「――ということが、あったんだよ」
「なんだよそれー、私がバカみたいじゃん」

 暑いコートに身を包みながら、珠樹は朝陽に毒づく。彼女が吐いた息は真っ白い蒸気となり、薄暗い夜の空に立ち昇っていった。

「それってつまりさぁ、一緒にいた時間なんて関係なかったってことになるんじゃん」
「そういうことになるのかな」
「どう考えてもそういうことだろ。朝陽は、初めて見た彩ちゃんに一目惚れしたんだから。うわ、私最初から脈なしだったのかよ」

 一目惚れという言葉に、珠樹と手を繋いでいた彩は、頬を赤く染めた。冬の夜中はとても寒いため、彼女の頬はいつも以上に赤く染まっているように見える。

「ねー彩ちゃん、本当にこんなやつでよかったの? 紫乃ちゃんのことを忘れてた、鈍感のサイテー野郎だよ?」
「うん。私も、鈍感だから」
「そうですねぇ。お姉ちゃんも、ありえないぐらい鈍感ですし。とってもお似合いなんじゃないでしょうか?」
「もうっ! 乃々!」

 珠樹とは反対方向の手を繋いでいた乃々がクスクスと笑い、彩は頬だけでなく耳までも真っ赤にして怒り出す。彼女の反応は、見ていて全然飽きなかった。

「お姉ちゃんは鈍感プラスとてもめんどくさいので、乃々的には朝陽さんに、お姉ちゃんでよかったのか聞きたいですね」
「もう乃々、ほんとにやめてって……最近、私もめんどくさい性格してるなって自覚してきたんだから……」
「あれ、おかしいですね。確かちょっと前まで、朝陽くんと同じ大学じゃなきゃやだ……朝陽くんと一緒に学校に通いたいって、乃々に散々言ってた気がするんですけど」
「やめて?! それはバラさないでっ!」

 彩は慌てて手を振りほどき、それ以上余計なことは口走らせないために、乃々の口を両手で塞いだ。

「おい朝陽、こんなに可愛い彼女がここまでお前のことを考えてくれてるんだぞ。同棲するのか? しないのか?」
「えっと……彩がそうしたいなら僕もそれで……それに、共同生活だと生活費もちょっと浮くと思うし……」

 そんな曖昧な返事でも彩はパッと笑顔を見せて喜んだが、珠樹はジト目を向けながら朝陽の足を思い切り蹴った。

「痛っ! なにするの?!」
「テメェ男だろ。はっきりしろこの甲斐性なし!」
「そうですよ朝陽さん。こういうのは初めが肝心なんですから。ハッキリしておかないと、すぐに同棲生活は破綻してしまいます!」

 女の子二人に言い寄られて朝陽はたじろいだが、ここはやはりハッキリ言っておかないとと思い直し、もう一度彩に向き直った。

 彼女はまた、パッと顔が赤くなる。

「彩。年明けに、彩の家へ挨拶に行くよ。その時にちゃんと説明して、納得してもらうから」
「あ、うん……じゃあ私も、明日朝陽くんのご両親に挨拶するね……」
「うわぁリア充だ。なんかムカついてきた。乃々ちゃんはどう思う?」
「乃々は別になんとも思いませんね。あまり恋愛に興味がありませんからっ」

 ハッキリとそう言い切る。ちなみに彼女は、今までの高校二年間のうちに三十人以上の男性に告白をされたが、その全てをバッサリと振っているようだ。

 以前朝陽が再びそれについて聞いてみると、乃々曰く「お姉ちゃんみたいな運命的な恋愛を、乃々もしてみたいですよねぇ」ということらしい。

 つまり興味がないというよりも、シチュエーションを大事にしているのだろうと朝陽は思った。

「でも、お二人にはゴールインしてほしいと思っていますよ。乃々はお姉ちゃん大好きっ子ですし!」
「乃々……ありがとね……」

 彩は瞳に涙を滲ませながら、乃々にお礼を言う。乃々は彩に向けて、ニッコリと微笑んだ。

「あ! おい見えてきた! あそこあそこ!」

 珠樹が先に走り出す。彼女の靴が雪面を踏みしめるたびに、ゴソゴソという音が鳴った。

 彼女に導かれて、朝陽も彩も乃々も走り出す。そして今まで木々に囲まれていた景色は一気に開け、一面薄暗闇の世界が広がった。

 そこからは浜織の町も、綺麗な海も全てを見渡せる。

 もうすぐ、初日の出が上がるのだろう。その日その場所に集まった四人は、その瞬間を待った。

「朝陽くん」

 彩が朝陽の名前を呼び、隣に肩を並べる。

「どうしたの?」
「なんでもない、呼んでみただけ」

 そう言って、彼女はにこりと笑う。

「そういえば、タマちゃんが言ってたの」
「うん」
「朝陽のファーストキスは、この私だからな! って」
「えっ?!」

 朝陽は思わず、向こうで乃々と戯れている珠樹のことを見た。どうやらこちらの話声は聞こえていないらしい。
 そのことにホッとしたのも束の間、彩はがっしりと、朝陽の腕に自分の腕を絡めてきた。

「ねぇ、ファーストキスってなんのこと?」
「あの、目が怖いんだけど……」
「朝陽くんが教えてくれるまでやめない」
「それは、彩の勘違いだよ。珠樹が前に、不意打ちでキスしてきたんだよ。頬に」
「唇じゃなくて?」
「うん」

 誤解を生むような発言をした珠樹のことを、朝陽は遠目で睨む。しかし彼女は全然気付くことなく、乃々と雪合戦をしていた。

「朝陽くん……浮気?」
「浮気じゃないよ?! それに、キスしてきたのは彩と付き合う前だったから……」
「それでも、浮気は浮気だよ」

 嫉妬深い彼女は自分の主張を曲げたりしない。朝陽は降参したとばかりに、小さくため息をついた。

「どうしたら、許してくれる?」
「キスしよ。今、ここで」
「え、ここでっ?!」
「だめ……?」

 彩が上目遣いで見つめてくる。朝陽はもう一度、珠樹たちの方を見た。まだ、彼女たちはこちらに気付いていない。

「じゃ、じゃあ一度だけ……」

 そう言って、朝陽は彩の肩に手を置いた。よく考えれば、一年弱お付き合いをしているのに、一度もキスをしていないのもおかしな話だ。
 朝陽は、彼女の綺麗な瞳を見つめる。
彩は、目を閉じた。朝陽も目を閉じて、彼女のそれに近付けていく。

「見てくださいお姉ちゃん! 朝陽さん! 初日の出ですっ!」
「自撮りしようぜ! 記念写真撮ろうぜ! って! おいお前らアアアアアアアアアア!!!!」

 彼女たちの声がこちらへ届く。
 乃々は、走り出そうとする珠樹のことを必至に押さえつけていた。

 瞬間、世界が優しい金色に包まれる。その眩しさに、朝陽は思わず目を細める。キスをした彩は涙を流し、それは朝日に照らされキラキラと輝きながら、真っ白い雪面に音もなく落ちていく。

 ただ暗いだけだった世界に、明るい光が差し込み始める。仄暗い海面は朝日を反射してオレンジ色の直線を描き、空は青と赤のグラデーションを作り始めた。

 やがてその青はハッキリとしたものに変わっていき、浜織の町を明るく明るく照らし出す。朝日によって、世界が色付いていく。

 あぁ、世界はこんなにも美しい――