あの出来事から数日が経ち、夏休みも終盤に差し掛かったとある頃、朝陽のもとに一件の着信があった。

 スマホの画面には綾坂乃々という名前が表示されており、宿題を進めていた手を止めて、すぐに通話に出た。

「もしもし、乃々さん?」
『朝陽さん、こんにちは。この度は突然の電話になってしまい、誠に申し訳ございません』
「そんなかしこまらなくてもいいよ」
『ですね。少し、丁寧過ぎたかもしれません』

 いつも通りの乃々に安心して、朝陽はくすりと笑みをこぼす。

『朝陽さんのことですから、大好きな大好きなお姉ちゃんのことが気になって気になって、しょうがないのではないでしょうか?』
「ん、まあ、その通りなんだけど……」

 あれから、朝陽は彩を実家へと送り届けた。しかしそれは本当に送り届けただけで、その時は特に長話をせず、すぐに浜織へと帰らなければいけなかった。

 どうしてそんなに慌ただしかったのかというと、それは彩の両親が関係している。彼女を実家へ返すに当たって、朝陽はあらかじめ乃々に連絡を入れていた。

 その時に、彩と乃々の両親が激おこで、警察沙汰になりかけているということを教えてもらったのだ。曰く、娘のことが心配で両親が捜索願いを出しかけていたらしい。

 そのため朝陽が彩といるところを両親に見つかれば、あらぬ誤解を浴びせられるかもしれなかった。

 だから乃々の計らいがあって、すぐに浜織へと戻っていった。その際事態が落ち着いたら、こちらから電話をかけますと言われていた。

 乃々は、もったいつけるようにくすりと笑う。

『乃々は意地悪ですから、ひとまず朝陽さんの近況報告からしてもらいましょうか』
「え、僕?」
『はい。乃々は、朝陽さんに興味がありありですので』

 そう言われて、朝陽はこれまでに起きた出来事を思い返す。しかし、あれから起きた重大な事件は、実は一つだけしかなかった。

「珠樹って幼馴染がいるんだけど、吹奏楽をやってるんだ」
『あーお姉ちゃんが話してましたね。珠樹さんの吹奏楽コンクールを見に行きたかったって。結果はどうだったのでしょうか?』
「本人は絶対に全国行くって意気込んでたんだけど、結局ダメだったらしいんだ」
『それは残念ですね。ちなみに、賞は取ったのでしょうか?』
「うん。まあ、金賞だったんだけど」
『えっ、金賞なのに全国にいけないんですか?』

 朝陽は乃々に、吹奏楽コンクールの仕組みの説明をした。コンクールで金賞を取っても、必ずしも全国へ行けるとは限らないこと。そして全国へ出場できない金賞のことを、ダメ金と呼ぶことを。

 珠樹が所属している吹奏楽部は、今年は残念なことにダメ金であったらしい。

『なるほど、つまりダメ金だったんですか』
「そうだね。まあ、それほど落ち込んではなかったよ。むしろ来年絶対に全国行くって意気込んでた」
『元気な方なんですね。ところで、夏休みの宿題はもう終わりましたか?』
「いや、まだ全然……結構ヤバいかも」
『ダメですねぇ、朝陽さんは。乃々は夏休みが始まる前に、もう終わらせちゃいましたよ?』

 乃々は学校の勉強もできる女の子なのだろう。いつも夏休みギリギリに終わらせる朝陽にとっては、開始前に終わっているのは考えられなかった。

『それじゃあ、もったいぶるのもダメだと思うので、こちらの近況報告をしますね』

 先ほどまでの少しくだけた雰囲気が抜けて、乃々は真面目な声音で話を始めた。

『まず、お姉ちゃんの方から連絡が出来なくて申し訳ありません』
「それは気にしてないよ。何か理由があるんでしょ?」
『はい。実は、お姉ちゃんは現在スマホを没収されてるんです』
「え、没収?」

 それはさすがに予想できていなかったため、朝陽は乃々に聞き返した。

『何日も帰ってこなかったわけですから、お父さんもお母さんもすごく心配してたんですよ。だから、娘に害を与えるかもしれないスマホを没収したんです』
「それは、悪意とかはないんだよね?」
『はい。ちょっと過保護なところがありますけど、それは可愛い娘のことが心配だからだと思いますし、世間一般の家庭とそこまで変わりませんよ』

 それを聞いて、朝陽は安堵した。親子の仲が良くない家庭というのは、世界のどこを探しても必ず存在するだろう。

 麻倉家にとっては考えられない話だが、親が子どもに虐待する家庭も存在する。もし彩がそんな境遇にさらされていたとしたら、朝陽は迷わずに家を飛び出して彼女の元へ向かっていただろう。

『お姉ちゃんが長い間帰ってこなかった理由は、ひとまず乃々が適当にでっち上げました。ですが、お姉ちゃんもかなり精神的に落ち込んでたので、今は精神科に入院してるんです』
「入院中なんだ……」
『とはいっても、ただの検査入院ですので。朝陽さんはそこまで心配にならなくてもいいですよ。乃々がお見舞いに行った時も、お姉ちゃんは普通に笑っていましたし』

 心配するなと言われても、彩のことを思うと居ても立っても居られなくなる。本当に今すぐ家を飛び出したいところだが、ほとぼりが冷めるまでお父さんとお母さんに接触しないほうがいいと乃々に言われていた。

 朝陽が彩の元へと向かったとすれば、かなりの確率で両親と鉢合わせることになってしまうだろう。

「……今すぐじゃなくてもいいからさ、彩さんと電話で話を出来ないかな」
『うわ、あなたたちは本当にお似合いですね』
「えっ?」
『朝陽さんと同じこと、お姉ちゃんに何度も言われてるんです。朝陽くんと話がしたいって、耳が痛くなるぐらい』

 自分のことを彩が求めてくれていることが、朝陽は素直に嬉しかった。それはもしかするとよくない話なのかもしれないが、少なくとも話をしたくないとは思われていないのだから。

『安心してください。乃々が時間を作ってあげますよ。ちょうど明日、お父さんとお母さんが仕事に行かなきゃいけないので、その時に電話をかけたいと思います』
「助かるよ。ありがとう」
『いえいえ、お姉ちゃんがたくさんお世話になったので、これぐらい普通ですよ』

 そうは言っても、乃々には助けられてばかりだった。いつか時間ができたときに、何かお礼をしなければと朝陽は思った。

 そろそろ電話を切り上げようというタイミングで、乃々はまた、真面目な声音で唐突に別の質問をした。

『朝陽さんは、紫乃さんを助けられなかったことに後悔していますか?』

 朝陽の脳裏に、あの花火の日の記憶が蘇る。何も出来ずに、この世界から消えていった紫乃。しかし最後には、ありがとうと言ってくれた。

 いや、何も出来ずにというのは語弊がある。朝陽は最後に、自分の結論を導き出して、逃げずにそれを伝えたのだ。

 僕は君を、救うことができない――と。

「正直、あの日からずっと後悔してるよ。他にもっと、やりようがあったんじゃないかって。でも僕は最終的に、紫乃を助けないという選択をした。だからその選択を、その先の人生を受け入れなきゃいけないんだ」
『人生を受け入れる、ですか?』
「うん。僕は、僕の選択を受け入れる。後悔も、全て受け入れるんだ。そうやって、僕は生きていかなきゃいけないから」

 あの日の後悔から目を背けずに、もう二度と、彼女のことを忘れないように。
君のいない世界を。君だけのいない世界を。

 朝陽は生きていかなければいけないのだ。

『そう、ですか』
「ごめん。乃々さんのことも、巻き込んじゃって」
『いえ、乃々は気にしていませんよ。ただ……』

 そこで乃々は言い淀む。しかしすぐに、また話しを始めた。

『乃々が言っちゃったことで、朝陽さんの意思が変わっちゃってたとしたら、それはとっても悲しいことだと思ったんです。でもそんなことはなくて、乃々はホッとしました』

 おそらく、誰も一番大切な人を失いたくはない、と話してしまったことを気にしているのだろう。あの時、彼女は初めて自分の弱みを見せた。

 その言葉がきっかけで、紫乃を助けずに彩を助けたのだとしたら、決して後味の良いものだとは言えない。

『……でも、あまり一人で多くのものを背負いこまないでください。紫乃さんを助けられなかったのは、解決策を見つけられなかった乃々のせいでもあります。ちょっと酷いことを言いますが、お姉ちゃんが自分の心に引きこもったりしなければ、何かが変わったかもしれません。だから朝陽さん一人で背負いこむのは、やめてください。そうしないと、あなたの心まで壊れてしまうかもしれないから……』

 やはり、乃々は優しい女の子だ。朝陽はその忠告を、心の内にとどめた。

 しかし、結局は全てを背負いこむのだろう。もう紫乃のことから逃げないと、朝陽は誓ったのだから。