ、どちらさまでしょうか……?」
愛想笑いを浮かべて、目と鼻の先にいる青年へ問い掛ける。
しかし、相手も相手で、まったく余裕がないのだろう。青年は菜乃華の問い掛けには答えず、逆に菜乃華を問い質してきた。
「あなたが、神田堂の店主さんですね。そうですよね!」
「そ、そうですけど……」
有無を言わさぬ口調で尋ねられ、菜乃華が何度も頷く。
それを見て取った青年はおもむろに菜乃華の手を放し、
「お願いします! クシャミを――僕の相棒を助けて下さい!」
これ以上ないほどビシッとした、綺麗な土下座を披露したのだった。
この間、神田堂を訪れた客はゼロ。神田堂が付喪神の町医者であることを考えれば、これは本来喜ばしいことだ。なぜなら、怪我をした付喪神がいないということだから。
しかし、菜乃華としては自分の初仕事がいつになるのか気になって、何も手につかないといった心境だった。
「そう焦りなさんな。嬢ちゃんは神田堂の店主なんだ。どっしり構えて、待ってりゃいいのさ。それに、最初の仕事の前に本の修復の勉強をする時間が取れて良かったじゃないか」
「それは確かにそうなんですけど……。でも、時間があるからこそ、余計に色々考えちゃうんです。お客様に失礼ないように振る舞えるかなとか、緊張でうまくしゃべれなかったらどうしようとか……。とにかく、色々気になっちゃうんですよ!」
「嬢ちゃんは、店主の鏡だね~。その心持ちは尊敬するぜ。可愛い上に真面目とくれば、看板娘一直線だな」
などという会話を、まんじゅう片手の蔡倫と交わしていたのが昨日のこと。
ちなみにこの後、蔡倫は「だったら尊敬ついでに、お前も菜乃華を見習って真面目に働いてこい」と瑞葉に頭をチョップされていた。まったくもって平常運転、この三日で早くも見慣れた、いつも通りのやり取りである。
蔡倫の言う通り、菜乃華はこの三日間、瑞葉から本の修理の手解きを受けていた。幸い夏休み期間中とあって、時間に融通は利く。朝から夕方まで瑞葉から教えを受けたおかげで、ページの破れや抜け落ちの修復など、基本的な修復方法はそれなりに覚えることができた。
「美術をやっているからか手先も器用だし、筋も良い。これなら、いつ客が来ても大丈夫そうだな」
と、これら初歩の修復については、瑞葉からも合格点をもらっている。
これについては、菜乃華も胸を撫で下ろした。とりあえず、技量による店主失格は免れたようだ。あとは、実際の本番で緊張することなく、実力を発揮できるかどうか……。
そして、その答えは意外とすぐにわかることとなった。
* * *
また本日も太陽が昇り、店主になって四日目の朝。
「あー、今日も暑いなー」
ここのえ商店街のメインストリートを歩きながら、菜乃華は空を見上げる。
青空の天辺では、今日も元気に太陽が輝いていた。まだ午前九時を回ったところだというのに、気温はすでに三十度近い。視線を前に戻してみれば、熱せられたアスファルトから、陽炎が立ち上っていた。
「早くお店に行こう。このままじゃあ、干からびちゃう」
歩く速度を上げ、写真屋と和菓子屋の間の路地へ飛び込む。路地の中は太陽の光が遮られる分、幾分か涼しい。狭くて薄暗い路地も、悪いことばかりではないようだ。
もはやすっかり覚えてしまった道順を頭に思い浮かべ、路地の中を歩く。人避けの迷路となった路地を右へ左へと曲がり、神田堂へと辿り着いた。
「おはようございまーす!」
ガラス戸を開けながら、元気よく挨拶をする。菜乃華の声は作業場である土間を通り抜け、店の奥へと吸い込まれていった。
その時だ。図書館のごとく静かな店内に、騒々しい物音と、次いで慌ただしい足音が響いた。
昨日までとは打って変わり、奥の方が妙に賑やかだ。何事かと思い、居間を目指す。
そうしたら障子が勢いよく開き、何か大きなものが当の居間から飛び出してきた。
「お待ちしていました!」
「うわっ!」
菜乃華の挨拶の三倍くらい大きな声を上げながら、見慣れぬ人影が突進してくる。
恐れをなした菜乃華が後退りすると、飛び出してきた人物が彼女の手を掴んだ。まるで、逃がさないとでもいうように……。
「えっ! あっ! ちょっと!」
そのまま力強く手を引き寄せられ、菜乃華が目を白黒される。野獣とダンスでも踊っているような気分だ。思い切り振り回されて、少し酔いそうである。
ただ、引き寄せられたことで、ようやく相手の顔をしっかりと見ることができた。
相手は、大学生くらいの青年だ。銀縁の眼鏡に、白のシャツと灰色のスラックス。髪は黒くてしっかり整えられている。何とも真面目そうで、落ち着いた出で立ちの青年だ。顔も整っているので、図書館で本でも読んでいれば、さぞかし絵になることだろう。
しかし、落ち着いた風貌とは裏腹に、今は居ても立ってもいられないといった雰囲気で、菜乃華を見つめている。取り乱した様子のあまりにも必死な形相が、少し怖い。
「あのぉ、どちらさまでしょうか……?」
愛想笑いを浮かべて、目と鼻の先にいる青年へ問い掛ける。
しかし、相手も相手で、まったく余裕がないのだろう。青年は菜乃華の問い掛けには答えず、逆に菜乃華を問い質してきた。
「あなたが、神田堂の店主さんですね。そうですよね!」
「そ、そうですけど……」
有無を言わさぬ口調で尋ねられ、菜乃華が何度も頷く。
それを見て取った青年はおもむろに菜乃華の手を放し、
「お願いします! クシャミを――僕の相棒を助けて下さい!」
これ以上ないほどビシッとした、綺麗な土下座を披露したのだった。